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2014年7月27日 (日)

ゆとりと他者

猫の喧嘩をやめさせようとして、攻撃側の猫を抱き上げた瞬間、牙で手のひらをグサリとやられたのが、17日の木曜日の昼間だ。翌日、腫れと痛みがひどいのでお医者へ行き、休診日以外は毎日通院、やっと包帯が取れたのが25日の金曜日だ。通院も、その日で終わり。あとはアクロマイシン軟膏とカットバンで、毎日自分で処理。

犯人の猫は、2011年の春に保護し、このブログにも養育過程をつぶさに書いたプリコちゃんだ。ふだんは決してお馬鹿な猫ではないが、ファイトで興奮しパニクっているときは、他者観を完全に喪失している。

人間の戦争でも、自軍の兵や一般市民の誤射はよくあるらしい。猟師たちも、今自分たちは鹿狩り、猪狩りをしているのだ、と思えば、「金槌を持てば何でも釘に見える」、向こうの木陰でがさっと動いたものを、射ってしまう。それは、仲間の猟師だった。キノコ狩りに来ている老人だった。

欲望と対象が密着していて距離と視界がないとき、他者は完全に忘却される。地震津波常襲地帯の海っぺたに、平気で脆弱な構造の原発を建ててしまう。

あそこに「ユダヤ人の国」を作ろうとしたとき、あそこの土地そのものや、そこに前から暮らしている人たちのことは、最初から完全に忘却されていたのだ。しかも、世紀が変わっても、まだ、必要な「癒やし」ではなく「傷作り」の過程が続いているとは…。

人間は、とくにオトコは、喧嘩中の猫ほどに、大アホである。


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2014年7月16日 (水)

自己の生も死も他者である

自然は他者であり、生も死も自己も自然の一部でしかない。誤解を恐れずに言えば、原発(国の金)で地域が潤っていたことよりも、自然の威力の中で多くの死が発生したことの方が、健全であり愛であり幸福である。自然は、愛である。

他者不在という重要な概念*。そして、それを比喩的に表現する「動物園」への他者の恣意的囲い込み。
*:ココロとアタマの中に他者がきちんとくっきり他者として存在せず、“マニピュレーションの対象物”と化していること。例:自分の子をマニピュレートする教育ママ。

人類はまず、宗教という「神の動物園収容行為」を完全に廃棄する必要がある。

しかし、他者不在も動物園も、わかりにくい、伝わりにくい、という欠点がある。

コメントで、みなさまの名案や迷案を求む。

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日本社会女性軽視の起源

この記事は、記事中の作品がアートであることを感じられない、理解できない人びとのあいだで無駄に読まれているようなので、ここに再掲(リンクのみ)しておく。

アートとは、みんなが目の前に幕がある、壁があると思っていたものを切り開いて、新しい世界や価値観を見せてくれるものだ。

日本はいわゆる先進国中、女性の社会進出が最低と言われる。今のバカ総理の政権が、人為的に操作しても無意味である。オトコが変わらなければ。

そもそも、各地の神社などで、男性性器は豊穣の、あるいは豊作の、シンボルとして尊ばれる。しかしそれは、big lieである。言うまでもなく真の豊穣のシンボルは女性性器でなければならない。理由は、子どもでも分かるだろう。

しかも、男性性器の醜悪滑稽に対して、女性性器は、外見的には「ふつうのもの」でしかない。言い換えるとそれは、意図的に何かしないかぎり、わいせつ物にはなりえない。だから、そのわいせつ視も、(アホなオトコたちによる)差別の一種である。

女性性器を(不必要に)隠蔽しようとする根性に、ヒンズーやイスラムのそれにも似た女性蔑視の根源がある。滑稽で悲惨な、オトコの光景である。

big lieを覆す努力が、逮捕された作者の非力で終ることなく、大きく拡大することを期待したい。何千人もの女性たちによる、白昼の銀座通り、おまんこパレードはどうだろう?

作者のインタビュー記事。まあ、現代の小野洋子といえそう。
関連報道
2012年のインタビュー記事


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2014年7月11日 (金)

世界最高の現役プログラマ14名

この記事は最高におもしろい。最初の一人のぶんの記事の一部を引用すると:

Quotes: “Jon Skeet doesn't need a debugger, he just stares down the bug until the code confesses” Steven A. Lowe -- Jon Skeetにはデバッガが必要ない。彼がコードをじっと見つめていると、やがてコードがバグを告白する。

“When Jon Skeet's code fails to compile the compiler apologises.” Anonymous -- Jon Skeetのコードがコンパイルに失敗すると、コンパイラが謝る。

“Jon Skeet's code doesn't follow a coding convention. It is the coding convention.” Anonymous -- Jon Skeetのコードはプログラミングの一般慣行に従っていない。一般慣行が彼のやり方に従うのだ。

このSkeetさんという人は、プログラマのためのフォーラムStackOverflowで毎月、500近くの質問に答えてあげている、という偉大な人です。

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2014年7月 9日 (水)

またちょいとFerry(Roxy Music)

More Than This

I could feel at the time
There was no way of knowing
Fallen leaves in the night
Who can say where they're blowing?

