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2013年12月31日 (火)

今度は株ミニバブル

国の指導者がバカだと、国民は悲惨のどん底へと落ちていく。その例は歴史上枚挙に暇(いとま)ないし、今の地球上にもその相当ひどい例がいくつかある。で、某国のあのバカ総理も、今後その政権がかなり長く続けばやばい。なんでもいいから、早く代わってほしい!。

この人のバカは、一体どこまでバカなのだろう、と思わせるぐらい、底なしのバカであるようだ。半年あまり前、当ブログに、アベノミクスはミニバブルだと題する小文を書いたけれど、今はどうやら、目立つ現象として、株式ミニバブルがあるようだ。それを自覚することなく、「アベノミクスは正しかった」(←逐語引用ではない)などと自画自賛している。

われわれ貧乏庶民は、身の回りの生活用消費財が次々値上がりして困っているだけだが、仮に私が、何十億何百億という「円」を保有、あるいは運用責任を持ってあずかっている身ならどうか。今、その「円」は、「円」という通貨の状態で保有することはできない。ゆるされない。一刻も早く、「円」よりは価値が安定していると思われる財に換えなければならない。今「円」のままでずーっと持っている人は、アホか不注意者である。当然、証券とか土地とか貴金属などにリスク分散させるだろう。

今の株価上昇はしたがって、既存の産業や新興の産業が、売上など、急にものすごく経営状態が良くなってor良くなりそうで上がっているのではない。実体のない高価格、すなわちバブルである。

一部の輸出企業の円インフレ~円安効果と、それの、下請け等への波及効果をもって、GDP増を演出するなど、タネが最初からバレている手品だ。それをまた、メディアが批判もせずにもてはやすから、そんな光景を見る者の疲労は深まる。

灯油一缶950円だったが(それでもすでに高いが)、新年早々1000円を越すらしい。庶民の生活の困窮を招き、それを見ぬままの自画自賛、ほんとにどこかのおバカ世襲元首やおバカ世襲大統領に、とってもよーく似てきたぞ。ほんまに、やばいわ。

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2013年12月30日 (月)

「環境学」と「コミュニケーション学」の関係

環境が明示的なissueとして人類の意識のかなり表立った部分で明示的に取り扱われるようになったのは(諸説はあるが)1960年代である。

では、コミュニケーションはいつごろどうやって、環境と同じように人類(ほぼ)全体のメジャーなissueとして意識され自覚され語りあわれるようになるのか? その具体的な展望を今語ることは、誰にもできない。今の現状は、それは無でありゼロである。全世界的に見ても、このブログが唯一の(きわめて非力な)問題提起としてあるぐらいのものだ。今は、全人類の99.9999999.....%に、コミュニケーションという問題意識はない。

しかし、この現状における卑近の重要な問題は、コミュニケーションを全面的前面的に強力に意識自覚しないかぎり環境保護への取り組みは最終的に失敗に終わるという点である。

コミュニケーションへの明示的な取り組みの最重要の前提が、意識中の他者顕在である。貨幣は、この顕在を永遠に隠蔽し圧殺し続ける。貨幣経済下では、他者が他者であることができない。

「他者」は本ブログが展開しているコミュニケーション学/コミュニケーション理論において、とびきり最重要な概念の一つである。最近ここを読み始めた方は、Google検索で:

他者: site:alga.moe-nifty.com/xor/

を検索し、その結果として表示される記事をすべて、お読みいただきたい。また記事中にしばしばリンクが登場する過去記事も、お読みいただきたい。とっかかりとして比較的わかりやすいのは、あとから襲来する他者や、動物園を廃止せよあたりかもしれない。

で、貨幣という名のアンチコミュニケーションが支配する世界においては、人びとはいわゆる貨幣価値(貨幣的交換価値)を作り出すために、自然(という本来なら他者)をexploitし、労働者(という本来なら立派な人格としての他者)をexploitすることによって、貨幣の本質であるところの差異を生成しなければならない。

(古い社会主義思想との混同を避けるために、exploitは搾取と訳さない方が良い。彼らの搾取は、“貨幣の/貨幣による”搾取であるが、ここでは、むしろ、“貨幣そのもの”が、(他者の本質的他者性の)exploitなのである。)

