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2013年11月21日 (木)

Facebook, Twitter, etc. == 糞

今のいわゆるソーシャルネットワークと呼ばれるネットワーク利用形式には、本質的な違和感と本質的な批判を感じてやまないが、ここではFacebookのfriends(友だち)について:

ネットワーク上で遭遇する人は、対話的関係の有無にかかわらず、デフォルトでは原則として全員が、友だちじゃ。
そう覚悟してなきゃ、健全で主体的で前向きで発展性のあるネットワーキング生活は送れない。
分かったか! くそったれども!

Twitterのフォロワー/フォロイー関係についても、ほぼ同様。※

古い俗世間世界の、友だちである・ないの区別概念を、そのままオープングローバルネットワークに持ち込むなんて、アホの骨頂じゃ。

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このテーマと直接の関係はないが、この記事、やはりこれも、他者(ここでは犬(そして生物的自然))と自己との関係を誤解している人の談話だよな。
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グローバルネットワーク、グローバルコミュニケーションはこわいという、ネットワーキング不適性矮小人間が矮小なまま利用できるのが売り。それが、ソーシャルネットワークの正体。すなわち、ネットワークそのものの矮小化。だから、アホな小人(しょうじん)どもに、受ける。そうではなく自己とは、一人で大宇宙と相対(あいたい)している、それ自身がまた大宇宙なのである。だからこそ、みんなが、誰もが、友だちである。SNSが作り出す閉鎖的小集団は、不健康そのものだ。

完全オープンである点では、昔のフォーラム(掲示板)の方が、オープングローバルネットワークの利用形式としては健全だ。

※FacebookやTwitterでは、たとえば名もなきz国の名もなきaさん(ら)が、重要な問題を世界中の人に訴えたいとき、どーすればいいのだ? なんもできないではないか、友だち、フォロワー/フォロイーの枠内でしかコミュニケーションできないのでは。だからこれらは、糞だ、としか言いようがない。現状は糞まみれの、オープン(でない)グローバル(でない)ネットワーク(でない)、インターネット。


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2013年11月18日 (月)

戒名

スポーツライターの玉木正之さんのブログをたまたま見ていたら、愛猫が推定16歳で亡くなって、戒名をつけた、とある。

美猫院我儘勝手居士

この話題自体は、おもしろい、楽しい話題ですんでしまうが、私は思った。遺言を書くには早すぎるかもしれないが、戒名はつけるな!を申し渡しておかなければならない。

戒名について、調べる気にもならないが、一連の「死の動物園」*の小道具の一つであることは、間違いない。だから、断固拒否!

〔*: 死が動物園*に囲い込まれることについて; 関連記事(1)(2)(3)(4)(5)。〕

〔*: 動物園、という非常に重要な概念については、この記事この記事などをお読みください。」〕

ところで、小説というものに対して批判的な、読む気もしない私にとっても、夏目漱石が作った愛猫のための墓碑銘:

この下に稲妻起る宵あらん

は、すばらしい!と思う。

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2013年11月 6日 (水)

単一自己仮説(続)

各自の自己っちゅうもんは、今の生一度かぎりのものか、それとも再利用される/されてきたものか、どちらかである。

そして、こっからがおもしろい。

上述の二状態は、実質、どっちも同じである。

すなわち、再利用されているとしても、互いのあいだに記憶も認識もないから、互いにアカの他人、知らない人である。つまり、過去や未来の別の自己は、存在していても実質的には自己としては存在していない。単に、ある、別の人(そのほかの別の人と区別できない)がいるだけである。

だからそれは、自己が一度かぎりである状態と、存在相としては完全に同じである。

(ここでは話を簡単にするために人間という生物に限定して述べているが…。)

だから、コンピュータのCPUの多重処理みたいな仕組みで、神様が時間を多重化しておられるなら、世界中のすべての自己が、たった一つの自己の分有であっても、おかしくない。ただしこの場合も、そうであっても、そうであるとは個々の自己には分からない。再利用された自己と別の自己が、実質、同じ(上述)であるように。

で、前回の繰り返しになるが、「全宇宙」という言い方をすれば宇宙は一つしかないから、宇宙の基盤であり核である自己も、一つであるのが論理的にすっきりしている。無知なる者が、いろいろ悩まなくてもすむようになる。

そして、コンピュータの“プロセス間通信”に相当するものが、そういう複数の分有自己間のコミュニケーションに相当する。プロセス間通信の理論も実装も難しいが、それには、標準プロトコルをまったく実装していないノンコミのプロセスにどう接するか、という問題(※)も含まれる。後者もまた、難しい。

※: とくに、自己がその上で生きる・走る環境に対するマナーは、それが劣悪だとシステム全体をぶっこわす致命的なバグになる。人間vs自然のモンダイがまさにそうであるように(参考記事)。


=====この記事未完=====

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2013年11月 3日 (日)

単一自己仮説

宇宙を“全宇宙”という言葉で言い表せば、その個数は「一個」である。

で、宇宙の存在の基盤であり核であるものは、自己である。

一個である宇宙に対して、その基盤や核が複数あるのは単純に矛盾であるので、自己の個数も「一個」だと考えた方がすんなりくる。

自己は、全宇宙に対して、一個、存在する。

一方、自己の“宿主”は、言うまでもなく、多数存在する。その存在の様態はあまりにも多様であり(==“他者性”の根拠)、そして時間の上での生成と消滅の過程がある。

一個のものが多数のものに宿る仕組みについて、われわれは何も知り得ないが、なにしろ、この文を今書いている人間の自己と、あとでこれを読む(or今読んでる)人びとと、数日前に腕に止まったので叩き潰した蚊と、三鷹で女子高生をストーカー殺人した大馬鹿者と、その被害者と、等々々々々々々々の自己は、同一の単一の自己である。宿り方の現れが、違うだけだ。

ここで思いつくメタファーは、コンピュータのCPUと、それが行う多重処理だ。一台のコンピュータの上で、複数の互いに異なるアプリケーションが同時に並列的に動いているが、正確に言うと同時にではない。物理的にはそれは、複数のプログラムによる、単一のCPU能力の、順序的(シーケンシャル)な“分有”である。

にもかかわらず、それらは、実用上は十分に“同時”だ。

ただし、こんな即席の思いつきに、どれだけ妥当性があるか、それは分からない。たぶん、まったく無関係だろう。単一自己vs.複数宿主の仕組みは、神のみぞ知る謎だ。

いや、もちろん、この『単一自己仮説』そのものも、無知なる者の妄想の一つにすぎない。

しかし、「自己」というものを考えるための、思考の補助線の一つとしては、有益かもしれない。


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天皇制と人格虐待

今の日本の天皇制は人格虐待だから廃止すべき、と私は何度も言っている。人格や虐待という言葉が脳内の辞書にない役人や政治家ばかりがその犯人ではなく、もう何だかわけの分からないものになっているにもかかわらず、現行のその制度を無反省に肯定している一般庶民たちも重大な犯人だ。

若い国会議員が手紙を手渡ししたことが、もっぱらネガティブに話題になっているようだが、そもそも新しい世代の皇族たちは、ふつーの人とふつーにコミュニケーションできた方がよろしいに決まっているし、それを望んでいる皇族も少なくないだろう。今や、インターネットというものもある。

この“事件”を、ものすごーくネガティブに、当人への叱責や非難だけで扱うのもまた、伝統的人格虐待の現れの一つにほかならない。自由なコミュニケーションぐらい、させろー!。皇族がインターネットでふつーにコミュニケーションできるようになれば、それは、自然で無理のないおだやかな天皇制廃止過程への、肯定的な一歩になるかもしれない。

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