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2013年4月23日 (火)

なぜ他者不在になるのか

以前、テツガクの大罪とテツガクの大革命で書いたように、われわれが今コミュニケーション論の視座で言っている「他者」なるものは、旧人類・コミュニケーション不能人類の粗末な脳においては、単一存在/単一宇宙内の、あまたある「存在物」のひとつ、その一種類でしかない。だから、「他者」はどこにもいない。

だからとくに脳が狭小で永久に未発達なゾンビ政治家たちにおいては、一人の死せる兵士たりとも、犯すべからざる劃然たる独立の人格である、という認識が持てない。彼らの他者不在視野においては、国家のために死んだその他大勢の兵隊たちの一人、という「存在物」でしかない。

猫もただ、かわいい猫として見ればそれは、私の視界に開ける単一宇宙内の「存在物」の一つでしかないが、つくづく見れば、やはり単独の独立の自立しているひとつの人格であり、一個の立派な「他者」である。キーボードの上に乗ったりその上で寝たりするのを防止するためには、キーボードを立てておくという対策しかないのである。叱るという行為は、霊たちの夜須邦仁蛇<祀封>(==国営動物園)などと同じ一種の"同一視”であり、"他者視”ではない。叱る/祀るという自己の基準は、他者には通じない。

なぜ、コミュニケーション不能旧人類はトレードに妄執するのか(とりわけ人の労働力のトレード==雇用)。それは、人が他者というコミュニケーションのパートナーではなく、トレードの相手のone ofという存在物にすぎないからだ。言い換えると、人は人にとって「物」である。人にとって人は、物性の厚いカーテンの向こうにかろうじて、顔も何もかも不明なまま、でくのぼうのように存在する、無人称無表情な物であるにすぎない。その利害の解決は、戦争とトレードという二種類の武器しかない。

他者不在の脳には、トレード関係がすべてであり、すべてになんかなれないのに、むりやり、すべてである。そこに悲惨の根因がある。トレードという苛酷な差異関係ではなく、コミュニケーションという平等公平関係を、追求することを彼らの脳はイメージできない。


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コメント

「オンナをモノにする」
という言いかたもありますね。

オンナは人間です。

人間は物ではない。


狂気だと思う。

投稿: みなみ | 2013年4月24日 (水) 08時11分

この間、友人のお子さんが拾ってきた子猫の保護に思いかけず関わりました。

一匹の子猫の為にいろんな大人がすぐに動いていました。
とにかく温めてあげて、ミルクを飲んでないはずなのですぐに保護に動いてくださいと私に言った広報の方、車で引き取りに行きそのまま病院に運ぶ方、良心的な活動に理解ある獣医さん、そしてなんといっても世話を引き受ける方。すぐに活動をされている方々に投げて、本当に正解だったと思います!

犬も猫も飼った事がない私のようなど素人では、いくらがんばったとしても、無理だったでしょう。
子猫は牛乳を飲めない、自分で体温調節できない、排泄できない、2、3時間ごとにミルクを与えること、知らないことばかりでした・・・。専門家に任せなければ、あの病院の診察台で初めて箱から出した時に私の魂をふるわせた、一個の小さないのちはこの世から消えていたでしょう。

彼の目は膿んで閉じていました。その闇の中で、だれに向けてか、目一杯の鳴き声をあげ、一生懸命ちいさな手足の指を広げ・・・ただ無謀で無防備の、救われるべき命そのものに見えました。

hiwaさんのブログを読んでいなければ、地域猫活動について調べていなかったし、活動家の連絡先も調べてなかったと思います。どうなっていたことか。

その子猫は不思議と幸運で、友人のお子さんが拾ってきたのが、その団体が一年かけて準備してきた初めての写真展の前日だったので、たまたまいろんな助けてくれそうな人が集まっていたのです。
今は拾ったお子さんの住むマンションの隣の棟(これも偶然なのですが)で、昼夜問わず2、3時間ごとのミルクをやさしい方に飲ませてもらっているはずです。一日三回の目薬で結膜炎の目はもう開いたでしょうか。

