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2014年3月 2日 (日)

クッションがなくなったコンクリートむき出し貨幣経済(==差異)社会

今回はこの記事を共有しよう。この前の「コミュニケーションで蘇生した会社」もそうだったが、これもライターは女性だ。ここで扱われている映画やその原作小説そのものよりも、ライターとしての視点や視角のクォリティが高い。

児童虐待は悪いに決まってるけど、その原因もやはり、むき出し社会における、限界ライン以下の貧困だからな。

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コメント

子供時分からとても不思議だったことのひとつに「昔褒めの連鎖」があります。1930年代半ば生まれの人は50年代のあの頃(みんな白いシャツを着て大学野球など見に行った)は良かったと言い、40年代生まれの人は60年代(反戦運動や学園紛争の時代)を懐かしむのです。

1960年生まれの私はずっと無気力で、団塊世代の人々に「だからお前達はダメなんだ!」と罵倒され続けて育ったように思います。ところが、この映画の監督さんと原作者さん(1958、63年生まれで私とほぼ同世代)は、驚くべきことに、1980年代は今と比べてまだ良かったと感じておられるようです。

私のようなオールド・ロックファンにとっては、80年代なんて「な〜んにもね〜」時代でまったくの空白期なのですが、そんなことより、この監督さんの20代の娘さんが「別に…」とおっしゃる感覚のほうが私にはとてもよく理解できます。

同類の無気力な人々が増えてくれるのはありがたいことですが、この「別に…」の根底には、年長世代の「昔褒め」に対する懐疑があると思われます。あの頃(80年代)はまだ未来への希望があり「夢を語れた」とこの監督さんもおっしゃいますが、我々無気力派から見ると、「それはまったくの幻想だったのではないですか?」ということになるのです。

いかなる希望も持たない状態を絶望と呼ぶなら、こうした「絶望をどこまで徹底できるか」が「昔褒めの連鎖」を断ち切る唯一の「希望」なのかもしれません。こうした徹底の砥石となるのが「むき出し」経済の背景にあるグローバル化なのでしょう。してみれば、まさにこの絶望こそ「自由」の別名であるというほかありません。

投稿: iris60 | 2014年3月 3日 (月) 12時01分

映画を見てないからなのか、このみわさんのどこがすごいのか、わかんねぇ〜。

投稿: せいじ しん坊 | 2014年3月 3日 (月) 22時28分

また貨幣経済が原因のアホな事件が千葉で起きた。僕も東京にいた頃は一日千円の生活やったな。

投稿: bad | 2014年3月 6日 (木) 19時21分

iふと思ったんですが、手術をして人命を救う
仕事と飲食店でヤキソバを作る仕事が、等価
なのでしょうか。貨幣(差異)をなくすとし
たらそういうことでしょ。それは自分も含
めて多くの人が認めないんじゃないかと思
う。

投稿: せいじ しん坊 | 2014年3月 7日 (金) 01時54分

@せいじ しん坊様
あくまで参考程度にお読みいただければ…。

手術とヤキソバ焼きの価値の差は「わからない」というのが本当ではないでしょうか?

価値の評価には多様なモノサシがあり、単純な比較は不可能です。比較不可能なものを、エイヤっと無理やり一意的に評価しようとして参照されがちなのが「価格」ですが、これは価値そのものとは別のものです。

価格は希少価値や独占によって釣り上がるので、誰にでもできそうに思われるヤキソバ焼きよりも、手術のほうが高価になります。価格が高いと、それがもつ価値も高いと思われがちになります。

いやそれだけではない、という反論があるでしょう。手術は命を救うから、ヤキソバ焼きより価値が高いのだ、と。ごもっともですが、これも見方によって評価が変わるかもしれません。

いわゆる「ご当地ヤキソバ」が各地で花盛りなのは、ヤキソバ焼きが(レシピさえ決めてしまえば)誰にでも、どんなイベントでも参加者を募ることができるような親しみを感じさせるがゆえに、街おこしにうってつけと思えるからではないでしょうか? もし、これが極めて高度な包丁さばきを必要とする料理だったら、そうはなかなか盛り上がりそうもない。

高度な外科手術も、たまたまそれを必要とする事故や病人が一件も出なければ、出番がないわけです。

いや、たまたまその時、その場所で出番がなかったとしても、高度医療が牽引する技術革新が経済全体にもたらす波及効果は、ヤキソバによる街おこしなんぞとは比較にならぬほど大きい、という再反論もありえます。

けれども、経済効果という視点を離れて、本来は無償の行為としての労働の方が価値が高いのだ、という議論もあり得ます。家事は基本的に無償の行為です。ボランティアによる困窮者向けの食料配布活動などを「偉大な活動」と呼ぶような言説がメディアに出るのは、こうした無償の行為をより高く評価する感覚が、今でもかなり多くの人々の意識に残っていることの現れと思われます。

投稿: iris60 | 2014年3月 7日 (金) 11時30分

@iris60さま
ありがとーごぜーます。即答してもらえて本
当にありがとうございます。読ませてもらい
いろんな側面から捉えられる問題と思いまし
た。
私の率直な感想は「人を助けたい、人命を救
うのが生きがいだ。」という一点のみで、
「他の特別な報酬はいらないぜ」的な人は、
この世にいないと思います。やはりその努力
に見合うだけのものがないと、人は動けない
と思う。それは仕方ないというより当然の動
機だと思われる。
問題はその得た金銭をどうするかである。私
財として貯蓄するか、投資会社に預けて運用
するか。それはダメじゃないでしょうか。無
知な自分がこんなことを書くのも、恐れ多い
ができる限り市場に戻して欲しいと思う。高
価なものを買うのも良いし、どこかに寄付す
るのもステキだし。ここは大きい度量を持っ
て「おたがい様」精神を発揮して、金銭がと
どまるのを防止してほしいものである。
「かねは天下の回りもの」的なお気楽さが実質
的に実現すれば、庶民も物心共に豊かに暮らせ
るのではないか。ほんとかなぁー。

