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2013年8月26日 (月)

マスメディアの大誤解大倒錯(続)

これまでのマスメディア企業のあり方は、電力会社やガス会社などにたとえると、電気やガスを生産して配給する以外に、電球一個から大型工作機械製造機械に至るまで、すべての種類の利用機器の生産販売をも、彼らが独占しているような状態だ。

実際にそうだったら、経済と社会の活気がどうなったか、想像がつく。幸いにして、そうはならず、大きな電気機器産業が育ち、成長した。昔も今も、完全な参入の自由がある。

実際にそういう愚鈍なあり方を何十年も抱えてきたマスメディアは、確かに経済と社会の活気を沈滞させ、自らのビジネスの内容をも頽落させてきた。前回書いた、“常連お笑いタレントたちの草刈り場”という言葉が、それを象徴している。新聞もテレビも、もうだめである(広告費効率の悪さに企業がいつごろ気がつくか…)。

マスメディアが最初から、公共財としてオープンでパブリックな存在にならなかった大きな理由の一つとして、「人はコミュニケーションによって生くるあらず, 上意下達によって生くるなり」という、強固なオトコの哲学、旧人類の哲学があったと思われる。すなわち、コミュニケーション不能を地盤とする情報配布形式だ。

マスメディアという名で呼ばれてきたブロードキャスティングインフラストラクチャが、その利用が、真にオープンでパブリックになったあかつきには、非常に多様なおもしろい利用形態が生まれるだろう。このインフラは始めて、経済と社会を沈滞させるものから、それらを活気づけより動態化(多方向ダイナミック化)するためのインフラに変わるだろう。

私が第一番に想像するもののひとつは、investigating(investigative) journalism(調査ジャーナリズム)とengaging(engaged) reporting(関与型報道)の勃興と大成長だ。

今は、アクセスの自由なインターネットの上でさえ、この二つのものの現状は、とてもお寒い。

関与型報道は、あのとてつもない地震津波放射能災害に関してのみ、偶然的非正規的非本格的に、そして小規模散発的に、いくつかの事例はあったようだ。私自身も自分の世代が壮年世代なら、犬猫数頭数匹ぐらい当然預かって里親募集活動をしただろう。だが、そこで起きた関与型報道は、個々の小さな浅い事例が「たまたま」起きたにすぎない。最初から本格的な関与型報道として、正規に、強く大きく、どかん!と行われていない。そのための舞台装置もない。社会の関心が、関与型報道へ向かう良いチャンスだったのに。単なる伝える~見る報道から、伝える者も見る者も関与しなければならない報道へ。それを、報道のデフォルト常態とする。

調査ジャーナリズムは、そもそも、それで食えるという経済基盤がゼロのため、現状はおそろしく貧しい。試しにネット上で、「この事件についてその後の現状(あるいは背景)を詳しく知りたい」と思って、調べて見よ。ほとんどの場合に、ろくな成果は得られないで終わる。広告収入をアナウンサーなど無用な社員~役員たちの高額給与や、タレントの高ギャラ、白痴番組の高額制作費等に回すことをやめれば、本物の調査ジャーナリズムが沃々と育つだろう(そして広告のインプレッション==企業の広告費効果も増加する)。それでやっと、マスメディアはおもしろいものになる。もちろんそのアーカイヴが、ネット上に必要だ。

電気がアクセス自由だったために、いろんな機器が栄えたように、ブロードキャスティングインフラストラクチャについても、その便利な、おもしろい、そしてとても有意義な、利用をまずいろいろ想像してみよう。今のマスメディアを打倒してマスメディアversion 2が実現したら、さっとすぐに取り組めるように。

※: もちろん、関与型報道(調査ジャーナリズム)==調査ジャーナリズム(関与型報道)である場合が、非常に多くなるはず。


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2013年8月22日 (木)

マスメディアの大誤解大倒錯

若者の新聞離れとかいうけど、とっくに若者でないわたしらでも、新聞はとっくに読まない。犬猫用の重要資材として、よそからいただいているばかりではわりーから、一つとってるだけだ。たまにその紙面をつくづく見る機会があると、気持ち悪くて吐き気がしてくる。もはやそこには、コミュニケーションのコの字もない。うちの近所の家も、若者ではないけど新聞は土日だけとっている。ラテ欄が目的かな。

