これまでの人類は、コミュニケーション不能をその最大の特徴とするところの、たいへん劣悪な下等動物である。
コミュニケーション不能に関しては、戦争などのほかに、貨幣制度という、その存立のために世界中に大量の悲惨な人びとの存在を絶対的に必要とする病的なリソース配分方式の悪と害もきわめて大きい(関連稿)。
コミュニケーション不能の基盤となっている心性は、「他者不在」すなわち、他者という概念が心中脳中にしっかり確立していなくて、視界宇宙内のものをすべて、object、すなわち自己の自由可処分財(というか可処分材)とみなす状態である。
ここでは、自然が他者でない、自由可処分材として処遇されている例として、「外来種」という概念、そして、外来種は環境保護のために駆逐しなければならない、という考えを取り上げよう。
そもそも、この日本国の生態系は、何千何万年も前から一定であったはずはない。いろんな気象条件や、風が運ぶもの、波や漂流物が運ぶもの、ときには人間も含む動物が運ぶものによって、どんどん変わっていったはずだ。絶えざる変化こそが、自然というものの恒常態だ。
だから今、外来種というラベルのもとに忌み嫌われている種は、そういう、当たり前の変化の一環にすぎない。自然を自己の自由可処分材として遇するの、極端に分かりやすい例として、海辺に原発を作った(設計した)とき、なぜ、津波の高さの上限を5メートルとしたのか。自然は、5メートルなどという勝手な言い分を、聞き入れてはくれない。それが当たり前だ。
外来種、外来種だから駆逐せよ、も、まさにこの勝手な思考パターンである。人間も、ごくひ弱な、自然の一部にすぎないのだから、大自然の変動に柔軟に合わせて、一緒にダンスするぐらいの気持ちで接していないと、しっぺ返しを喰らうのである。生きていくうえでいろんな人工物は必要としても、それらの設計は、反自然的に自然をコントロールしよう、自然に対抗しよう、とするそれでは、逆に、災害を招いてしまうのだ。外来種の駆逐は、おだやかな場合ですら、余計なコストを発生させる。薬剤など使えば、本格的な実害が生ずる。
海で溺れそうなときも、海に逆らう気持ちでパニクったりすると、本当に溺れてしまう。落ち着いて、呼吸、潜水、泳ぎのペースを維持しながら、いちばん近い保持物を探すのがよい。本当の大災害では、そうもいかないことも多いが、そのときの本当の問題は個人の対海態度を超えた、大災害の発生原因の方にある。
大災害の多くは、自然に逆らうことから来る。自然は、どんどん変化していくものだから、変化に逆らわない生き方を、人間社会は身につける必要がある。自然は愛である。人間の側が愛ならば。
貨幣への固執が、往々にして反自然的な生き方を強いているようでもある。その点でも人類は、貨幣というディスコミュニケーションの権化を、廃する必要がある。
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