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2013年1月 7日 (月)

『「他者」不在』…テツガクの大罪とテツガクの大革命

ソクラテス、プラトン、アリストテレスに始まり、途中で神学とのハイブリッドになり、カント、ヘーゲルあたりから近代化し、20世紀に現象学、実存主義等と頽落して無能化したテツガクを、存在一般の学として見るならば、そこには一貫して、「単一の存在像」が前提されている。その、単一の存在像が、今なお人の日常心情のベースとなり、また自然科学等体制的営為の持つ存在観のベースとなっているところに、ここで言うテツガクの大罪がある。

それは、自己の視界として開ける単一の世界であり、また単一の宇宙だ。だからそこには、他者はどこにもいない。単一の世界内を浮遊する諸要素、すなわち「物」「対象物」としてのさまざまな諸要素(他人や他物)がいるだけだ。

すなわちその存在像は、シングル(一)であってプルーラル(多)でない。

視界としての単一の存在像を持つ自己は、自己として意識・自覚されていない(自己忘却、自己疎外)。だから、他者という別の存在契機をも持ち得ない。さらにその自己盲目な自己は通常、何らかの共同体の自己とオーバラップされていて、その忘却性疎外性をよりますます蒙(くら)くしている*。

〔*: 対象物は、その二重の自己色によって色づけ(==勝手な解釈)されている。それぞれのプルーラルの存在としての主体性(==真の他者性)は、足下に踏みしだかれ疎外/阻害/虐待されている。〕

他者であるべきものが単一宇宙内の構成要素たる「物」でしかないところに、人間という下等動物の唯一最大の宿痾であるコミュニケーション不能の原因がある。言い換えると、それぞれの単一の存在像には、コミュニケーションのためのインタフェイスがどこにもない。ありえない。だって、他、がいないのだから。

テツガクを(or人びとの無意識的存在像を)、シングルからプルーラルに変えること、ここに、これから絶対に必要な、テツガクの大革命がある。プラトンをヘーゲルをマルクスを等々を、地中深く、蘇り不可能に葬ろう。

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南さんのコメントに「小宇宙」とあるが、大罪テツガクは、大宇宙(全宇宙、普遍宇宙、普遍共有宇宙)があると想定し、それを存在の学の対象とする。だがそれは、むりやり一般化された小宇宙にすぎない。そこには小宇宙の視野内の対象物しかなく、いかなる自己も他己も存在しない。言い換えると大罪テツガクは、小宇宙の一般骨格を大宇宙全宇宙とし、それを全存在とする。無惨にも、他者はずり落ち、疎外されている。

(本稿未完)


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コメント

人はそれぞれ独自の宇宙を持つ(生きる)。

だから、時間も空間もそれぞれちがう。

そんな小宇宙どうしが衝突しているのが社会。

投稿: 南 | 2013年1月 8日 (火) 09時21分

学校哲学(?)の内部においても、プラトン/ヘーゲル主義からの脱却は、ハイデガーとその弟子達、すなわちアレントやデリダらによってその方向性は素描されてきました。「複数性」は、とりわけアレント政治哲学のキー概念であり、おそらくこれに強く影響を受けた関曠野氏は、古代ギリシャのアゴラ(闘議場!)におけるアレテイアの降臨に、複数性の問いへのひとつの回答を見出しました。(逆にプラトンはソフィストどうしの論争に「めまい」を感じて引きこもったわけです。)こうした論争の場におけるアレテイアの降臨は、岩谷さん的な文脈に引き直すと、例えばメジャーになる前のビートルズが、ハンブルグのたちの悪い聴衆の前でライブを繰り返すうちにある進化を獲得し、世界のビートルズへと変貌するきっかけをつかんだことに類比されると思います。

投稿: iris60 | 2013年1月 9日 (水) 18時59分

カントの「共通感覚」があり、また一方で、ハンナ・アレントのそれがあります。カントのは、人間たちの感覚の共通性です。アレントのは、感覚と感覚の共通性です。つまり、アレントは、感覚そのものの次元に、共通感覚的な常識性=一般性を突き崩す鍵があると考えていたようです。

これは、岩谷さんがロッキングオン時代によく言っていたことだと思うのですが、ロックの音は、通常の音楽とは違う、と。音を対象化し、事後的に加工するというよりも、そのもの、音との距離が無く、そのものの響きとなることである。音の塊となったロックのビートが、そのようにして私たちの実存をゆすぶりにかかりました。