テレビはとっくにくだらなくて気持ち悪いけど、長年それが続く(革命革新がまったく起きない)のが気持ち悪さを増幅する。頽落の度合いが、むしろひどい。常連のお笑いタレントしか、番組を番組としてもたせられなくなって、テレビはもはや彼ら専用の草刈り場だ。末期症状。

で、コミュニケーション不能人種の初期誤解初期倒錯は:

マスメディアの物理的製作保有者(1)==コンテンツ制作提供者(2)

という大誤解大倒錯だ。

マスメディアのコンテンツ提供面での利用者は、設備のオーナーではなく、「万人」であるべきなのである。言い換えるとマスメディア機材設備は、公共財である。電力をめぐる最近の議論にも似て、上の(1)と(2)は完全分離すべきものである。

でマスメディア、すなわちブロードキャストのための設備機械は、原則としてof the people, by the people, for the peopleにて利用されるべし。万人の公共財であるから、われわれ下々(しもじも)の者にも、十分な利用機会がなければならない。ニュース報道はどうする、なんて、そんなんインターネットの方がmuch much betterである。

以上をみんなが正しく理解したら、マスメディアは初めて、気持ち悪いものではなくなり、真にわれわれが生きるためのツールへと変身する。タレント、アナウンサー、等々は全員失業となり、世の中すっきりする。

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2013年8月19日 (月)

「日経Linux」のおすすめ

雑誌の定期購読は長年ご無沙汰しているが、この春から「日経Linux」をとりはじめた。なぜか。記事に女の子が頻繁に登場するようになったからだ。それと、話題がLinuxだけでなく、Android、Raspberry Pi、Arduinoなどなどと多様化してきた…多様なるLinux系ハードウェア製品の数々だ…今後いくらでも登場するだろう。

もちろん、目当ては女の子そのものではない。女の子多用によってもたらされたLinuxのポップ化だ。オトコのもの。アジケないもの。オシゴトのもの。という無味乾燥から一転して、大衆的人間感覚が出てきた。編集長の森側さんという人、エライわ。たとえば、ハンダ付け初体験というWebデザイナーの女の子に、USB-DACを作らせる記事では、筆者が、こう書いている:

<引用>
組み込み系が本業の筆者がそのまま説明すると、基本的な話をすっ飛ばしてしまうかもしれません。そこで、いつも勉強会で一緒になるWebデザイナーの秋葉ちひろさんに作ってもらうことにしました。
<引用終わり>

Linuxのコマンド入門記事には、聞き役としてかすみちゃんという女の子が出てくる。すると、単なる初心者システムアドミニストレータのためのそっけない実用記事に、人間的なふくらみが出てくるのだ。

また、Raspberry Piのような合衆国イギリス起源の人気ハードウェアだけでなく、マイナーな国産の「がじぇるね」(若松通商)が出てくるあたり、地に足のついたきめ細かい情報収集姿勢がうかがわれる。

女の子とは関係ないが、紹介するフリーソフトがWebアプリケーションの場合、Webサーバ(Apache)のダウンロード、インストール、設定・構成まで筆者がていねいに詳しく書いているのも、今の編集部の要請だろうね。

今の編集長/編集スタッフ/外部協力スタッフの姿勢や感覚には、なんか、雑誌というものづくりにおける、本物のやる気と才能を感じる。とっくに印刷版がなくなってしまった合衆国のLinux Journalなども、今の日経Linuxのポップぶりは、十分参考にすべきだ。

とにかく、オシゴトであれホビーであれ、コンピュータで何かするにはLinuxぬきでは成り立たない時代になってきた。かつて、Linux大衆化をねらって入門書を書いた私としても、たいへん欣快だ。ちなみに、あの本を肯定的に取り上げ、読者に推薦してくれたのも当時の日経の雑誌「日経ソフトウェア」だった。


