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2013年8月 4日 (日)

オトコの知==猿の対象知

これはコメントへのレスですませるにはもったいない、たいへん重要な話題なので、このように別記事を立てさせていただく。

この記事への、エクセルさんという方からのコメントに、こんな箇所がある:

> マルクスが、資本主義は必然的に個々人間の連帯を妨げるといったようなことを言っていたような記憶があります。コミュニケイション不通、忌避の原因の少なくとも一部は、個々人の倫理観や特定国家の文化を超えたところにもあるのかもしれない(後略)

ここで問題となるのは、「資本主義は必然的に個々人間の連帯を妨げる」というくだりだ。

オトコの目は、目の前の対象の現状("現象")を見て、「XXXがYYYだ」という論理を立てる。

しかしその論理は完全に倒錯していて間違い(wrong)である。

対象知が与える欺瞞に惑わされない、対象知を超越した本質知は、「YYYだからXXXだ」という状況を見抜く。

ここでは、連帯という気持ち悪い古語・死語を忘れて、"コミュニケーション"という言葉を使おう。
〔*: この"連帯"も、猿のバナナ(後述)的な、対象知コトバである。〕

また、貨幣現象のサブセットでしかない資本主義ではなく、「貨幣の絶対的支配」というより一般的な言葉を使おう。

すると、オトコの対象知的論理ではこうなる:
# 貨幣の絶対的支配がコミュニケーションを妨げる。

正しい本質知はこう言う:
# コミュニケーション不能が貨幣の絶対的支配を招来している。

XXXがなくなればYYYという事態は自ずと解消するのか? そんなことはありえないだろう。…と考えると、対象知的論理の根本的な間違いがよく分かるだろう。

この問題は、いわゆるシンサヨクも含めて、これまでのすべての左翼思想(incl.社会主義、共産主義)の、それらをすべて箒で掃き集めてゴミ箱に入れて焼却すべき、抜本的かつ深刻な過ちの本質である。それは、ものすごく重大な過ちである。

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いわゆる従来の自然科学(incl.数学)と、それに基づくいわゆる科学技術もすべて(一見どんなに複雑高度でも)、視野狭窄的な対象知に貫かれていることを、片時も忘れてはならない。それに対し、本質知はこう言う:

「AAAがBBBなのではない。BBBはAAAのお前の定義や観測姿勢に最初から含まれているのだ。しかもその定義は、欲望が存在を切り取った小片にすぎない(他者不在、他者無視)。目の前にバナナがあればバナナしか見えない、猿の欲望。」


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コメント

けっきょく、人は自分の欲求を満たすことしか考えていない。

少なくとも今までの人類は例外なくそうであった。

真理をつかみたいのではなく、自分の考えた真理(?)を適用させたいという欲求。

投稿: みなみ | 2013年8月 7日 (水) 08時00分

別途トピックを立てていただきありがとうございます。かつて私は田舎で消防団活動をしていました。帰郷し小学校以来音信のなかった幼馴染みと親交を得られ自分はそれなりに楽しかったのですがある夜回で彼らの一人と歩いた際、現在の仕事に話が及んで、突然彼から「お前らはいいよな」という言葉を投げつけられました。因みに私はまずまずの会社に勤務し彼は薄給で毎日大型自動車を運転していました。
さてマルクス氏が言わんとするところは左様なことではないでしょうか。幼稚園や小学校等地位や財産等が捨象された状態ならば、なるほど天国は手の届くところにありそうな気もします。しかし現実とは正にその地位や財産の取り合いに他ならず、そして更に重要なのは、そのような闘争状態、いや一方通行の支配/被支配関係を望む者が少なくとも一定程度は存在し続ける、これが我々の実存であることです。

