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2013年11月 6日 (水)

単一自己仮説(続)

各自の自己っちゅうもんは、今の生一度かぎりのものか、それとも再利用される/されてきたものか、どちらかである。

そして、こっからがおもしろい。

上述の二状態は、実質、どっちも同じである。

すなわち、再利用されているとしても、互いのあいだに記憶も認識もないから、互いにアカの他人、知らない人である。つまり、過去や未来の別の自己は、存在していても実質的には自己としては存在していない。単に、ある、別の人(そのほかの別の人と区別できない)がいるだけである。

だからそれは、自己が一度かぎりである状態と、存在相としては完全に同じである。

(ここでは話を簡単にするために人間という生物に限定して述べているが…。)

だから、コンピュータのCPUの多重処理みたいな仕組みで、神様が時間を多重化しておられるなら、世界中のすべての自己が、たった一つの自己の分有であっても、おかしくない。ただしこの場合も、そうであっても、そうであるとは個々の自己には分からない。再利用された自己と別の自己が、実質、同じ(上述)であるように。

で、前回の繰り返しになるが、「全宇宙」という言い方をすれば宇宙は一つしかないから、宇宙の基盤であり核である自己も、一つであるのが論理的にすっきりしている。無知なる者が、いろいろ悩まなくてもすむようになる。

そして、コンピュータの“プロセス間通信”に相当するものが、そういう複数の分有自己間のコミュニケーションに相当する。プロセス間通信の理論も実装も難しいが、それには、標準プロトコルをまったく実装していないノンコミのプロセスにどう接するか、という問題(※)も含まれる。後者もまた、難しい。

※: とくに、自己がその上で生きる・走る環境に対するマナーは、それが劣悪だとシステム全体をぶっこわす致命的なバグになる。人間vs自然のモンダイがまさにそうであるように(参考記事)。


=====この記事未完=====

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コメント

死の意味が、つまりは同時に生の意味が変わって来ますよね。

投稿: 南 | 2013年11月 7日 (木) 08時40分

こんばんは

あなたは、わたしだったかも、しれない。
って事ではないかな?

そう考えれば、ヒトに良いことしか
できません。よね♪

Simomitu

投稿: 下光博之 | 2013年11月17日 (日) 20時36分

一者の存在論哲学(哲学とは結局そういうものです)と、その相関物としての潜在的な唯我論が、他者とどのように出逢うかによってその人の哲学スタイルの根底が形作られます。
私自身の中では、30数年前の岩谷さんの「関係論の視座」という言葉がずっと鳴り響いていて、常に「存在するとは別の仕方で」考えるにはどうすべきかというのが悩みなわけですが、ここへ来て岩谷さんは、やはり基本的に非常にプラトン主義的な方でいらして、そうした見地からは、単一自己の分有という着想をされるのはさもありなんと思うわけです。
昆虫などのように、極めて短い世代時間にものすごく多くの卵を産むことで、著しく低い生存率をカバーする生存戦略をとる生き物は、相互に非常に単純な通信プロトコル(?)でコミュニケーションを行なうため、膨大な個体数のの群れが、あたかも一個の生命体のようにふるまい、結果として自然環境の中でのマナーに問題を起こさない(個体数の増減で周囲と折り合いをつける)わけです。
しかしながら、ヒトのように世代時間が長い生物は昆虫のように生存率が低いと困るので、できるだけ死亡率を低くすることで種族を維持しようとし、こうした戦略が昆虫のようなシンプルなコミュニケーションを不可能にしているように思われます。仮に我々の生が単一の自己が分かれたものであったとしても、それら相互のコミュニケーションは、常にすでに、あまりにも、あまりにも複雑すぎるのではないでしょうか?
(例えば、よく見知っている友人に対する感情ひとつとっても、それは一瞬ごとに変化していってしまいます。)