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2013年8月12日 (月)

「人間」と「共同体」の乖離

蟻や蜂の生態について全然詳しくないけど、ざっとした印象としては、彼らの生にとっては「共同体」がすべてであり、それぞれの個体において、「自己」とか「個」とか「個の尊厳」という概念はまったくないと思われる。個体は、ときどき戦闘したり戦死したりすることも含めて、共同体維持のための機能をまっとうするのみだ。(違ってたらごめんなさい、蜂さん、蟻さん。)

また、今でも地球上の一部地域では、日常的に頻繁に大量殺人やそれらの結果としての大量死が生じているけど、これまた、いずれの場合も、彼らの一般的な認識としては、「個」に起きている事件ではなく、あくまでも彼らが属する共同体に起きている事件なのではないか。相当古代から人間の生活基盤は共同体であり、そして戦争は共同体が共同体としての自己意識を持つための重要な(ほとんど唯一の)契機だった。

た・だ・し、タイトルに『乖離』と書いたように、そんな共同体的殺し合いにおいても、今では、それをたいへん迷惑と感じている人びと==個が芽生えている人びとが少なからずいるはずだ。実際、中には金と運と縁に恵まれている人たちは、欧米諸国などに亡命したりする。恵まれていない多くの人は、現代世界をもっとも先鋭鮮烈に象徴する存在たる“難民”になる。さて、日本人難民化の危機の土壌を作り出したくてたまらない変態は、どこの誰?

もしかして過去には、全日本人の意識を「皇国共同体」が支配していたのかもしれない。そこで戦死は、本気で、共同体のための死、”お国のための死”として肯定できたのかもしれない。想像で言うにすぎないが。

個の自覚の伸展、意識の共同体離れは、生活のグローバル化の伸展と並行している。
こちとら、世界中のいろんな人と仲良くしなきゃ、食っていけないんだよ、生きていけないんだよ。戦争なんかやってる場合じゃねーや!。

ではなぜ、自民党は旧態依然たる古くさいタカ派が多いのか?
それは、日本各地に暗く蒙く蟄居するノングローバル・イナカモンが、彼らの主たる票田だからだ。
彼らの中では、日本は共同体である、共同体でなければならない、絶対的に!。…いやはや、とんでもないアナクロニズム。オクレテルー!、ズレテルー!。

アメリカでも、議会がときどき共和党多数になったりしがちなのも、日本と同じいわゆる一票の重さの格差により、超ローカル田舎保守が、ゴロゴロ選ばれてくるからだ。都市住民の票が正当な重さを持てば、オバマ氏の党が議会でも多数派になり、国民皆保険はとっくに実現していたはずだ。銃規制は、自分が暗殺されないようにやるのが、難しそうだけど。

(本稿未完)


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2013年8月10日 (土)

文明のversion 1へ


百歩譲って「志願兵・傭兵だけが死ぬ戦争」ならば許そう。

投稿: 南 | 2013年8月 9日 (金) 08時26分

そもそも一般市民(+女子ども老人)・非戦闘員が犠牲にならない戦争はめったにないし、また徴兵制のないアメリカなどでは軍隊に入ることが唯一の就職先(収入源)だったり、唯一の奨学金取得手段だったりするので、志願兵なら死んだっていい、とはとうてい言えない。

要するにもっと本質的なレベルでは、戦争というソリューションは無効だ、ということ。その似非ソリューションは次の戦争の土壌を必ず作る。魔女裁判~火あぶり刑とか、犠牲(いけにえ)の儀式とか、人類はこれまでも、いくつも野蛮と残酷を克服してきた。戦争も、その気になれば克服できる。

文明はcivilizationの訳語だが、直訳すると「一般市民化」だ。社会の構造や問題解決を、丸腰で互いに平等の一般市民が支えること。軍人、坊主、アプリオリな権力(王侯貴族、中国共産党、ほか)に依存しないこと。問題解決の相当部分を武力(似非ソリューション)が担っている現代までの人類社会は、したがって、文明のversion 1にすらまだ達していない。現状はおそらく、

  version 0.01

ぐらいだ。

日本が平和憲法、不戦憲法を守り抜き、そのことが尊敬され影響力を広げ、しだいにglobal standardとして認められてくれば、文明は、0.01から0.1ぐらいにバージョンアップしたと言えるだろう。

