他者、他者不在(2)
動物園は、このブログが追究している世界初・人類史上初のコミュニケーション理論/コミュニケーション学の、重要な概念の一つである「他者」「他者不在」「他者疎外==自己疎外」~~をネガティブな現象として表す分かりやすい便利な例だと思っているのだが、ほかにもっと適切でおもしろい例をご存知の方はお教えいただきたい。
で、この例、というか比喩を利用すると、前にも書いたように、靖国神社は霊の動物園だ。母方の叔父が二人も戦死しているので、彼らの霊があそこ、ないしあそこをアクセスインタフェイスとするどこかにもしいるとしても、いないとしても、いまどきあそこに参拝する政治家どもは、絶対に許せない。頬骨が複雑骨折するぐらい、ぶんなぐってやるのが、できれば適切だ。中国などはポーズで怒っているにすぎないが、実際の遺族は(その大半は)、心底、今の保守系政治家の無神経・国家主義アナクロニズムを怒っているのだ。まるで当の叔父殺しの殺人犯が、しれーっとした顔して、参拝にやってきたような。あまりにも、ひでえ光景。
もっと視野を広げると、一般的に宗教は神の動物園である。神、絶対者、超越者というものは、論理の便宜のための概念としてほぼ普遍的にある。でもそれを特定宗教という動物園に封じ込めることは、特定共同体の絶対化に結びつき、ひいては戦争やトレード(~貨幣)を絶対善として護持する。宗教は、人類史上最大最悪の悪である。
神は、動物園に閉じ込めるのではなく、彼(彼女?)にふさわしい大宇宙へと解放すべきである、解き放つべきである。
私の叔父たちの霊も、いるとしたらそんな大宇宙に、完全に解放された状態でいるのであり、あの、終日車の排ガスにまみれた、ちんけな宗教施設になんか、いるわけないだろ! このバカ政治家ども!
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