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2014年4月28日 (月)

値上げラッシュ

原料を輸入に依存しているものが多いから当然だが、いろんなものが値上がりしてる。最近露骨に響くのは、犬猫関連、フードや猫砂などだ。アベノリスクスで潤っているのは、輸出依存度の高い一部の企業だけのはず。でも彼らだって、円安がネガティブに響いてくるのは時間の問題。それが50%以上の支持率とは、どーゆーこと? 

往時のヒトラーにそっくりのやり方、と言われているが、そのヒトラーの擡頭を支えたのも衆愚でしょう。

50%あまりの不可解な人たちは、一体、何を期待しているのか?

ヤバさの足元を見ずに、ヤバさ不安が、上の方に、つかむロープを期待しているのだろう。ヒトラーも、まさに、そんなロープに見えたのだ。もちろん、何一つ、期待通りにはならなかったのだが。

アベ期待もまさに、そんな、空虚な期待だ。みんな、足元を見ないから、空虚であることに気がつかない。

なんかおそろしいが、昔と違って今は、いざとなれば強力な抑止力…おバカ政権に対するフェイルセーフ…もある、と思いたい。

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2014年4月27日 (日)

車のフェイルセーフ

フェイルセーフの最大の問題点は、それが産業の基盤常識として普及実装されていないこと。

近くの町で、おじいさんが4歳の孫娘を轢いて死亡させた。

この場合のフェイルセーフとは、車の進行方向(この場合はバック)30センチ以内に物体があったら、発進/進行できないことだ。セダンでもハッチバックでも、小さな幼児はバックミラー(リアヴューミラー)にとって死角だ。

情報系と車の動的機構との、前者が後者をコントロールする仕組みは、非常に遅れている。ほとんどが、運転者という人間の注意力と反射神経という、きわめてあやふやなものに、いまだにまかせられきっている。しかも、死角がある。

ほんで、当面可能なのは、車のバックの下部に無線送信機能のある広角カメラを附着させ、車がバックしようとしたらナビの画面や専用モニタにそのカメラの像が映ることだ。これなら個人やそこらの零細電子屋さんでもプロトタイプまでなら作れる。これが普及すれば、おじいさんは自分の車のうしろで孫娘がウロウロしていることを、十分に認識できたはずだ。

まったく電子工作音痴の人は、スマホとタブレットを買って、前者をカメラとして車に貼り付けること。そして画像のタブレットへの送信は近距離無線Bluetooth、またはUstream的なWebサービスを利用するとよい。

非常に広範なフェイルセーフ産業は、非常に広範な大規模な起業機会と新規雇用を生むだろう。

車の製造コスト~価格が安いことの社会的費用が、孫娘の命程度なら許容できるという考えが大勢なら、フェイルセーフという思想は、ゴミ箱行きとなる。

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2014年4月21日 (月)

再びフェイルセーフ

今回の韓国近海での客船の転覆事故は、乗り物の乱暴運転という点で、尼崎の列車脱線事故を思い出させる。ただし乱暴の要素が、今回のは相当多い。

その多い要素の中で、事故の直接のトリガとなったのは、大型積荷の無繋留だったと思われる。

大型ローテクにはフェイルセーフの導入を、と再度言いたい。企業の財務としてそれは無理なら、国の責任としてやるべきだ。単なる貨物室よりは、急傾斜時に重心が傾斜方向へ移動しない、あるいは、逆の相殺方向へ移動する貨物室は、もちろん、製造コストは相当高い。が、そのコストを、事故時の人命と天秤にかけるべきでもない。

もうひとつ、理論的、あるいは実験室レベルで成功した技術と、社会内および環境内/自然環境内に実装してよい技術を短絡しないこと。原発など核エネルギー技術や遺伝子操作技術(など)は、まだ、現実内への実装のゴーサインを出してよい技術ではない。一般内燃機関→自動車、という実装も、現状は実装環境が粗放・粗暴すぎる(これを)。

技術の実実装に対する検定は、比喩として言うと、お腹に赤ちゃんをかかえた女性がやるべきだ。粗暴なオトコではなく。

本日の共有:
アメリカの貧困の話
破産したMt. Gox CEOのお母さんの話

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2014年4月20日 (日)

農業とは何か

ものすごく大雑把に言うと、記録されるようになってから以降の人類の歴史は、農業民族による狩猟や遊牧民の駆逐だ。たとえば「古事記」なんて(子どものころ読んだだけなので漠然とした印象にすぎないが)、今の天皇の先祖の軍勢による、そのための遠征談だろう。ヨーロッパ人によるアメリカ大陸簒奪しかり、今イスラエル人がパレスチナ人の住んでるところに団地を建てて”入植”してるのもしかり。

それで、コミュニケーションという問題意識からの懸念は、そもそも自然は自然のものであり、人間などの“所有物”ではないはずのものが、農業の勢力拡大により「土地の所有」という概念が生まれたこと。

そしてまた、狩猟や遊牧に比べて単位リソース(土地面積、労働力)あたりの生産量が多いから、扶養可能人口が多くて、生産に必要ない、あるいは土地を持てない、という意味での余剰人口を大量に作り出したこと。

しかもその土地が、先住民や大自然から“奪った”土地であること。

今更、農業そのものを否定するつもりはないが、その「論理的基礎」の部分に、コミュニケーション不能の原因となる粗放がある、と感じられる。

たとえば、せめて、せめて、土地は、“所有する”ものではなくて、”シェアする”ものであるべきなのではないか?

