ゆとりと他者
猫の喧嘩をやめさせようとして、攻撃側の猫を抱き上げた瞬間、牙で手のひらをグサリとやられたのが、17日の木曜日の昼間だ。翌日、腫れと痛みがひどいのでお医者へ行き、休診日以外は毎日通院、やっと包帯が取れたのが25日の金曜日だ。通院も、その日で終わり。あとはアクロマイシン軟膏とカットバンで、毎日自分で処理。
犯人の猫は、2011年の春に保護し、このブログにも養育過程をつぶさに書いたプリコちゃんだ。ふだんは決してお馬鹿な猫ではないが、ファイトで興奮しパニクっているときは、他者観を完全に喪失している。
人間の戦争でも、自軍の兵や一般市民の誤射はよくあるらしい。猟師たちも、今自分たちは鹿狩り、猪狩りをしているのだ、と思えば、「金槌を持てば何でも釘に見える」、向こうの木陰でがさっと動いたものを、射ってしまう。それは、仲間の猟師だった。キノコ狩りに来ている老人だった。
欲望と対象が密着していて距離と視界がないとき、他者は完全に忘却される。地震津波常襲地帯の海っぺたに、平気で脆弱な構造の原発を建ててしまう。
あそこに「ユダヤ人の国」を作ろうとしたとき、あそこの土地そのものや、そこに前から暮らしている人たちのことは、最初から完全に忘却されていたのだ。しかも、世紀が変わっても、まだ、必要な「癒やし」ではなく「傷作り」の過程が続いているとは…。
人間は、とくにオトコは、喧嘩中の猫ほどに、大アホである。
| 固定リンク | コメント (32) | トラックバック (0)
最近のコメント