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2013年3月18日 (月)

気づき(awareness)のレベルアップ

・コミュニケーションという問題意識を持つこと
・貨幣の本質が差異という冷酷であると気づくこと
・動物園は動物虐待だと気づくこと
・スーチーさんが「ビルマ」と言ってるなら日本語訳も「ミャンマー」でなく「ビルマ」にすること
・今における天皇制は人格虐待だから廃止すべきと気づくこと
等々々々々々…

これらにはすべて、その人の気づき(awareness)のレベルアップが必要である。

今の皇太子は家庭指向だし、その奥さんは皇室の祭祀に違和感を持っているようだから、継位者としての皇太子を退位すべし、との議論が(まじめに!)あるらしい。今のコミュニケーション不能人類は、awarenessがどんどんレベルダウンしていくこともあるんだな。

今および今後に関して、天皇制の存在理由について、納得のいく説明をできる人は、一人もいないくせに。この鈍感粗暴論者ども。


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TPP

TPPの具体的な内容は知らないし、知りたくもない。

このブログやその前身のエッセイ集などで追究されているコミュニケーション学/コミュニケーション理論は、結果的かつ部分的に、批判的トレード論でもある。人類はトレードを、なし崩し的に徐々に、コミュニケーションへと融解していく必要がある。

で、国と国が締結するトレードの取り決めは、品目別、業種別、必要なら国別(+何らかの特殊状況別)にやるべき。私の結論は、それで終わり。それ以外の正論は、ありえない。計算は相当面倒になるが、今はコンピュータという計算機械があるから平気だ。国と国が、お互い相手の状況を理解し配慮しながらやるトレード取り決め交渉は、コミュニケーションに近いものになるうるだろう。

ふつうに「例外品目」と言えばいいのに、「聖域」とか「sensitivity」とか気取った言葉を使ったり、TPPのまわりには欺瞞臭が充満している。

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2013年3月11日 (月)

脱リニア脱シーケンシャル--eブックを超えて

eブック(電子書籍)はくだらない、という話はずいぶん前に書いたと思うけど、この2月下旬から3月上旬にかけては、AmazonのKindleデバイスと、タブレット上のKindleアプリの両方で、くだらなさと悪戦苦闘する機会があった。ま、結果的にはハンズオンな経験知を獲得する機会にはなったけど。

ここで書こうとする結論1は、一般的な著作というか表現の手段として、脱エディタ、脱ワープロ、ついでに脱”ホームページビルダー”して、HTML5とCSS3と、+少々のJavaScriptから成る『オーサリングツール』を普及させよ、ということ。私が暇人なら、とっくに開発に取り組んでいるだろう。ツールそれ自体が、Web上のサービス、いわゆるWebアプリケーションであればよい。

プレゼンテーションの世界も、長年支配的だったMicrosoftのPowerPointに代わって、ノンリニアでノンシーケンシャルなプレゼン構造を作れるPreziなんかが人気者になりつつある。プレゼンツールも、言うまでもなく、狭義のオーサリングツールだ。

eブックは、あくまでも一時的過渡期的なものだ。しかも、相当ぶざまな。

そこで結論の2は、いわゆる本は、eブック+eブックリーダーで見る・読むより、ふつうの従来的な本の方が内容へのアクセス性がずっと優れている。たとえば、本物の本なら、パラパラ読みができる。ノンシーケンシャルな読み方も(付箋などつけながら)気軽にある程度できる。だからこそ、コンピュータの上に本を載せるのは馬鹿げている。

コンピュータ+ネットワーキングの本質は、(場所を限定されない)ノンリニアリティ、ノンシーケンシャリティ、そして何よりも重要なこととして、対話性にある。本をコンピュータに乗せたeブックは、コンピュータの手足を縛り上げてそこらにころがした、甚だしい制約のかたまりでしかない。

あのころは、eブックというおかしなもんが、一時的にあったよな、という思い出話と化すであろう。まさしく真にコンピュータ的ネットワーク的オーサリングツールが一般人の日常化し、それで作ったコンテンツがネットワーク上にパブリッシュされていけば。

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2013年3月 4日 (月)

コミュニケーション視座からの自然科学の解体脱構築(II)

コミュニケーション視座からの自然科学の解体脱構築が必要である理由は、自然科学の言語が実在を記述できないことにある。自然科学の言語は、一般化され、(原理的に)いくらでも代替可能な存在物を記述するが、真の実在は、意識主体を持つ生物にかぎらず、あらゆるものが、一般化不可能で代替のありえないものである。自然科学は真の実在、すなわち「それはそれしかない」ものを記述できないから、実在知でばなく、したがって完全に反コミュニケーション的である。自然科学は非実在、すなわち、この宇宙のどこにもないもの…一般的で代替可能なもの(==欲望の対象、対象知が作る像)…を追究し記述している(ムナシー!)。とりわけ人間は、その頭と心が、自然科学的になってはいけない。コミュニケーション有能な人類への進化のためには。

また前回は、それは外的実在ではなく固有の脳内現象にすぎない*、と書いた。その愚かで硬直的な脳内現象がたとえば、そのうち、全宇宙サイズの加速器や衝突器の必要性をうったえるだろう。ビッグバンという愚説も、同じくその脳内現象の帰結にすぎない。だから昔、某オルターナティブサイエンスの日本人の方(お名前を失念!)が主張したように、無機物から生命体を構築〜記述する(それは、実は、不可能)ではなく、その逆、生命を始原として万物を構成〜記述していく『真の知』がコミュニケーションの基盤として必要とされるのである。

*: 固有の脳内現象==が作りだす恣意的概念。

(この稿未完)

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2013年3月 1日 (金)

コミュニケーション視座からの自然科学の解体脱構築

これまでの、科学ないし自然科学がよって立つ基盤は、それが実在の学であるという過誤だ。しかしその実態は、完全な自己疎外であり、阻害され自己でなくなったものを外的・客観的実在と迷信している。

その実態は、それは外的客観的実在ではなくて、ヒトという動物内のその動物固有的現象にすぎない(とくに脳細胞などの生理的現象)。ブログ以前のシリーズ「コミュニケーション有能への進化」でも、またこのブログでも、散発的に書いたが、『定義の中にすでに証明がある』のだから、それは外的実在に関する新たな発見などではない。

素粒子は無限に理論され、その実在の確認のためには、ついに、宇宙全体と同サイズの加速器なり衝突器なりを要するだろう。たいへんな無駄金(そしてスペースの無駄使い)だから、そろそろ醒めて、やめた方がよい。脳の動物的生理の、自己疎外的繰り返しにすぎないのだから。ビッグバン仮説も、脳の生理が求めているつじつま合わせにすぎない。

このテーマは、もっとヒマと能力のある人がやった方がよい。とりあえず、数学と物理学と生物学が主要な破壊標的か。実在をつついているのではない、おまえ自身を阻害的に(==いかにも外的実在であるかのように)つついているにすぎない。

コミュニケーションにとって重要なのは、自己疎外の廃棄、阻害からの、自己の、自己への回帰である。

定理も証明も、悪無限の素粒子理論も、みな、最初からそこにあったことが、ついに自覚されるだろう。

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