ありがとうございました。

投稿: 長谷川 | 2013年4月24日 (水) 23時26分

なぜ人は貨幣・おカネを欲するのか。
a 人は働いた分だけ見返りを貰わないと気がすまない。逆に言うと、見返りのないところでは誰も働かない。
b おカネという存在がなければ、人は働いた成果というのを実感しにくい。何万個売れた、何百万儲かったというのが、人の満足の決め手となっている。無貨幣になればそんな分かりやすい、目に見える基準というものが全くない。張り合いがない。
人間の欲とは、人より努力して上位に立とうとするものではないか。そこには、「平等公平」という感覚はない。そうであったから今の文明があるとも言える。
だーけーどーである。いまの戦前のような末期的な状況の中で、「人より抜きん出て上位の階層を」という余地が今の日本に有るのだろうか。もう高齢化・少子化・福祉増大・購買力低下・人口減少というシナリオは見えてるんじゃないか。ウマイオイシイ上位の余地とはほとんど無しと言ってもいいだろう。
それなら、次に来るのはコミュニケーション社会である。助け合い社会と言ってもいいかもしれない。もう上位を狙うという欲ではなく、いかに物事を回していくか。足りないところと余っているところの調整。人は足りない所におもむいて働きを得る。感謝を得、喜びを得る。未来社会の断片ジとして、こんなのもあるんじゃなかろうか。

投稿: ohiya | 2015年3月 5日 (木) 19時50分

今のままのトレード脅迫に晒されているままなら、もっと日本全体の生活水準は下がっていくばかりだと思う。そうとしか考えられない。せっかくこの高みまで登ってこれた日本である。それを貨幣の暴虐(人間の盲欲)に身を預けっぱなしで、ドブに捨てて良いのであろうか。なんとか、カネやトレード(等価交換・雇用関係)という黒い制度から目を覚まし進化したいのである。

投稿: ohiya | 2015年3月 5日 (木) 20時12分

[追加]
下がっていくばかりだと思う。(社長クラスが考えているのは経費・人件費削減がメイン。)
[変更]
目を覚まし、より住みやすい社会へ進化したいのである。

投稿: ohiya | 2015年3月 5日 (木) 20時31分

@iwatani
>トレードという苛酷な差異関係ではなく、コミュニケーションという平等公平関係を、追求することを彼らの脳はイメージできない。

平等公平関係によって成り立つ社会とは、脅迫や私欲によって動かない社会じゃないだろうか。そんなもののために前進しない社会。安定の中にとどまる社会。変化はトレードではなくニーズによって変化する職場・生活場、新しい人と出会う、触れ合う変化。新しい恋なんか勿論OKである。

前進するとすれば、社会全体が動くイメージ。局所的なラットレースではなく、状況の変化により社会全体が必然的に動くイメージ。けして権力者の欲によって動かされるのではなく、状況の変化に対応するために全体が動くイメージ。

投稿: ohiya | 2015年3月15日 (日) 06時49分

A;「おうテッちゃん、聞いたかい。いま、向こうの国の漁場で人手が足りねぇっていう話をよ。」
B;「そうだってな。これからの時期冬の魚が取れるっていうのに、人がいなくちゃどうしようもねぇもんな。」
A;「どうだい、これから半年向こうに住み込んであっちの仕事をやってみるたぁ。」
B;「いいねぇ、こっちにいてもそれほど忙しくねぇしな。ついでに向こうの旨い魚と酒をご馳走になってくるか。春になったらまた考えりゃいいしな。由美子も適当に男見つけてうまくやっていくだろう。」
二人;「それ、レッツゴー。」

投稿: ohiya | 2015年3月29日 (日) 15時51分

上の場合、うっすらでも「個人≒社会」という事が、自覚されているのが望ましい。個人の中に、どう動いたらベターなのかという事が、自然にインプットされている状態。
広い見識と、融通無碍な情報の行き来。

投稿: ohiya | 2015年4月 3日 (金) 07時55分

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