As free as the wind
Hopefully learning
Why the sea on the tide
Has no way of turning?

More than this, you know there is nothing
More than this, tell me one thing
More than this, there is nothing


CDライナー対訳

その瞬間には感じられたとしても
本当に理解出来たとは限らないんだ
夜に落ちる葉がどこへと舞うかだなんて
一体 誰に答えられるというんだい

風のように自由に生き
そして あらゆることを学んでみたいのさ
海の潮の流れは
なぜ戻って来ないんだろう

これ以上は---もう何も分からない
これ以上を---あと少しだけ教えてくれ
これ以上は---もう何も分からない

試訳

そのとき感じることができた
それを知ることはできないのだと
夜に落ちる木の葉が
どこへ吹かれていくのかを

できれば自由な風のように
知っていたいね
海の潮流はぜったい
Uターンできないのだと
知識は
風のように自由な知識でなければならない
対象に囚われたり固執したりした知ではだめ
それは知ではなく欲でしかないから
(そんな似非知は対象を汚(けが)してしまう==他者不在である)

これ以上のもの、そんなものはないよね
これ以上のもの、一つでも言えるかい
これ以上のもの、それはない
今がすべて

[解説]万物流転(吹かれていく木の葉、流れていく潮(うしお))、それが存在のすべてであり、それ以上とかそれ以外のものはどこを探してもない。しかも人(自己)はそれらと無関係であり、無知(知り得ない)であり、純潔である。流転していくものが(自己の生命も含め)勝手に流転していけばよい、こっちの知ったこっちゃない。吹き飛ばされていく木の葉も、潮の流れも。「風」と「潮流」もまた互いに無関係であり、したがって風は自由である。それが、人(自己)の自由だ。


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2014年7月 6日 (日)

金太郎飴

もう、映画とかドラマとか小説とか音楽の”アルバム”やコンサートとか、なにしろ、対話性や創造的参加性がなくて人の注意力を長時間奪うもんは、全部、死刑にしよう。今、人は、それどころじゃねぇ!!

しかし、たまたまBryan FerryのBoys and GirlsのAmazon上のリビューを見てたら、冒頭曲Sensationの訳はこうなってるらしい:

LP時代: 指一本触れた覚えはない とてもそんな気にはなれなかった。
今のCD: 触れられるとは思えなかったから 必要性を感じていなかったんだ 勇気というものを、ね。

原詩は:

Never seem to touch, ohh babe, temptation
I didn't feel enough motivation
Then I hear you call, ohh babe, sensation
Then I need it all, ohh babe

Oh my love
Oh my love

ざっと訳せば:

誘惑に手を出す流れではない
そんな気分ではなかった
そのときあなたがぼくを呼ぶ声、急に胸騒ぎ
今は完全にその気だ

愛してるよ
愛してるよ

…というわけでこれは、「男と女」というコンセプトアルバムのオープニングである。さあ、その気まんまんになって、これから愛をやるぞぉ!ってわけ。序曲、だね。

まあ、今回は、ひどい訳が気になって書いてしまったが、Ferryは、いつごろからか、金太郎飴みたいに感じるようになってしまった。金太郎飴のあのキッチュでポップなデザインはすばらしいけど、欲しいとか、買いたい、食べたいとは思わない。毎日毎時間、目の前に忙しいことがありすぎて、長時間私の注意力を奪うものは、もお、全然だめなのである(関連記事)。もっと完全に新しい、今の時代を意識した、衝撃的な表現で再デビューしたら、本気で関心持つだろうけど。

でもこないだはTaxiなんて聞いて、やっぱFerryはよろしーな、と思う(感じる)よな、それは、当然ながら。

もうひとつ、死刑は、Kindle本。HTMLやCSSなどが発達して、テキスト表現の構造も、すごく立体的・複線的・多方向的かつ対話的参加的になれるのに、

せっかくのコンピュータの上で、古〜〜〜いリニアな(不便きわまりない!)テキストに付き合わせるなんて、

ばっかみたい。

お前は死刑じゃ。

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2014年7月 2日 (水)

波長が合わへんで

平和憲法(不戦憲法)はもう半世紀近く前から徐々に骨抜きにされて、今の日本には軍隊があるわけですから、軍隊が効率的効果的に役割を発揮すべく、そのためのいろんな枠組みが導入されるのは当たり前。それは、これからももっともっと“本格的”になっていくに決まっている。個々のそれらに、あたふたするのは滑稽だし、無意味、無駄。

根本に戻って、日米安保や自衛隊の憲法違反のThe Big Lieを訴えていくことで、やっと全波長が一致し、反戦勢力は、今のような痩せ犬の遠吠え(==無効果)でなく、真の政治力を持てる。

それが実現するかしないかが、向こう5年ぐらいの正念場。
各県各選挙区の愚民たちと、彼らが選ぶ愚人政治家たちにより、1930年代なみ、あるいはそれ以上の、ひどいド壺にはまっていく可能性も大きい。

それならそれで、どうにも、しょうがないが。(そうなったら、日本国籍を捨てる手はあるかもしれない。)

The Big Lieはすでに、日本社会の相当な部分を腐らせている。

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