投稿: iris60 | 2013年11月18日 (月) 01時31分

すみません、追記です。
昆虫達のような生存戦略(r戦略というそうです)と、ヒトなどの生存戦略(K戦略というそうです)の対比は、ブログサイト「アゴラ」の、河原心平さんの「遺伝学的要因による人類滅亡は起こりえない」という記事からの孫引きです。

投稿: iris60 | 2013年11月18日 (月) 01時56分

@iris60
> プラトン主義的な
プラトンに限らず、これまでの哲学者や科学者は全員、「自己」という非常に不思議なものについて着目も関心も持っていないので、ここで言われている“妄想”とは無縁な人たちでしょう。唯一の例外が仏教の禅宗ですが、その談話はあまりにも非明示的かつ特定宗教ローカルすぎます。関係論はまさに、彼ら完全自己疎外者の目に存在と見えているものが、その正体は関係である、という主張です(色即是空空即是色、とほぼ同じことか)。彼らがふつうの三次元世界を見ているとすると、この“妄想”の起源は、ある種の、異次元的なシュールな世界です。

> 昆虫のようなシンプルなコミュニケーション
昆虫にせよ蜘蛛にせよ植物にせよそのほかの種にせよ、われわれ人間は、彼らがどれだけ豊穣で精緻細密な文化を持ち、どれだけ精密な情報交換情報生成形式を持っているか、知り得ない。せいぜい、晴れた秋の日に飛ぶトンボたちを見ながら、彼らの世界を夢想するしかない。生物SF童話を書くのも、よいかもしれない(それらもまた、もちろん、“妄想”ですが)。知り得ないものについて、自分を基準にして、えらそうなこと書くんじゃねぇ!くそったれども!(人間自身についても同じこと)。 おめぇら全員、バッハの楽譜を遠宇宙に飛ばした“科学者”の同類じゃ。

投稿: iwatani | 2013年11月18日 (月) 10時58分

いずれにせよ人間こそが致命的なバグ、というよりまさにウイルスそのものであることは確かかと思われます。

投稿: iris60 | 2013年11月18日 (月) 18時44分

でも、ニーチェは可哀想だ。

投稿: bad | 2013年11月19日 (火) 21時19分

正直なところ、時々人(他者)と関わるのが嫌になってしまうことがありますが、生き甲斐は結局のところ他者との関係の中から生まれるのかな、なんて思ったりして。他者は自分でもあるのか。

投稿: musataro | 2013年11月20日 (水) 08時49分

すっかり遅れをとっています。
今年も宜しくお願いします。
この話題、すんなり了解出来たので、さっさと
次に進む算段だったのですけど、
たまたま目に留まったのが、閃き通り良かった
ので、きっと参考にできる方もおありかと
紹介します。

書籍です
「自己が心にやってくる」
意識ある脳の構築
2013年11月25日 初版発行
著者 アントニオ・R・ダマシオ
訳者 山形浩生
発行 早川書房

ざっくりとさらうと、ですね
1 恒常性維持と生存に単細胞生物などは
刺激反応している
2 多細胞化すると、知覚する部分とそれを処理
する部分の分業がすすみ自分のモデルを作る。
ここで、マッピングされたイメージの流れ、
刻々と変化しますから。それが心
3 各種知覚器官からのデータを中心にマッピング
された各種イメージの移動平均が「原自己」。
ただしあくまで参照データなので生物自身が
直接的に感じることはない
4 原自己から「何か対応をしよう」という信号
とそれに対応を生み出す。これが「情動」
意識的な対応をとらせるために、情動を意識
させる仕組みが、「感情」
5 各時点におけるその原自己の変化の集合が、
「中核自己」。そうした様々なパルス状の
刺激をまとめあげ、原初的感情がそこに
くっつけた重要性に応じた処理を行う。
それが自己。
6 過去の自分を記憶していて、いろいろなことを
思い出せる。そして、将来のこともあれこれ
想像できる。時間の中で連続性を持った自己
の概念、それが「自伝的自己」。これにより
学習、将来予測、社会性をもたらす。文明や
文化も恒常性維持のための仕組みとしてもた
らされ、想像力の中で未来への舵取り能力
たる。