投稿: エクセル | 2013年8月 7日 (水) 19時44分

他人と十全なコミュニケイションをはかることと今目の前にある金を選ぶこと。どちらが正しく自然な姿であるのかは、控えめに言っても客観的判定は困難でしょう。五十歩譲って前者が望ましい姿だとしても、その次にはまさしく「他人」を折伏するという困難が、他人を支配することに全知を傾けるそのような他人を説得するという困難が待ち受けていることを、我々は身に沁みて知らねばならない。このまさしく「他人」と対峙するという契機が我々に欠けるのなら、我々の努力というものがあるとしてもその結末は、岩谷氏が批判する真理を僭称して恥ずることを知らないサヨクの人達と同じ轍を踏むことになると思われます。

投稿: エクセル | 2013年8月 7日 (水) 19時45分

結局ですね、コミュニケーション能力の優れた人というのが一番魅力的なんですよ。職業や社会的地位(なんだそりりゃ)がどうの、経済状態がどうのなんて、あんまり関係ない。右とか左なんて話も今の世界じゃ、あんまり意味をなさないような気もします。

投稿: musataro | 2013年8月 7日 (水) 22時06分

認識主体とは完全に切り離された(と思い込んだ)対象物につき、「AはBである」と論じ尽くすことにより近代科学技術は発展を遂げました。M.ウェーバーが「プロテスタンティズムと資本主義の精神」等々で論じた、個々人の究極的な内面的孤立化と資本主義の親和性はまた、世界内事物の徹底的対象化(これにより認識主体としての個人は世界の外へと放逐されます)と貨幣の絶対的支配の親和性をも示唆しているように思われます。(どちらがニワトリでどちらがタマゴかは難しいです。)
さて、(学校)哲学においても、こうした対象知一辺倒の認識論に対する批判はかまびすしく、おおむねそうした批判は近代化批判、科学批判の文脈で行われてきたと言えます。こうした場面で前近代の、古代的な、中世的な、野生的な(笑)思考が発掘され顕揚されるのは避け難い成り行きだったし、これからもそうしたスタイルの反近代の批判が消えることはないのかもしれません。
ここで岩谷さんが特異だなぁ(ホメてるんですよ)と思うのは、対象知の支配を批判しながら、他方で個の析出以前の、土人知、猿知(笑)もまた退けている点です。孤独への沈潜がなければコミュニケーションもまた成立しないということなのでしょうが、やはり戦争中の体験が、まずはなにより個の確立の重要性を刻印したものと推察します。
私は20歳近く年下のヘタレなので、個の確立といったことは到底信じられず、むしろ年々、歳とともに土人思考へと回帰しつつある自分に当惑しております。認知症はまさに「第二の幼児期」ですね(笑)。

投稿: iris60 | 2013年8月 8日 (木) 09時52分

@エクセル
> マルクス氏が言わんとするところは左様なことではないでしょうか
だから、最初に、マルクス氏の視点は倒錯している、と言ったんですよ。その意味をしっかり考えようともせず、前と同じもの(批判対象)を無神経にどかっと出してくるだけだから、そんな人とは議論も対話も会話も成り立たないし、コラボレーションによるディスクールの磨き込みも起きませんね。

投稿: iwatani | 2013年8月21日 (水) 19時49分

対象知。「目の前にバナナがあればバナナしか見えな
い、猿の欲望。」
コミュニケーション知。「目の前のバナナから見て、
自分はどう映っているかを考えてみること。」

貨幣のない社会から見て、貨幣によって汲々としている
現社会を見てみる。どちらが充実しているか?。決まっている。

それなら何故、乗り換えられないのか。

自分には、そもそも人が共同で生きていく、生きている
ことに対する、本当に基本的な姿勢・考えが最初に(から)
抜け落ちているんじゃないかと思う。これまでの負の
歴史のおかげで、手持ちの技術は十二分にあると思われる。
これからは、それをどう使いこなしていくか。人の欲望を
どのレベルに設定するのか。これまでの欲の悲惨を、
断ち切れる人類になれるのか。

とりあえず、「貨幣は目的じゃない!」ってみんなに
思ってもらいたいね。

投稿: Ohiya | 2014年4月20日 (日) 03時28分

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