言い換えると、十分な環境保護は、貨幣価値を生み出すことができない※。さらに言い換えると、十分な環境保護(例: 水や空気や緑地資源を全地球規模できれいに保つこと)は、物の生産と流通と分配の手段として、コミュニケーションが貨幣に完全に代わらないかぎり、ありえない。

   ※: 環境保護のための国際会議などで、国や企業の代表の多くがreluctantでnegativeな態度をとります。環境保護保全は、ゼニにならん、からです。

したがって、これからのより正しい環境学は、完全に、コミュニケーション学をベースとするものでなければならない。

(他者との)良きコミュニケーションなきところに、良き環境なし。

環境問題の本質は、その真の正体は、コミュニケーション問題である。

〔本稿未完〕

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2013年12月27日 (金)

Adobe ReaderのメニューとUbuntu unityのグローバルメニュー

Ubuntu Linuxが採用しているunityというウィンドウ環境は、グローバルメニューという妙なものを使う。各アプリケーションのメニューが、アプリケーション本体ではなく、画面上部のメニューバーに出るのだ。このわずらわしいものを無効にすることはできる。[unity グローバルメニュー 無効]でググれば、いろいろ出てくる。

私は、この無効化作業そのものが面倒なので、グローバルメニューにいやいや付き合ってきたが、どうやら「Adobe Readerのメニューのメニュー項目が表示されない」というトラブルは、このグローバルメニュー機能と関係があるらしい。Adobe Readerという特定のアプリだけ、グローバルメニューを無効にできるらしい(このページ)。

PDFは、オープンソースのドキュメントビューワなどで見てもよいのだが、フォントはAdobe Readerの方がきれいなので、どうしてもこっちを使ってしまう。本心から言うと、PDFそのものが嫌いなのだけど、しょうがない。

企業やお役所や(大学なども)etc.がPDFを溺愛するのは、かつての印刷物のドキュメントの形をコンピュータ上に実現できるからだ。かりにそれがAdobeという私企業のプロプライエタリなものでなかったとしても、相当面倒な技術である。ここ数年、TechCrunch Japanのための翻訳作業で毎日の時間が消費されるため、プログラミングがお留守になっているのが残念だが、表現力が大きくなったHTML5とCSS3によるリッチなドキュメント作成ツールを、十分にひまがあれば作ってみたいのだ。プロプライエタリPDFを、墓場に葬ってしまいたい。…印刷物形式に呪縛されているから、どこまでいっても、PDFは表現力が貧しいのだよ。

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2013年12月12日 (木)

演歌歌手あさみちゆき

これはまだ私の中でちゃんと書けるほどこなれてない話題ですが、備忘録メモ的にとりあえず:

これまでの、いわゆる「ど演歌」と呼ばれるタイプの歌唱を演歌version 1.0とするなら、この方のは演歌version 2.0と言えるのではないか。

(1)「ど演歌」の場合は、声が、力んで力んで腹から出るというか、そういうすごい力み、がむばりが声から伝わってくるのですが、あさみちゆきさんの場合は、パワフルな、しかしひずみのない、よくのびる声が、体全体の芯から無理なく自然になめらかに出ているように聞こえる。だからかえって、声の音波の振動が直接そのまま、聴く者の心のビリビリとしたふるえとなるような、不思議な物理的効果がある。

(2)(上とも関連するが)日本語の発音が、かつて本居宣長が“(日本以外の)他国の言葉はどれも獣声のごとし”と言ったような意味で、きれいである。たとえば「さるすべり」という語があるとすると、この5つの音(おん)が、最後の「り」も含めて、はっきりと鳴る。しかもそこに力みはなく、さりげなく自然でやさしさもある。演歌v.1.0など、従来の日本人歌手の歌唱では、最後の音(おん)を適当にぼかして(流して)しまう歌い方が、圧倒的に多かったのではないか。

この二点は、猛練習してそうなったというより、やはり一種の天才と言えるのではないだろうか。余計なお世話かもしれないが、演歌よりは、彼女の初期のフォーク歌謡のようなものの、さらにそれを突き破った先に、この天才的音楽家のより良き未来があるのでは、という気がする。今は抽象的な言い方しかできなくて、申し訳ないが※。

※: いくら、あさみちゆきさんの歌唱がv2でも、曲としての演歌はべったりと全体的に進化も進歩も変化もなく、若い血や若いセンスが入ることもなく、演歌業界おじさんたちによるv1のまんまでないのか。だから、残念ながら頻繁に聴く気にも、長時間聴く気にもなれない。


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2013年12月11日 (水)

Mother covered by METRIC

John LennonのMotherを、METRICがカバーしている。

正確には、あのジュリアード音楽院出身のパワフルなギタリストJames Shawがピアノ弾き歌いで、Emily Hainesはかなりオフでバックコーラスをつけている。ピアノはすごくうまい。but, 歌は???

