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2013年5月30日 (木)

異様な権威と化したオリンピック

あの、世界遺産というわけの分からんものもそうだけど、どこの何がすばらしい、おもしろい、なんて話はインターネット上で完全民主化すれば、それでよい話。国連を、わけの分からん権威にしてしまうのは、おかしいじゃん。なんなんだ、あれは?

オリンピックもそろそろ、やる側も見る側も、完全ボイコットした方がよいよ。スポーツこそ、やる側と、見る側の一部が、完全民主的に支えればよいだけの話。そのほうが断然、全員の気分が良いはず。一例として女子ソフトボールも、企業スポンサーがどっさり付いた世界大会の方が、ずっとおもしろいでしょう。

自分からコミュニケーションせずになんでもかんでも権威とそのお墨付きに頼ろうとするのは、中長期的に見て、「グローバル死」への道じゃ。オリンピック依存を貫くスポーツは、死ぬ。

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無目標の英語教育

日本以外ではみんな英語がうまいのは、英語じゃないと世界に自分の意思や気持は伝わらない、と痛切に理解しているからだ。尻に火のついたコミュニケーション意欲。

それがなきゃ、外国語は上達しない。

目標と、それを達成するための方法論構成、が欠けている今の日本の英語教育行政。

「小5で英米の11歳なみの英語力を身につける」を目標にすべきだ。前から、オランダがそう。昔はオランダ語がグローバル言語だったが、今はとっくにそうでないことを、彼らは相当前から自覚している。

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アベノミクスはミニバブルだ

グローバル&ドメスティックの新強力産業という中身がない。中身ゼロ。実体がない。張り子の虎、風船、つまりバブル。

中央銀行を傀儡化して、貨幣供給量を操作するという、古くさい、幼稚な、そして危険な…真の効果のない…取り組み。短時間しか効果のない、覚醒剤。醒めたあとのリバウンドが惨い。

自民党がだめだから民主党にしたのに、まただめなのに戻る。第三の選択肢がない不幸。あのうすぎたない君が代おじさん/慰安婦おじさんを、第三の選択肢と呼ぶことはできない。

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2013年5月20日 (月)

グローバル文化

グローバル文化というものはまだない。今ある文化はどれも、ローカル文化、特定共同体文化(ないしその残滓)である。ここ数十年、それらの生き残り悪あがきがさまざまな形で顕著であるが、それはここでの話題ではない。

Only the water can help me now
I'll find glory somewhere, somehow with the water
sweet water, wash me down
Come on water sweet water, wash me down

Tried my hand at the bible, tried my hand at the prayer,
but now nothing but the water is gonna bring my soul to bare.
聖書も読んだ、お祈りもした
でも水だけが私の魂を裸にする(ありのままの私にする)
--Nothing But The Water (II), Grace Potter and the Nocturnals

(宗教というローカル文化の否定。普遍的なグローバル文化の基盤は普遍的な自然と自然への愛やリスペクトである。)

This is the greatest time of day
When all the clocks are spinning backwards
And all the ropes that bind begin to fray
And all the black and white turns into colors
束縛のロープはすり切れ始める
そしてすべての黒と白は色の種類にすぎないものになる(色たちの仲間になる)
--Colors, Grace Potter and the Nocturnals

(差別、例: 人種差別というローカル文化の否定。普遍的なグローバル文化においては、人間はすべて、ひとしく、単なる人間("個”)である。)

I had three daughters
A new man for every one
The only man that i ever loved
Left me with my only son
I was a no good mother
I was a no good wife
There's only one thing that i did right in this godforsaken life
Saint peter won't you open up the big white gate
四人の男とのあいだに四人の子を設けたふしだらな私のために
聖ペトロは天国への門を開けてくれないだろう
--Big White Gate, Grace Potter and the Nocturnals

(結婚/世帯というローカル文化(しかも宗教というローカル文化がそれ暗黙にを支えている)の否定。普遍的なグローバル文化としての性関係はポリアモリー的なものになる。)

あと、Moneyという曲もあるけど、ここでは省略。ここに挙げた3曲の中では、「水」が、いちばん“聞かせる”、説得力のある曲です。Potterによる、Neil Youngの(かつてスペインで放送禁止になった)Cortez the Killerのカバーも、名唱なり。

というわけで一部のロック音楽と一部のオープンソースソフトウェアムーブメント(e.g. Linux)は、グローバル文化の土壌を準備しつつある、ぐらいは言えるかもしれない。


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2013年5月12日 (日)

Scratchに見る明日のプログラミング言語

前から気になっていた教育用(or子ども用or入門用)プログラミング言語ScratchをWeb上で気軽に使えるようになった(ついでにバージョンが2.0になった)ので、ちょっとかじってみる気になった。

ほんの一口かじっただけで、目からうろこ、である。

たとえば、無限ループは

forever

である。(ボランティアの方々により日本語化されていて、日本語なら「ずっと」だ。)