「視界の単一性」とは、感覚論的に言えば、視覚と、触覚(それを○○する、という対象化の働き)の間に起きる事態です。ロックは、触覚ではなく、皮膚~体表のより深いところをゆさぶりにかかります。つまり、皮膚表層の触覚ではなく、体表の振動感覚です。その時、逆に、触覚(それについてうんぬんすること)は、消えてしまっていました。ロックを聴いてむちゃくちゃに踊るというようなことです。

そしてしかし、その時に消失していたのであろう単一な世界像は、いまだ、白紙の状態のまま、つまり、リセットされたままではないのでしょうか

(アレントの共通感覚に関するページから、冒頭の【要旨】の部分を読み終わりました。)http://www14.ocn.ne.jp/~sthsmt66/zpdf/2007_kantou_rejume.pdf

投稿: saigonodorei | 2013年1月10日 (木) 20時26分

@iris60
@saigonodorei
アレント(等)に関してはほぼ無知なのでレスを控えていましたが、まあ、勘で言えば、あの時代・あの地域・あの知学界隈に、「コミュニケーション」という問題意識がきちんとあったとは思えませんね。そのことと関連して、(自己をも含むあらゆるものの)「他者性」とか、コミュニケーションという地平から見ての「トレード〜貨幣の本質」といった視座も、彼らにはまったくなかったはずです。

私の言う複数性は、(他者性の前提となる)存在のそれであり、政治学の対象となる人間の複数性ではありません。

投稿: iwatani | 2013年1月11日 (金) 07時51分

レス有難うございます。
「きちんと」は無かったかもしれませんが、萌芽くらいは見出せたのではないでしょうか? が、いずれにせよ西洋哲学の「脱構築」から得られるものには限界があるといえばそれまでとも言えます。コミュニケーション学の発展を期待します。ただひとつ不思議なのは、いわゆるロゴス中心主義(=他者の抹殺)の極北ともいえるコーディングの世界に岩谷さんが希望を見出しておられることです。日本語、英語、等々のローカル言語の超克と捉えればよろしいのでしょうか?

投稿: iris60 | 2013年1月11日 (金) 08時49分

オトコには実在が見えないのだ。

投稿: bad | 2013年1月11日 (金) 20時12分

@iwatani
貨幣制度の限界性が自覚的となる「後期資本主義」以降において、本格的にコミュニケーション問題が問われてくるということでしょうか。実際にほんとうにたくさんの問題が、累乗的に起こっているのだと思います。一見すると、ひとまず、なんとかなっているようにも見える。しかし、ちょっとした脱線、例えば、認知症の父親が若い愛人と結婚して全財産を彼女に分与するに留まらず、さらに財産を担保に借金し出した、などということがあれば、たちまち平穏な生活は崩れ去ります。その時、大あわてで起動されるものがコミュニケーションであるわけですが、ひとしきり大騒ぎしたら大騒ぎしたで、さっそく、お礼やお詫びなどに奔走する義務感にかられる。なにがしかの金品を贈るなどすることで、傷口をふさごうとする。しかし今回、私はそれをやらない予定でいます。平穏無事の日常に戻れる予感がまったくしないのです。むしろ、あの騒動こそが、現実であると思われるのです。さまざまな蓋をかぶせるが、どうにもごまかせないほどの、圧倒的な混乱、錯乱が起こってくる予感がしています。というわけで、本年もよろしくお願いします。

投稿: saigonodorei | 2013年1月12日 (土) 13時37分

@iris60
オトコには実在が見えない。人間にはコミュニケーションができない。なんらかの致命的な自己疎外がある。これは、具体的には、どのような構造の中で、そのようになってしまっているのでしょうか。そしてなぜ、今の私たちは、それに気づけることができているのでしょうか。具体的に為すべきこと、考えるべきことは山のように在るように思います。すべてはこれからという気もします。もうすでに30年前のことになりますが、10代後半のころ、岩谷さんが提示してくれた羅針盤をもとにいろいろ考えてまいりました。その成果を、理論的に、実践的に、現実化してゆく方途を探っていきたいと思っています。