やさしさをベースとして、何らかの形での、歴史のやり直しが、いずれ必要かつ実行可能になるかもしれない。

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Twitterパスワードリセット

今朝Twitterから来た以下の連絡は、私の“なりすまし”のアカウントに関してである。なりすましを別の言葉で言えば、最初から乗っ取られているアカウントだ。この連絡が、本物のTwitterからでなかったなら、犯罪そのものだけど、そのへんは確認していない。無視、である。

Twitterと関係ないサービスやウェブサイトによって、このアカウントは乗っ取られている危険性が高いと判断いたしました。他の人がこのアカウントへアクセスしてしまうことを防ぐため、アカウントのパスワードをリセットしました お手数ですが、新しいパスワードを設定してください。以下のリンクで新しいパスワードを選択できます。

ちなみにFacebookも、スパムやアカウント盗みに遭って以来、アカウントを完全削除した。Facebookは、アカウントの休眠は簡単にできるが、完全削除はややこしい。しかもFacebook上に明記がないので、Googleで調べなければならないとは、最悪!

Twitterは、私の本物のアカウントからの投稿(ツイート)は、2012年4月1日が最後だ。

というわけで今の私は、TwitterともFacebookとも無縁なので、その上に存在する私は、すべてニセモノである。

両サービスとも、ユーザ数は「億」のオーダーになってるが、見ず知らずの巨大サーバに自分のアイデンティティを平気で預ける神経は、おとろしい。

Googleも巨大サーバだけど、(少なくともこれまでは)かろうじて許せるのは、検索結果に代表されるようなファーストパーティ(==オリジナル)コンテンツの提供が主で、しかもその中身がWeb上の公開情報だからだね。個人のアイデンティティ情報は原則として扱わない。でも、それも、Google+の登場以降、どうなるやら分からない。

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2014年4月17日 (木)

外来種

これまでの人類は、コミュニケーション不能をその最大の特徴とするところの、たいへん劣悪な下等動物である。

コミュニケーション不能に関しては、戦争などのほかに、貨幣制度という、その存立のために世界中に大量の悲惨な人びとの存在を絶対的に必要とする病的なリソース配分方式の悪と害もきわめて大きい(関連稿)。

コミュニケーション不能の基盤となっている心性は、「他者不在」すなわち、他者という概念が心中脳中にしっかり確立していなくて、視界宇宙内のものをすべて、object、すなわち自己の自由可処分財(というか可処分材)とみなす状態である。

ここでは、自然が他者でない、自由可処分材として処遇されている例として、「外来種」という概念、そして、外来種は環境保護のために駆逐しなければならない、という考えを取り上げよう。

そもそも、この日本国の生態系は、何千何万年も前から一定であったはずはない。いろんな気象条件や、風が運ぶもの、波や漂流物が運ぶもの、ときには人間も含む動物が運ぶものによって、どんどん変わっていったはずだ。絶えざる変化こそが、自然というものの恒常態だ。

だから今、外来種というラベルのもとに忌み嫌われている種は、そういう、当たり前の変化の一環にすぎない。自然を自己の自由可処分材として遇するの、極端に分かりやすい例として、海辺に原発を作った(設計した)とき、なぜ、津波の高さの上限を5メートルとしたのか。自然は、5メートルなどという勝手な言い分を、聞き入れてはくれない。それが当たり前だ。

外来種、外来種だから駆逐せよ、も、まさにこの勝手な思考パターンである。人間も、ごくひ弱な、自然の一部にすぎないのだから、大自然の変動に柔軟に合わせて、一緒にダンスするぐらいの気持ちで接していないと、しっぺ返しを喰らうのである。生きていくうえでいろんな人工物は必要としても、それらの設計は、反自然的に自然をコントロールしよう、自然に対抗しよう、とするそれでは、逆に、災害を招いてしまうのだ。外来種の駆逐は、おだやかな場合ですら、余計なコストを発生させる。薬剤など使えば、本格的な実害が生ずる。

海で溺れそうなときも、海に逆らう気持ちでパニクったりすると、本当に溺れてしまう。落ち着いて、呼吸、潜水、泳ぎのペースを維持しながら、いちばん近い保持物を探すのがよい。本当の大災害では、そうもいかないことも多いが、そのときの本当の問題は個人の対海態度を超えた、大災害の発生原因の方にある。