(Lennonの歌ほどの、真実味はない…。)

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2013年12月 2日 (月)

またまたコミュニケーションレス

このブログのコメントにもそういう人がときどき登場するけど、自分がその脳中心中に持つ意味体系~語感体系に基づいて、自分以外の人の言葉を批判する悪習を、今の日本人の99%が持っているのではないか。しかも、それにやけに自信というか強威をひけらかす背景には、背後には、何らかの(実or仮想)共同体帰属意識がある、と思われる。ピュアに個であれば、その態度はありえないだろう。

自民党の政治家には尊敬も肯定的関心も持てる人は一人もいないけど、「ある一人の人物」と一般化抽象化したうえで言えば、その人の意味体系においては、テロという語の意味は、terrorという英語のいちばんふつうの意味、つまり、恐怖とか、人に恐怖を与えるもの、という意味のようだ。ちなみに私は、時事用語ないし歴史用語としてのテロは、殺害や破壊ないしその意図を伴うものである、という意味体系を持っている。だからWTCの特攻(←旧日本軍用語)破壊も、マララちゃんら下校時の女子生徒への襲撃も、(このところ書いていくときりがないが)、リッパに、私の意味体系ではテロである。たいがいのデモは、殺害に関わらないから、私の意味体系では、武道館で使うようなアンプを使ってスローガンをわめいたとしても、それはテロではない。

しかしその自民党の某議員においては、でっかい声で叫ぶのは(少なくとも自分に対し)恐怖を与えるから、テロの範疇に属するのである。だから、何も問題ないし、批判すべき筋合いもない。ちなみに、私なら、うるさい!とは感じても、恐怖は感じないだろう。でも、恐怖を感じる人がいたって、いるんなら、しょうがない。どっかのおばあちゃんも、大声デモには恐怖を感じるかもしれない。恐怖を感じただけでは、それは私の意味体系(上述)ではテロではない。

ぎゃあぎゃあ批判する人たちは、その某議員が、自分たち(==彼らなりの仮想共同体)と同じ意味体系でテロという言葉を理解し使用している、と勝手に誤解している。自民党も大嫌いだけど、おまえらも大嫌いだ。コミュニケーションレス、コミュニケーション不能のくそったれども。

もちろん、法律の文面などにテロという言葉が登場するときには、審議過程においてその定義を具体的詳細に明らかにしなければならないことは、言うまでもない。武器爆薬兵器等を携行しない、人の体や建物などに危害を与えない/与えようとしない、デモンステレーション行進・集会はテロではない、などと。

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2013年12月 1日 (日)

犬猫暖房

毎年11~12月になると、犬たち猫たちの暖房セットアップで忙しくなるのである。とくに重要なのは、11月初旬の猫暖房だ(猫は犬より寒さに弱い)。

それを手抜きしていると、猫なんかたちまち風邪をひいて、(鼻がきかないと)物を食べられなくなり、医者行ったり、薬のませたり、たいへんなことになる。

最近の悟りは、「光熱費1万円増える方が、医療で1万円使うよりも、だんぜん楽!」である。

少しは支援してくださる方もおられるが、うちの冬の、電気代、ガス代、石油代は、なんだか立派なお店や企業をやってるぐらいにすごい。

でも、しょうがない。医療で苦労するよりは、明らかに楽なのである。

とはいえ、自分が健康で生きてなきゃ、彼らのお世話はできない。明らかに余命乏しき今日このごろ、犬猫を新たに保護することは、あえて絶っているのだ※。

※: 里親さんもらわれ率は50%ぐらい。残りは一生を我が家ですごす。犬も猫も健康なら15~20年は生きる。私の(健康な)余命は、そんなにないかもしれない。

暖房よりも大きな大教訓: こんな活動は複数世代でネットワーキングしながらやれ!。一人や単一世帯では、必ず無理が来る。…これが、私らの最大の失敗だろうな。

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