自由の厳しさ
ほかの生物を、「本能」と呼ばれる無自由、既定性の枠の中で生きていく、と大雑把にとりあえず言ってしまうと、人間のみは自由であり、自らの生を導く既定性がない。
その自由の中にはありとあらゆる自由があり、「間違う自由」もあれば「バカである自由」もある。
当ブログのコメントの常連の一人である南氏は、「人間は幸福になろうと思えばなれるのに、これまで一度も、幸福になろうと思い、そう行動したことがない」という意味の発言を何度かしておられる。
でも人間の幸福とは、その自由が選び取るものであり、本能のように既定性として与えられることはない。
(もちろん、どこかの強権が“強制する幸福”もありえない。)
だから、人間の自由はとても厳しい。
「間違わない自由」や「賢くある自由」は、歴史知から徐々に形成されるかもしれない。しかし、後代は往々にして、遺伝子の主要部分集合が先祖返りしてしまったような人物が集団のリーダーとなって、おめおめと、同じ間違いへ突っ走ってしまうこともある。しかしそうなるのもまた、“自由”なのだ。
10年近く前、庭にユズとカボスの苗木を植えたら、ユズの方は多数のキアゲハの幼虫に葉をすべて食われて死んでしまった。しかし、食い物のなくなった大量の幼虫たちも、サナギ化を迎えることなく全滅した。でもこれは、親キアゲハの「間違える」自由のもたらした結果とは呼べない。
そもそも、「間違える」とは、歴史に属する概念だ。歴史知は(たぶん)人間にしかない。だが、歴史を学ぶ自由とともに、学ばない自由もある。歴史の多様な解釈、と呼ばれる自由もある。
というわけで人間は、自由という、厄介なものに翻弄されながら、これからもしばらくは、惨事の多い凸凹道をドッスンバッタンと歩んでいくのだろう。
自由が選ぶ幸福という王冠の、価値をますます鮮明に高めるために。
[本稿未完]
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