投稿: saigonodorei | 2013年1月12日 (土) 13時38分

@saigonodorei
SNS等の「コミュニケーション・ネットワーク」は、今もこれからもますます花盛りになっていくのでしょうが、こうした(岩谷さん流に言うと「ゴキブリホイホイ」?)に一切、背を向けて生きている私にような人間は、世間的には極めて「非コミュニカティブ」な存在ということになります(笑)。

投稿: iris60 | 2013年1月12日 (土) 15時38分

@iris60
> ロゴス中心主義(=他者の抹殺)の極北ともいえるコーディングの世界
これは私には意味不明な言説ですけど、ロゴスという言葉の人さまざまな含意はともかくとして、コンピュータの利用にかかわるドキュメンテーションは、プログラムのソースコードも含めて、対象化されているエクリチュールです。それは、グローバルにオープンであり、対話的会話的に生成成長します。徐々に、ヒトに共通的な論理性を持たせます。

だから、ローカル言語の超克というより、nativeの、共同体性が持つ無言語(==無エクリチュール)の超克と言えるでしょう。

日本でも、イナカの人ほど、ドキュメンテーションが苦手(or無視する)だし*、またグローバルでオープンで対話的なコンピュータプログラムの生成の動きに、なぜかアラブ世界の人はほとんど参加していませんね。native共同体性が、ものすごく根深く強いのでしょう、彼らは。でも、若い世代から、それも変わっていくと思うが…。〔*: 新聞や小説など、非対話的なエクリチュールを“恣意的に”(自慰的?)読むことの好きな人は多い。〕

対話的で生成的で誰の目にも見える実行結果を持つエクリチュールとして、コンピュータのプログラムとその生成への参加は、人類をコミュニケーション有能にしていく変化の、ささやかな芽生えと言えるでしょう。

投稿: iwatani | 2013年1月13日 (日) 12時36分

@iwatani
大変丁寧なレスをいただき恐縮です。
とりあえずまずなにより「言語とは論理である」とする立場をロゴス中心主義と呼ぶことにいたしますと、こうした西洋哲学の主流に対してデリダは「言語とは元来徹頭徹尾比喩なのだ」と批判するわけです。日常生活でも、すべて理詰めで、いつも「シビレエイ」のように相手をやり込めてしまう人より、ダジャレ連発おじさんのほうがコミュニカティブに見える。もちろん論理のないところに対話もないわけですが、例えばコンピュータおたくの人で、普段ほとんど口を利かない人を見かけることからも、コーディングの世界とはすなわち沈黙交易の世界ではないかという印象を門外漢は持ってしまうのです。プログラミングが論理性を鍛えることは確かでしょうが、それを対話性の域に高めるられるのは相当な達人達のみでは?

あと、数学や自然科学がアラブ世界からヨーロッパに(逆)輸入されたことからも、彼らの論理性の高さは疑いえません(今をときめくIT大国のインドも一時期はイスラムでした)し、日夜コーランや歴史物語の暗唱を繰り返しているわけですから、そのローカリズムはいわゆる田舎の人の無口さとはまた違うのものなのではないでしょうか?
今回コメントを寄せさせていただいて、いくつかの疑問が氷解し、有益でした。
1)岩谷さんの言う「複数性」は通常の意味よりずっとラジカルであること(それゆえに、理解することも難しいですが…。)
2)コンピュータプログラミングは、対話的、生成的かつ対象的なエクリチュールであり、それへの参加が人類をコミュニケーション有能へと進化させる一助となるはずである。
以上まとめでした(笑)。
(私も初期RO読者でしたが、岩谷さんが当時とまったく変わらずラジカルでいらっしゃるのは驚異的です。)

投稿: iris60 | 2013年1月13日 (日) 15時40分

@iris60
カダフィの政治は、欧米社会で批判されているようなものではなく、実際には庶民にとってひじょうに良いものであった、との話も耳にします。しかし個人的には、やはり圧倒的に、イスラム世界は、オトコの野蛮性、その粗暴なる知のはびこる、恐ろしい社会である、という印象をぬぐえません。

下に引用した「アシッド・アタック」ですが、これはイスラム圏、そしてインド圏で頻発する事件であるとのことです。インド人は、論理的であり、プログラミング労働も安価で請け負っているようですが、これとても、男はプログラミングができる、論理的である、稼げる、それに較べて女は、というような単純な話になってしまっている可能性があるのではないか・・・

岩谷さんの肩を持つわけではないですが、氏は自分でも書いておられたように、ワンフレーズの人だと思います。言いたいことはワンフレーズで済むのだが、それでは原稿にならないので、付け足していると。プログラミングの世界に関しては、「恥ずかしながらドジりました」のフレーズがあります。これが氏のキメのワンフレーズだと思います。ロックだって、サビのワンフレーズ、リフで決まります。

コーディングの世界は、徹頭徹尾論理的であるが、人間は必ず間違うので、そのような人間側の視点からすると、むしろ「コメント文」の方に重要性がある。つまり、プログラミングをめぐるコミュニケーションの作法においては、コメント文こそが重要である、という観点。これはまったくもって逆説的ですよね。どの程度、理解されている着眼点なのでしょうね?

