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2013年8月10日 (土)

文明のversion 1へ


百歩譲って「志願兵・傭兵だけが死ぬ戦争」ならば許そう。

投稿: 南 | 2013年8月 9日 (金) 08時26分

そもそも一般市民(+女子ども老人)・非戦闘員が犠牲にならない戦争はめったにないし、また徴兵制のないアメリカなどでは軍隊に入ることが唯一の就職先(収入源)だったり、唯一の奨学金取得手段だったりするので、志願兵なら死んだっていい、とはとうてい言えない。

要するにもっと本質的なレベルでは、戦争というソリューションは無効だ、ということ。その似非ソリューションは次の戦争の土壌を必ず作る。魔女裁判~火あぶり刑とか、犠牲(いけにえ)の儀式とか、人類はこれまでも、いくつも野蛮と残酷を克服してきた。戦争も、その気になれば克服できる。

文明はcivilizationの訳語だが、直訳すると「一般市民化」だ。社会の構造や問題解決を、丸腰で互いに平等の一般市民が支えること。軍人、坊主、アプリオリな権力(王侯貴族、中国共産党、ほか)に依存しないこと。問題解決の相当部分を武力(似非ソリューション)が担っている現代までの人類社会は、したがって、文明のversion 1にすらまだ達していない。現状はおそらく、

  version 0.01

ぐらいだ。

日本が平和憲法、不戦憲法を守り抜き、そのことが尊敬され影響力を広げ、しだいにglobal standardとして認められてくれば、文明は、0.01から0.1ぐらいにバージョンアップしたと言えるだろう。

そして、戦争がグローバルに、魔女裁判のように完全な古語と化したら、やっとversion 1の実現だ。

日本の政治家はもちろん、世界中の政治家や政治家に影響を与えるような人々が、それぐらいの認識に達しなければ、えーかげん、だめですよ。

(本稿未完)

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コメント

旧人類は、勝利や快適さの獲得をもって幸福とする思想に汚染されている。

それらは幸福とは別物。

まず、幸福の像をさだめさらにそれを本気で求めるようになること。
それでやっとスタートラインに立ったことになる。

投稿: 南 | 2013年8月12日 (月) 08時43分

9条に関して、国防の問題を云々いう輩が多く、侵略的な戦争は良くないが、攻められたときの防衛のための戦いもできないように解釈できる内容は良くないと言います。しかし、なんで他者に対してすぐに、「攻められる」という前提から物事を考えるのか?私は思うんです。敗戦後、日本国憲法はアメリカ人が,日本が二度と歯向う事が出来ないようにするためにつくった憲法だと保守派の人達が言います。しかしそんなこたぁどうだっていいんです。他者がどうあろうと、一切武器を持たずに丸腰で相対する事を勇気を持って遂行する事がversion1につながるんだと思います。

投稿: msataro | 2013年8月12日 (月) 23時09分

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