そして、戦争がグローバルに、魔女裁判のように完全な古語と化したら、やっとversion 1の実現だ。

日本の政治家はもちろん、世界中の政治家や政治家に影響を与えるような人々が、それぐらいの認識に達しなければ、えーかげん、だめですよ。

(本稿未完)

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2013年8月 8日 (木)

My Hiroshima

父親の転勤で引越のやたら多い子どもだったが、小学校4年生から中学1年までは広島にいた。ちなみに、転校が多いために、学校におけるいじめの本質をいち早く経験的に知った数少ない日本人の一人になれた、と思っている。えっと、それで、広島だけど、今は広島市の一部だが、当時は広島市の隣町のそのまた隣町で、ただしバスで広島市の中心街などへ行くのは簡単だった。ちなみにその隣接隣町の国道沿いには「東洋削岩機」という大きな工場があって、炭鉱夫が石炭を掘るための削岩機を作っていた。それがやがて、自動車メーカー「マツダ」になった。

で、広島市で休日などに頻繁に訪れたのが、原爆記念公園(a.k.a.平和記念公園)内にある、完成直後の児童図書館だ。

[工事中]
Koujichuu

[外観1]
Gaiken1

[外観2]
Gaiken2

[外観3]
Gaiken3

[内部1]
Naka1

[内部2]
Naka2

[内部3]
Naka3

それで、今回の話題は、当時は「平和記念公園」という希薄な響きの言葉はなかった。みんな、「原爆記念公園」と呼んでいた。行政の正式名称は何だったか、知らないけど。

それから児童図書館は当時はみんな、「原爆のキノコ雲の形を模したデザイン」と呼んでいた。マスコミもそう書いていたと思う。それが、今ではそう呼ぶことが暗黙のタブーになっている。美しい建物を、早期に解体撤去しちゃったことも、すごーくアヤシイ!(下に添付した資料参照)。

広島は今も、当時と変わらず「悲の町」だ。空気全体が、悲しみ色をしている。それが、子どもたちの心を包んでくれていた。私も包まれて、読書を楽しんだ。

広島(など)の大量死という高いコストで作られた、世界初の平和憲法、不戦憲法を、いまさらコケにするようなおバカ政治家は、絶対に許せない!

平和記念公園、ではない。原爆記念公園だ。
朝顔の花のデザインではない。原爆のキノコ雲の下で子どもたちが読書にふける場所だったのだ。

<<参考資料>>
JICA横浜 海外移住資料館 研究紀要第4 号(2010年3月発行)
<研究ノート>
広島の戦後復興支援 ― 南加広島県人会の活動を中心に ―
長谷川寿美(東海大学・非常勤講師)

丹下健三の設計により完成した児童図書館は「人々の意表を突く形状」で、初代館長の田淵実夫の表現を借りれば、「じょうご型の筒柱を中心とする総体ガラス張りの円筒型館屋」で「巨大な、朝顔の花をすっぽりとコップにはめ込んだような館屋」であった。

 図書館は第1 期工事が完成した後、1952 年12 月4 日に開館した。

 広島児童図書館はその後30 余年間、子どもたちの夢や知恵を育む場所として活躍した後、建物の
老朽化により1980 年に新しい図書館に建て替えられた。
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広島市立子ども図書館の2階ロビーに置いてあった建築模型。漏斗のようなシェル構造で、外壁は透明感のあるガラスカーテンウォール。何とわかりやすい形態なんだろうと覗き込むと、旧広島市児童図書館とある。設計は丹下健三、構造は坪井善勝、というゴールデンコンビ。1953年竣工、1978年解体とある。 こんなにも素敵な建物があったことを、不覚にも全く知らなかった。1978年は、僕は大学2年生だったが、まだ建築の話題に十分アンテナを張ってなかったかも。それにしても、建物の寿命が短すぎる。解体されてあらたにできたのが、今の建物だとしたら、それも残念。

