社会主義/共産主義はなぜ失敗したか
だいたいそもそも、マルクスをはじめ、指導的な思想家たちが、いちばん重要なことを見忘れている。
social-ism
commune(する)-ism
このsocialもcommuneも、それを成り立たせる基盤的骨格はコミュニケーションである。
彼らは、えりにえって、このいちばんかんじんなものを看過したまま終始、議論を進めている。
だからそれらの'思想’に基づく社会作り、国づくりはすべて、必然的に失敗が運命づけられている。
このことと関連して彼らは、トレード〜貨幣の、コミュニケーションという視座から見た本質にまったく着目していない。
大まかに言って彼らは「貨幣を温存したままでの公平公正」という、ありえないものを夢想している。
すなわち<非A>をもって<A>を追究するという、大矛盾。(ここでのAは、公平公正。)
毎日卵料理を大食いしながら、血液浄化を目指すがごとし。
いまだに社会主義思想version 2が出てこないで、今の中国ロシアに代表されるような劣悪な国家社会がずるずるとのさばる現状は、今後いつ、どうやって、変わっていくのか。数年以内に、変化の兆候ぐらい、見たいものだが。
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コメント
カール・マルクスが提唱する社会主義は、資本家による”搾取"の否定をそのテーゼの一つとしているが、『貨幣』が存在する限りにおいて、「外部不経済」が全く無くならないのと同様、”搾取"は絶対無くならない。
『貨幣』が、無事存続して行く為には、先ずはその起動力・原動力として、ある種の’温度差’、即ち、’差異性’が必須である。言い換えれば、そこには必ず大前提として、”弱者” 対 ”強者”、即ち、”貧困層” 対 ”富裕層”と言う構図がなくてはならない。仮に、”貧困層”を’労働者’、また”富裕層”を’資本家’に置き換えた場合、社会主義のゴールの一環は、その構図の打破、換言すれば、”弱者” 対 ”強者”間の平滑化・平等化であるべき筈だが、是迄の社会主義国家は、それが全然実現出来ていない。何故ならば、『貨幣』を温存して来たから・・・。
人間間のディスコミュニケーションと、人間の限り無い欲望によって発生〜生成した『貨幣』は、それを駆使すれば駆使する程、自然破壊・環境破壊等々の「外部不経済」(→ 特に、中国の現状は、超〜酷い!)、即ち、「他者疎外」を助長〜肥大させるばかりでなく、”弱者” 対 ”強者”間の関係性をより一層浮き彫りにし、”貧困層”と”富裕層”間のコントラストを益々鮮明化しつつ、その粗悪粗暴思想は、悲しいかな、広く蔓延し続ける。『貨幣トランザクション(Transaction)』、即ち、無反省に延々と繰り返される、人間同士による騙し騙され合う無様千万たる拙劣営為は、コミュニケーションを忌避する為の一種の「戦争」に他ならない。No more that sort of so miserable war!
投稿: Voyant | 2013年2月19日 (火) 06時04分
社会主義、共産主義といっても結局のところ「市場」という私的欲求(トレード〜貨幣)を満たす場しか見ていないから駄目なのでしょう。今の世の中、国家にしても個人にしても私的な欲求を満たすことに邁進していて、とても明るい未来とは言い難いです。うまく表現できないのですが純粋な公共心というのかなぁ、、「公的な欲望、欲求」というのが必要だと私は思います。
投稿: musataro | 2013年2月20日 (水) 08時36分
貨幣を信仰するひとは、いつまでも、無限に、貨幣が世界(という彼等の『世間』)を超高速で回る(べきだ)と信じている。
そんなの無理じゃん、と直観できるひとは、少なくないと思うのに……。
投稿: 市川智 | 2013年2月23日 (土) 22時18分
逆戻りのコメントばっかしでもうしわけないですが、
皆さん気にせずにドンドン進めちゃってください。
というわけで
@musatarou
「公的な欲望、欲求」
いい言葉ですねぇ。惚れぼれします。この言葉を
地上1キロの大看板にして、掲げてみたらいいんじゃ
ないかと思います。サブタイトルに、ーみなさんと、
うまく生きていきたいーなんてのは、どうですかね。
投稿: Ohiya | 2014年5月10日 (土) 02時39分
なんかこんな寓話を知ってるんですけど。ある宮殿に、立派なご馳走が用意されていたとか。だけどなぜか食卓には一人一人に、もの凄く長いお箸しか用意されてはいませんでした。
そこへ、ぞろぞろと地獄から来た哀れな餓鬼たちが入ってきて席に座りました。さて餓鬼たちが食事をしようとしましたが、どうにもお箸が長すぎて使うことができません。自分の口に食べ物を運べないのです。どうしようもなく餓鬼たちは、一口もご馳走を口に入れることもなく悲しそうに出て行ったのである。
次はその場所へ、恰幅の良さそうな福の神が入場してきました。彼らも同じように席に座りましたが、今度は実に楽しそうに食事を始めています。実にわいわいと賑やかに食事を進め、本当に満足げに完食までして満たされてその席を立ったのであります。
はてさて、この違いはどこから来るのだろう。実は後者たちは、たがいの向き合った相手に何が食べたいかを聞いて、そして長い箸で相手の皿に乗っている食べ物を、お互いの口に運んでいたのである。そこには当然、お互いの会話がありコミュニケーションがあり、満足があり感謝がある。そうして彼らは席をあとにしたのである。
今の社会みたいに、カネにしばり上げられ自分たちの生活だけに汲々としている状態は、上の餓鬼たちと同じ状態といえるのではないか。そう、自分たちのことで精一杯であるから、正しくものを考えられない。そこには当然、必然にコミュニケーションも有り得ない。そういうふうに追い詰めるのが、支配者の常套手段なのだろう。追い詰めて、チョット甘い汁を恵んでやれば飛びついて来るだろう、というのが。
そしてもう一つ考えたいのが、利他ということである。「他を利する」ということである。自分のことよりもまず相手を思いやって、他に喜ばれることを実践する。ここらへんがhiwaさんやmusataroさんのいう「自己観念の変革」と言うのじゃないだろうか。また、上のコメントの「公的な欲望」にもつながるのである。どうにも自分のことで我利我利になっているよりは、みんなで助け合って生きていく社会の方がラク、楽しいように思うのだが。Positive Vibration By B.Marley.
そんな社会になれば、貨幣の持つ毒性も最小限、あるいは無化するレベルにまで達成することができるのだと思う。ついでに言えば、「他者不在、他者疎外」も解消するのである。
投稿: ohiya | 2014年11月20日 (木) 05時02分
[変更]
我利我利になっているよりは→
我利我利になって競争・販売戦争しているよりは
投稿: ohiya | 2014年11月21日 (金) 03時58分