投稿: saigonodorei | 2013年1月14日 (月) 20時37分

参考資料:

─引用─
アシッド・アタックではないが、この中東圏・インド圏の女性に対する暴力は苛烈なものが多い。

恒常的なドメスティック・バイオレンスは当然で新聞沙汰にもならない。

暴力がエスカレートすると、鼻を切り落としたり、顔面をナイフで抉ったり、燃やしたり、女性の容姿を崩壊させるような事件が次から次へと起こる。

こういった事件を見ていくと、いったいなぜこの地区に限って、このような事件が起きるのかと考えてしまうが、すでに原因は分かっている。

イスラム教やヒンドゥー教の根底にある家長主義・男尊女卑・保守思想である。宗教が極限まで男性優位を増長させ、反発する女性を許せない。
http://www.bllackz.com/2011/09/blog-post_27.html
─引用─

(他、「アシッド・アタック」を検索するといろいろ出てきます。私には、弁解のしようのない、オトコの野蛮性が、イスラムには残っているとの印象を受けました。つまり、知性はあるかもしれないが、優しさ、柔らかさがない。知性、そしてそれを支える感性が、硬直しているということです。)

投稿: saigonodorei | 2013年1月14日 (月) 20時38分

@ saigonodorei
> コメント文こそが重要である
オープンで参加型で生成更新されるソフトウェアは、ソースコードだけでなく、ネット上の投書なども含め「全ドキュメンテーション環境」ととらえるべきですね。そう考えると、私は最近、このブログ上でThunderbirdに貢献したことになります。とくにソースコードのコメントは、しっかり書かないと、プログラムを書いた本人すら数週間〜数か月後にはそのコードを理解できなくなることが多いので、全ドキュメンテーションの中でも最上位的に重要ですね。

話変わって、あそこらの、ものすごい「女性虐待」、ニュースに接するたびに、ひでぇ!と思いますけど、今のところ私個人には何もしてあげられません。残念。

投稿: iwatani | 2013年1月15日 (火) 13時15分

@saigonodorei
@iwatani
「コメント文こそが重要」とは、私のような一介のコメント屋にはたいへん有難いことです。常に、他人の褌で相撲をとっているだけかなぁという忸怩たる思いに苛まれていますので(笑)。
でも、注釈に注釈が重なって生成するテキストのおおもとには「最初の一撃」としてのワンフレーズがどうしても必要です。言葉は、本来「投げつける」ものだと思っておりますので…。

投稿: iris60 | 2013年1月15日 (火) 22時50分

これはいいこと聞いたな、と思えたのは、
そのプラトン~の方々のテツガク
勉強しなくていいんジャン
って事。
この忙しいのに、そこまで手を回せんよ、
嗚呼、助かった助かった。な気分になれました。
ありがとう

思い出したのは、
スケッチの仕方を教授する本にあった要点で
ひとことで言うと
ウソのつき方を身につけるということ
だそうです。
それには三法則あって、
1. ウソははっきりとつく
2. ウソのつき方をうまくする
3. ウソはつきとおす
なるほどなあ、と思いました。

繋がるところがあると思いません?

simomitu

投稿: 下光博之 | 2013年1月18日 (金) 15時55分

「他者」不在、の解決策=他者の意見を真に「他者」の意見として聞こう。感じ取ろう。

投稿: ohiya | 2014年9月28日 (日) 03時05分

『「他者」不在』の前に、『「ブログ主」不在』はどうなってるんでしょうか。ご存命なのでしょうか。

投稿: ohiya | 2014年9月30日 (火) 07時27分

石川県からは西田幾多郎という哲学者が出ているいるが、ほんまデモーニッシュでいただけない。

投稿: bad | 2014年10月25日 (土) 11時13分

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