ふつうの人なら、無限繰り返しの指定が「forever」「ずっと」は当たり前、と思うだろう。

でもわれわれプログラミング原始人は、無限ループをしたいとき、

while (true){

とか、

for (;;){

という、特殊な呪文のようなものを書かされていた。これでは、子どもとか、ふつうの人がプログラミングを敬遠して当然だ。

また、繰り返しはScratchでは、

repeat 10

などだ(上は10回繰り返す)。

一方、われわれプログラミング原始人は、どう書かされたか…

(やめておこう。)

いまどき日本語でプログラミングを習得するのは不利益ではないかとも思うが、でも子どもの年齢的に英語を本格的に勉強するようになるまでは、日本語化されているScratchでプログラミングを遊べば十分だろう。

毎日犬猫三昧で十分なヒマもなく残念だが、すこしずつ、Scratchの門をくぐって行ってみよう、と今は意思している。子どもでなくても、プログラミングの完全な未経験者も、まずWeb上で(==ブラウザ上で)日本語Scratchに入門してみるのも、悪くない。

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2013年5月 5日 (日)

五月人形, 雛人形

節分という行事については前に書いたけど、本日は季節柄、五月人形、ついでに雛人形について。

いずれも、単純に人形そのものとして見れば、単純に「かわいい」ものたちでしかなく、目くじら立てるのも野暮かもしれない。But, 五月人形は別名、武者人形とも申しまして、男の子が兵士となることをもっぱら賞揚しているのである。共同体性のなごりだ(共同体==コミュニケーション不能の源泉==戦争好き==オトコは使い捨て兵士や軍人)。だから日本の五月人形は今や世界に対して恥ずかしいから、やめるか、もしくは武者でないキャラクターに変えるべきだ。

ついでに雛人形は、まさに階級社会の肯定そのものである。最上段にあるのは、支配の象徴としての天皇皇后夫妻、または家長夫婦だろう。そして被支配階級として、キャリアOL、ミュージシャン(宮廷楽士)や召使いたちがいる。これも今どき古すぎて恥ずかしいから、廃止すべきだ。そう、今どき、女の子の将来の健康と幸福を願うためのキャラクターとしては、"花嫁人形”すら恥ずかしいだろう。うーん、候補を挙げるのが難しい。

というわけで、共同体性のなごりのような慣わしや制度(例: 結婚!!)には、今や、「ろくなものがない」と見定めるべきである。こういったことにも、気づきのレベルアップが必要だ。

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2013年5月 3日 (金)

ヨーロッパ1950年代

西洋クラシック音楽の、録音されていて今でも聴くことのできる(主としてヨーロッパの)演奏は、文句なく、圧倒的に、1950年代のものがベストである。バッハの教会音楽ならカール・リヒター、ベートーヴェンの交響曲の指揮ならウィルヘルム・フルトヴェングラー、等々々々。

悲惨な戦争の記憶がすぐ背後にあり、新生への覚悟と意欲が各自の胸の前にある。そこから、ピュアで強力な音楽が生まれてくる。やがてそれは、EUの誕生へと連なっていく。

今は、クラシック音楽に、ほとんど意味のない時代である。だから、そのほとんどが、聴衆も含め、頽落している。演ること、聴くことに、大きな積極的なモチベーションが伴っていない。

しかし、不戦憲法に込められた、多くの犠牲者たちの想いと魂を、あっさりと足蹴にせんとする、とんでもはっぷん軽率ナンセンス粗暴なるゾンビ政治家たちの一大愚行が始まらんかとしている今日、1950年代ヨーロッパクラシックの演奏を聴いて、こちらの想いをあらためてリフレッシュするもよかろう。

モーツァルトのニ短調ピアノ協奏曲は、モーツァルトの全作品の中で、きわめて特異な曲である。それのみ、のちのベートーヴェン以降のロマン派、さらにもしくは激しいロック音楽にさえ連なるかもしれない、個人の主観性、感情性を、一種の緊迫感と激情性をもって具備している。どうしてこんな曲を作ったのかについては諸説あるけど、ここでは省略。

昨日〜今日とお仕事がややヒマだったので(犬猫仕事の方はヒマは生じないが)、YouTube上でニ短調ピアノコンチェルトを10人ぶんぐらい聴きまくった。で、やっぱり、緊張感と純粋性に貫かれた真摯な名演は、1950年代である。リリ・クラウス(Lili Kraus)とクララ・ハスキル(Clara Haskil)だ。そしてワルター・ギーゼキング(Walter Gieseking)。ちなみにクラウスは、1970年代のNHK交響楽団によるものもあるが、こっちはたるんでいて、だめだ(そもそもオケが良くない)。

もしも、多くの日本人のアイデンティティの拠り所だった不戦憲法が無惨にも殺されたら、そうなったらなおさら、こっちは一段と強力に生き続けなければならない。アイデンティティ抹殺。自殺したくなるほどのひどい惨状の中でこそ、くそっと立ち上がる必要がある。戦死した伯父さん二名の無念を晴らし、殺された私らのアイデンティティを取り返すためにも、愚かなゾンビたちのやった無意味と粗暴をリセットするためにできるかぎり尽力しなければならない。だから私(たち)の心は今、1950年代のヨーロッパモードになってしまうのである。目の前に、これから築く新しいものが、どうしても現れてしまう。


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