マスメディアの大誤解大倒錯(続)
これまでのマスメディア企業のあり方は、電力会社やガス会社などにたとえると、電気やガスを生産して配給する以外に、電球一個から大型工作機械製造機械に至るまで、すべての種類の利用機器の生産販売をも、彼らが独占しているような状態だ。
実際にそうだったら、経済と社会の活気がどうなったか、想像がつく。幸いにして、そうはならず、大きな電気機器産業が育ち、成長した。昔も今も、完全な参入の自由がある。
実際にそういう愚鈍なあり方を何十年も抱えてきたマスメディアは、確かに経済と社会の活気を沈滞させ、自らのビジネスの内容をも頽落させてきた。前回書いた、“常連お笑いタレントたちの草刈り場”という言葉が、それを象徴している。新聞もテレビも、もうだめである(広告費効率の悪さに企業がいつごろ気がつくか…)。
マスメディアが最初から、公共財としてオープンでパブリックな存在にならなかった大きな理由の一つとして、「人はコミュニケーションによって生くるあらず, 上意下達によって生くるなり」という、強固なオトコの哲学、旧人類の哲学があったと思われる。すなわち、コミュニケーション不能を地盤とする情報配布形式だ。
マスメディアという名で呼ばれてきたブロードキャスティングインフラストラクチャが、その利用が、真にオープンでパブリックになったあかつきには、非常に多様なおもしろい利用形態が生まれるだろう。このインフラは始めて、経済と社会を沈滞させるものから、それらを活気づけより動態化(多方向ダイナミック化)するためのインフラに変わるだろう。
私が第一番に想像するもののひとつは、investigating(investigative) journalism(調査ジャーナリズム)とengaging(engaged) reporting(関与型報道)の勃興と大成長だ。
今は、アクセスの自由なインターネットの上でさえ、この二つのものの現状は、とてもお寒い。
関与型報道は、あのとてつもない地震津波放射能災害に関してのみ、偶然的非正規的非本格的に、そして小規模散発的に、いくつかの事例はあったようだ。私自身も自分の世代が壮年世代なら、犬猫数頭数匹ぐらい当然預かって里親募集活動をしただろう。だが、そこで起きた関与型報道は、個々の小さな浅い事例が「たまたま」起きたにすぎない。最初から本格的な関与型報道として、正規に、強く大きく、どかん!と行われていない。そのための舞台装置もない。社会の関心が、関与型報道へ向かう良いチャンスだったのに。単なる伝える~見る報道から、伝える者も見る者も関与しなければならない報道へ。それを、報道のデフォルト常態とする。
調査ジャーナリズムは、そもそも、それで食えるという経済基盤がゼロのため、現状はおそろしく貧しい。試しにネット上で、「この事件についてその後の現状(あるいは背景)を詳しく知りたい」と思って、調べて見よ。ほとんどの場合に、ろくな成果は得られないで終わる。広告収入をアナウンサーなど無用な社員~役員たちの高額給与や、タレントの高ギャラ、白痴番組の高額制作費等に回すことをやめれば、本物の調査ジャーナリズムが沃々と育つだろう(そして広告のインプレッション==企業の広告費効果も増加する)。それでやっと、マスメディアはおもしろいものになる。もちろんそのアーカイヴが、ネット上に必要だ。
電気がアクセス自由だったために、いろんな機器が栄えたように、ブロードキャスティングインフラストラクチャについても、その便利な、おもしろい、そしてとても有意義な、利用をまずいろいろ想像してみよう。今のマスメディアを打倒してマスメディアversion 2が実現したら、さっとすぐに取り組めるように。
※: もちろん、関与型報道(調査ジャーナリズム)==調査ジャーナリズム(関与型報道)である場合が、非常に多くなるはず。
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