投稿: せいじ しん坊 | 2014年3月 7日 (金) 22時23分

@せいじ しん坊様
お説の通り、お金持ちは貯蓄より消費に励んだ方が経済全体にとってプラスになると、ケインズが「雇用、利子、貨幣の一般理論」の第24章で述べています。

そしてさらに続けて、「人間の活動にはお金儲けというインセンティブが必要なのでは?」という点について述べている部分があります。ご参考までに、山形浩生訳: http://genpaku.org/generaltheory/general24.html からコピペし、便宜上4分割して番号を振りました。
1)では、ケインズは、動機としての金儲けや、富の偏在をひとまず承認しています。
2)は、金儲けへの情熱の傾注が、他のもっと残酷な“force”の発露の代替物となり得ると述べています。これはおそらく、当時(1930年代)のソ連社会主義より自由主義のほうがマシですよと言っているのでしょうが、現在にも当てはまるかどうかは意見が別れるかもしれません。マネーの“force”が当時より圧倒的かつ残酷になっていると見るか、それとも、イスラム原理主義のような復古よりはグローバル自由主義のほうがまだマシと見るか?
3)マネーゲームの存在は認めた上で、その賭け金を下げようと言っています。ナルホドこれは良い考えと思いますが、でもどうやって?
4)貨幣経済の廃棄が人類の願いであるとしても、今直ちには可能でないとすれば、当面の政策として賢明なのはどのような道かを説いています。

では、以下がそのコピペです…

1)私はといえば、私は所得や富のかなりの格差については社会的心理的な正当化ができると考えていますが、でも今日存在するほどの大きな格差は正当化できないと考えます。価値ある人間活動の一部は、金儲けという動機を必要としたり、個人の富の所有がないと完全に花開くことはできなかったりします。

2)さらに、人間の危険な性向も、金儲けと個人の富の機会があると、比較的無害な方向に昇華できます。そうした形で満たされなければ、そうした性向は残酷な活動や、個人の権力や権威の無軌道な追求など、各種の自己強大化に出口を見いだしかねません。人が市民仲間を強権支配するよりは、己の銀行口座を強権支配するほうがましです。そして銀行口座の強権支配は市民仲間の支配の手段でしかないと糾弾されることもありますが。少なくとも時には銀行口座が身代わりになってくれることもあるのです。

3)でも今日ほどの高い掛け金でこのゲームが実施されているのは、そうした活動の刺激や、そうした性向の満足のためだけでは必ずしもありません。ずっと掛け金が低くても、プレーヤーたちがそれに慣れてしまえば、同じ目的は十分に実現できます。

4)人間性を変えるという作業と、それを管理するという作業とを混同してはいけません。理想的な共同体においては、人はそうした掛け金に一切興味を示さないよう教わったり指導されたり育てられたりするかもしれません。それでも平均的な人や、社会のそれなりの部分だけでも、お金儲けの情熱に強く中毒しているのであれば、そのゲームの実施は許し、ただルールと制限は設けるだけにするのが、賢く堅実な国家運営というものでしょう。

投稿: iris60 | 2014年3月 8日 (土) 21時47分

 ありがうとございます。
私が気になった部分は「お金儲けの情熱に強く中毒し
ているのであれば・・」です。そういう人たちは、強
い権力志向の持ち主でしょう。とにかく生きている間
「思うようにやりたい。人を従わせたい。」と望んで
いるんでしょう。そこが自他共に不毛・不幸だと思う
のです。
 そして最初の問題、手術の技術と焼きそば造りの技
術は、等価であるかに、立ち返ってみましょう。私も
irisさんの言うように「わからない」が正解だと思
います。価値を比較するには基準が必要ですが、その
基準を設定することが不可能だからです。人間にはす
べてのdetailについて見通す能力もないし、捉え
る方向も千差万別です。
 しかし両者が実践できるまでにかかる労力や時間
は、あきらかに差異はあります。ここらへんが難しい
点だと思います。私としては志を立てそれに費やした
努力は正当に評価されるべきだと思うし、そうでない
とやれないでしょう。だからそこを便宜上の価格とい
う形で評価しましょう、ということなんです。そして
高収入を得た人は、消費に回して実体経済に貢献して
ね、ということです。
 あまりにもいいかげんな意見で申し訳ない。(「便
宜上の価格ってのは、だれがきめるんだ!」)etc,etc.

投稿: せいじ しん坊 | 2014年3月 8日 (土) 23時44分

[追伸]上記の「とにかく生きている間」を「生きている間でしかないのに」に変更して
ください。

投稿: せいじ しん坊 | 2014年3月 8日 (土) 23時59分

相変わらず現実はコミュニケーション
へと開かれず、権力的な関係があるだ
けだ。

投稿: bad | 2014年3月12日 (水) 13時43分

貨幣経済の難点といえば、金を多くもっていれば幸福だとは、必ずしも言えない所かな。

投稿: bad | 2014年7月31日 (木) 16時31分

そうですよね、大金になればなるほど何らかの負の影を引きずっている感じしますよね。だから、持っていても安心できない、気まずい、心配というのが拭えないかもしれないよねー。ウン億円もってたら、やる気起きないかもしれないし、暴落するのも心配だしってね。カネに心を奪われるってか。

投稿: ohiya | 2014年7月31日 (木) 22時18分

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