山に登るさかな(賢築楽会)名古屋市立大学芸術工学部鈴木賢一研究室のメンバーによるブログです。
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広島市児童図書館は、昭和27年12月に開館、全体が完成した翌年12月に落成式が行われました。この建設費用の大部分である400万円は、昭和25年(1950年)にロサンゼルス市の南加広島県人会から児童図書館建設費として寄贈された浄財でした。丹下健三氏の設計による建物は、キノコ形・朝顔形の図書館として親しまれましたが、老朽化などのため昭和53年に閉館・解体されました。現在の広島市こども図書館は昭和55年に開館しています。

メールマガジン「ひろしまファンクラブ」のバックナンバー
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<<参考資料終わり>>

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2013年8月 5日 (月)

がんばれ

イスラム/アラブ世界って未だによー分からんけど。あのへんに(インドヒンズー圏もか?)蔓延している(往々にして残虐な)女性虐待、あれは一体なんだろう? もちろん、当の女性自身は納得肯定しているわけではない。

生物の進化は子どもから起きる、という説があるけど、人類の場合は女の子からかな。マララちゃんに次いで、この子(ナーダちゃん)にも「がんばれ!」と言いたい。

一部の日本人女性も、各地で、女性~子どもの地位向上のためのボランティア活動をしているようだけど、世界唯一の平和憲法を誇る日本は、国の事業としてやってもいい。現地の子にとって、いいボランティアに当たることは、宝くじに当たるぐらいの低確率かもしれない。


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2013年8月 4日 (日)

オトコの知==猿の対象知

これはコメントへのレスですませるにはもったいない、たいへん重要な話題なので、このように別記事を立てさせていただく。

この記事への、エクセルさんという方からのコメントに、こんな箇所がある:

> マルクスが、資本主義は必然的に個々人間の連帯を妨げるといったようなことを言っていたような記憶があります。コミュニケイション不通、忌避の原因の少なくとも一部は、個々人の倫理観や特定国家の文化を超えたところにもあるのかもしれない(後略)

ここで問題となるのは、「資本主義は必然的に個々人間の連帯を妨げる」というくだりだ。

オトコの目は、目の前の対象の現状("現象")を見て、「XXXがYYYだ」という論理を立てる。

しかしその論理は完全に倒錯していて間違い(wrong)である。

対象知が与える欺瞞に惑わされない、対象知を超越した本質知は、「YYYだからXXXだ」という状況を見抜く。

ここでは、連帯という気持ち悪い古語・死語を忘れて、"コミュニケーション"という言葉を使おう。
〔*: この"連帯"も、猿のバナナ(後述)的な、対象知コトバである。〕

また、貨幣現象のサブセットでしかない資本主義ではなく、「貨幣の絶対的支配」というより一般的な言葉を使おう。

すると、オトコの対象知的論理ではこうなる:
# 貨幣の絶対的支配がコミュニケーションを妨げる。

正しい本質知はこう言う:
# コミュニケーション不能が貨幣の絶対的支配を招来している。

XXXがなくなればYYYという事態は自ずと解消するのか? そんなことはありえないだろう。…と考えると、対象知的論理の根本的な間違いがよく分かるだろう。

この問題は、いわゆるシンサヨクも含めて、これまでのすべての左翼思想(incl.社会主義、共産主義)の、それらをすべて箒で掃き集めてゴミ箱に入れて焼却すべき、抜本的かつ深刻な過ちの本質である。それは、ものすごく重大な過ちである。

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いわゆる従来の自然科学(incl.数学)と、それに基づくいわゆる科学技術もすべて(一見どんなに複雑高度でも)、視野狭窄的な対象知に貫かれていることを、片時も忘れてはならない。それに対し、本質知はこう言う:

「AAAがBBBなのではない。BBBはAAAのお前の定義や観測姿勢に最初から含まれているのだ。しかもその定義は、欲望が存在を切り取った小片にすぎない(他者不在、他者無視)。目の前にバナナがあればバナナしか見えない、猿の欲望。」


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