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2013年3月 1日 (金)

コミュニケーション視座からの自然科学の解体脱構築

これまでの、科学ないし自然科学がよって立つ基盤は、それが実在の学であるという過誤だ。しかしその実態は、完全な自己疎外であり、阻害され自己でなくなったものを外的・客観的実在と迷信している。

その実態は、それは外的客観的実在ではなくて、ヒトという動物内のその動物固有的現象にすぎない(とくに脳細胞などの生理的現象)。ブログ以前のシリーズ「コミュニケーション有能への進化」でも、またこのブログでも、散発的に書いたが、『定義の中にすでに証明がある』のだから、それは外的実在に関する新たな発見などではない。

素粒子は無限に理論され、その実在の確認のためには、ついに、宇宙全体と同サイズの加速器なり衝突器なりを要するだろう。たいへんな無駄金(そしてスペースの無駄使い)だから、そろそろ醒めて、やめた方がよい。脳の動物的生理の、自己疎外的繰り返しにすぎないのだから。ビッグバン仮説も、脳の生理が求めているつじつま合わせにすぎない。

このテーマは、もっとヒマと能力のある人がやった方がよい。とりあえず、数学と物理学と生物学が主要な破壊標的か。実在をつついているのではない、おまえ自身を阻害的に(==いかにも外的実在であるかのように)つついているにすぎない。

コミュニケーションにとって重要なのは、自己疎外の廃棄、阻害からの、自己の、自己への回帰である。

定理も証明も、悪無限の素粒子理論も、みな、最初からそこにあったことが、ついに自覚されるだろう。

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コメント

 「学」と「テクノロジー」を峻別することが端緒になり得るか、と思いますが、この課題は難解です。
 「貨幣の廃棄」と言えば、直感的にではあれ賛否それぞれ反応がありますが、「自己疎外/阻害としての学の廃棄」では、先ず「???」でしょう。
 それだけに、取り組むべき、やり甲斐のある課題なのだと考えています。

投稿: 市川智 | 2013年3月 2日 (土) 17時49分

ちょっと分野違いかもしれませんが、存在の直立性(個体性)が真のコミュニケーションに入る時、実はそこに、素粒子が介在しているのだ、というようなことを言っている人がいます。存在の直立性において、他者もまた直立しているのであるから、それは通常の空間においては出合うことはできず、複雑な空間の交差の様相を呈する。それが、意識の高次元空間であり、これが、素粒子論におけるゲージ対称性構造と相似であるというのです。これを通常の三次元的な客観宇宙に次元を落としたかたちで展開されているのが従来物理学の解釈。しかし本質は、それはコミュニケーション空間であるという考え方です。岩谷さんはどう思われますか(笑)

http://twilog.org/kohsen/asc

投稿: saigonodorei | 2013年3月 3日 (日) 22時50分

なるほど
科学者の「お客さん感」に以前から違和感を持っていましたが
こういうことですか。

投稿: 南 | 2013年3月 4日 (月) 09時30分

saigonodoreiさんのコメントは、saikounogyagに見えました。

投稿: ohiya | 2014年11月 5日 (水) 06時22分

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