ヨーロッパ1950年代
西洋クラシック音楽の、録音されていて今でも聴くことのできる(主としてヨーロッパの)演奏は、文句なく、圧倒的に、1950年代のものがベストである。バッハの教会音楽ならカール・リヒター、ベートーヴェンの交響曲の指揮ならウィルヘルム・フルトヴェングラー、等々々々。
悲惨な戦争の記憶がすぐ背後にあり、新生への覚悟と意欲が各自の胸の前にある。そこから、ピュアで強力な音楽が生まれてくる。やがてそれは、EUの誕生へと連なっていく。
今は、クラシック音楽に、ほとんど意味のない時代である。だから、そのほとんどが、聴衆も含め、頽落している。演ること、聴くことに、大きな積極的なモチベーションが伴っていない。
しかし、不戦憲法に込められた、多くの犠牲者たちの想いと魂を、あっさりと足蹴にせんとする、とんでもはっぷん軽率ナンセンス粗暴なるゾンビ政治家たちの一大愚行が始まらんかとしている今日、1950年代ヨーロッパクラシックの演奏を聴いて、こちらの想いをあらためてリフレッシュするもよかろう。
モーツァルトのニ短調ピアノ協奏曲は、モーツァルトの全作品の中で、きわめて特異な曲である。それのみ、のちのベートーヴェン以降のロマン派、さらにもしくは激しいロック音楽にさえ連なるかもしれない、個人の主観性、感情性を、一種の緊迫感と激情性をもって具備している。どうしてこんな曲を作ったのかについては諸説あるけど、ここでは省略。
昨日〜今日とお仕事がややヒマだったので(犬猫仕事の方はヒマは生じないが)、YouTube上でニ短調ピアノコンチェルトを10人ぶんぐらい聴きまくった。で、やっぱり、緊張感と純粋性に貫かれた真摯な名演は、1950年代である。リリ・クラウス(Lili Kraus)とクララ・ハスキル(Clara Haskil)だ。そしてワルター・ギーゼキング(Walter Gieseking)。ちなみにクラウスは、1970年代のNHK交響楽団によるものもあるが、こっちはたるんでいて、だめだ(そもそもオケが良くない)。
もしも、多くの日本人のアイデンティティの拠り所だった不戦憲法が無惨にも殺されたら、そうなったらなおさら、こっちは一段と強力に生き続けなければならない。アイデンティティ抹殺。自殺したくなるほどのひどい惨状の中でこそ、くそっと立ち上がる必要がある。戦死した伯父さん二名の無念を晴らし、殺された私らのアイデンティティを取り返すためにも、愚かなゾンビたちのやった無意味と粗暴をリセットするためにできるかぎり尽力しなければならない。だから私(たち)の心は今、1950年代のヨーロッパモードになってしまうのである。目の前に、これから築く新しいものが、どうしても現れてしまう。
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コメント
考えが正しいか正しくないかは
その考えを支持する人の量の多寡と
関係が無い。
世界中の国々が軍隊を持っていたって
それが正しいことかどうかは
別の問題。
投稿: 南 | 2013年5月 7日 (火) 08時53分
モーツァルトのPコン20番聞きました。
確かに第1楽章は彼らしからぬメロディーがそこかしこにありますね。
投稿: みなみ | 2013年5月13日 (月) 08時34分
1950年代の演奏、テンション高いですね。
投稿: bad | 2013年5月14日 (火) 20時07分