大災害の多くは、自然に逆らうことから来る。自然は、どんどん変化していくものだから、変化に逆らわない生き方を、人間社会は身につける必要がある。自然は愛である。人間の側が愛ならば。

貨幣への固執が、往々にして反自然的な生き方を強いているようでもある。その点でも人類は、貨幣というディスコミュニケーションの権化を、廃する必要がある。

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2014年4月13日 (日)

またまたおなじみ「日本村人のコミュニケーションレス」(2)

なんか、年寄りではなく若い人でも、自分の言語観(感)/言語価値観を絶対視して、ほかの人の文章や言葉遣いを否定する人がけっこういるのには驚きだ。このテーマについては、このブログでも何度か取り上げてきたし、以前のエッセイ集にも関連する議論がある。でもなかなか、こういう「言語の他者性」という観点は、広く普及しない。

むしろ、1950年代以降に生まれた日本人の多くは、大きな悲惨なショックを経験してないぶん、退化しているのではないか、と感じることも多い。

他者・他者性の存在と認識を前提とする論理的思考力の発達がゼロの人は、自分の目の前に広がる視界が、唯一の世界であり宇宙だ。これまでの、あらゆる宗教、哲学、世俗知などが前提してきた世界/宇宙が、まさにこの、単一世界単一宇宙だ。他者性に基づく、複数性がない。

で、この視界宇宙の中では、すべてのものが、視界内の物、オブジェクトでしかない。立ってるものが、人間でも電信柱でも、単純に同格に物、オブジェクトである。で、その宇宙の円満な調和を乱すやつ、たとえば、自分の言語観言語価値観に違反している言葉遣いとそれをするやつは、汚物として否定しなければならない。

しかし、コミュニケーション有能性の前提となる、正しい宇宙、すなわち複数性の宇宙においては、ほかの人間や生き物は、objectではなくて、another subject、すなわち自分とは違う、別個の主体である。それらに対しては、自分の価値観なんか通用する保証はまったくない。自分の価値観を強制するのは、失礼である。むしろ、他者が自分とは全然違うことを理解し、リスペクトしなければならない。

そこから、日本人(等の)コミュニケーションレスからの脱却、成長が始まる。

※かつてこの記事でシェアした企業再生ストーリーの主人公(もちろん、頭も心も醜いオトコではなく女性)は、その中でこう言っている:"たとえば「女優」というありふれた言葉でも、その抱く意味、イメージ、ニュアンス等は人それぞれで違っている。したがって社員とのコミュニケーションは、一人一人べつべつにやらなきゃだめ」。この方はまさに、このブログが展開しているコミュニケーション論の重要部分を、すでに現場で実践しておられるのだ。すごい!!


(本稿未完)


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2014年4月 6日 (日)

またまたおなじみ「日本村人のコミュニケーションレス」

子どもの教科書に、いくつかの島が日本の固有領土であると記載させるのなら、同時に、その理由・根拠(国際社会や今後の国際司法が納得しそうなもの)の明記を義務化していただきたい。また、領土権を主張するほかの国たちの論理も。でないとその教科書はまたまた、世界に対してコミュニケーションレスの愚民を多く作り、使い捨て兵士という名の消耗品として使いやすい人びとを、量産する。それが、現政府やバカ総理のねらいなのだろうが。

正しい教科書の書き方は、「今~~~で係争があり、それらの平和的な解決が待たれる」である。一方的な領土主張は、いやしくも教科書に書かれるべきセンテンスではない。コミュニケーションレスのアホどもだからこそ、そんな愚行が平気でできる。

下の写真は、(もちろん国家悪被害のごく一例にすぎないが)私の母親の家族である(クリックするとやや大きな画像を見られる):

Img_00031

後方左の二名は、私の母親となる人の兄たちであり、二人共戦死した(WW2のイントロである“支那事変”ではないかと思われる)。軍服を着た(写真館の衣装を着せられた)出征記念の写真もあるが、かわいそうすぎて、正視にたえない。なんでこんな若い好青年が、国家悪の手先として、むざむざと無意味な人殺しとしての死を死ななければならないのか。交通事故よりも、もっとひどい。

私が直接の親族なら、大義なき(というか不正義の)戦争で二人を殺した国家を告訴するだろう。もちろんその目的は金ではなく、全世界と全日本人への明示的な謝罪である。

今後、たとえ悪が先方にあろうとも、その解決に武力を用いないのが、平和憲法の趣旨である。だから、軍隊を持つことは違法である。自衛隊は、誰が見ても軍隊である。

問題をコミュニケーションによって解決する意思と能力のないニッポン村人たち、とくにオトコの光景たちが、無限に、愚に愚を重ねようとしている。そういう連中にはしょせん、平和憲法は豚に真珠なのであった。

しかし、愚のスケールが巨大化する前に、体制の抜本的な変化が必要である。


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