まっ、無理は承知で試みてみました。
僕はここでの単一自己仮説を支持する議論
ととらえて読んだのですが、どうでしょう?
アナログな連続変化には切り方は他にもある
ので、教条的にとらえるのは避けたいですけど

たまには、じっくり読書しませんか

simomitu

投稿: 下光博之 | 2014年1月10日 (金) 23時23分

@simomitu
その本は私は足蹴にしています。そういういわゆる従来の自然科学的視座からは、リアルな自己にも、自己存在にも、自己意識にも、絶対に行き着くことはできません(昔、筑摩新書の中でちらっと書いたと思う)。

自然科学==致命的な自己忘却(==他者不在)です。あの本に記述されているような物的普遍的構造の中に自己はありえない。自己とは、それぐらい不思議で、神秘的なものです。従来的科学は、それを記述できません。かろうじてできたのは、一部の禅宗のテキストぐらいか…。

以前、主に下光さんのためを思って、イナカモンの本の読み方を批判したと思うけど、あまり変わっていないようですな。なんでもかんでも、十把一絡げに自分の座布団の上に乗せてしまう。他者としての著者が、どこにもいない。

投稿: iwatani | 2014年1月11日 (土) 12時32分

岩谷さま

応答ありがとうございます

そうか。読みが浅かったか。
結構重なる部分もあるのでは、と思って
読めたので、書いてみたのですが。

まだまだ、その自己をとらえきれていないようです。
自己はひとつで、そう考えるのが、一番
論理的にスッキリする、というところまでは
フムフム
なのですけれど。

では、出直すことにします。

あと、田舎者であることは否定できません。
興味はいろいろあることも。

今後も宜しくお願いします

Simomitu

投稿: 下光博之 | 2014年1月17日 (金) 00時48分

@Simomitu
本を読むときは、著者は他者、自分とは異なる人格存在ですから、まず、言葉の意味体系も、その本が前提している視野世界も、その人の教養形成履歴も、などなどすべて、自分とは違う、と考えるべきです。

そのうえで、「批判的/対話的」に読んでいくのが、正しい読み方だと思います。批判的は、否定的とは違います。著者の談話を一定のパースペクティブ~文脈の中で相対化することです。対話的は、残念ながら本に関しては対話がほぼありえないので、心の中で著者に問いかけ~語りかけながら読むことです。「これ、どういうこと?」とか。

そういう咀嚼努力をせずに、本をいきなり、全部、自分の意味体系の中に拉致して丸飲みしてしまうのが、イナカモンの本の読み方です。小説はしたがって、イナカモンのための自慰的読み物なのでしょう。

★しかも「単一自己仮説」は、最初に、妄想である、ファンタジーである、と言ってるわけですから、科学/自然科学の談話との接点を有しません。そのかんじんのところが、イナカモンの読み方では恣意的に無視されるのだ。そして自然科学の言説と、むりやり関係づけられる。

投稿: iwatani | 2014年1月19日 (日) 09時41分

@iwatani
>「全宇宙」という言い方をすれば宇宙は一つしかないから、

自分は昔から不思議に思っていたことがありました。
例えば英詩で All I Want Is You. とあった
としたら何故、Allが単数形で扱われるのか、ということです。
自分のイメージでは、Allがいくつの範囲を示してい
るかはcase by caseですが、たとえば10個、100
個と必ず複数系なのです。また、上の歌詞を私が日本
語で言うなら「一番欲しいのは、君だけ。」という感
じになります。Allという言葉で、ひとくくりにする
考え方がないのです。こんなふうに異を唱えるのは自
分だけでしょうか。

投稿: Ohiya | 2014年4月15日 (火) 02時20分

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