存在の複数性
たまたまうちにいる、寄る辺なき犬または猫にこと寄せて:
You came from far far away.
So farther than beyond any measurable distance where
Even you do have no memory nor knowledge about.
You came from a universe different from current mine one
Which is giving its physical shapes of objects in my view.
So even the word 'infinite' can' t be applicable for
describing the measure for the distance,
The distance between different universes.
Because it is, distinctly, different
From us each other, mine and yours.
…というわけで、自己というものはこの宇宙の中で寄る辺なく孤独なものであり、うちで保護されたりされなかったりする犬や猫個体と、その寄る辺なき絶対的孤独は同じである。言い換えると自己とは、すべからく、一介の捨て猫であり捨て犬である。You are nothing but a stray cat in this universe.
そこで、コミュニケーションの相手となる他者とは、1)まず自己自身(Je suis autre.)、2)ほかの人、3)ほかの生物無生物、4)自然〜自然現象とその任意の部分、5)宇宙〜宇宙現象とその任意の部分、となる。コミュニケーションには、他者としてのリスペクトに付随する無干渉(無搾取)、Let them be as they are.も含まれる。例: 宇宙開発は、そろそろここら辺でやめよう!
他者を対象物としてのビューで見る、伝統的コミュニケーション不能人種の視野では、目の前にいるいたずら猫のココは、けっこう複雑な構造と機能集合を持つ有機活動体でありつつ、けっこう簡単に停止して分解("土に還る”)してしまう物体でもある。それは私でも同じだ。しかし、対象物ではなく、それ自身、すなわち一個の自己(==他己)として見れば、ココはものすごく遠い別の宇宙からごく短時間、ここ(私の視界宇宙)を訪れているひとつの立派な自己である。それは、どこから来てどこへ行くのか、当のココ自身すら知らない。だから、自己はまず自己にとって他者である。Je suis autre.
宇宙についても、物理学や宇宙開発などの一方的専横を恥じないhubrisのコミュニケーション不能人種においては、宇宙の自己を認識しない。それは、先年の3.11(大地震/大津波/原発メルトダウン)の何百倍もの災悪をもって、人類の専横にリベンジするだろう。
というわけで、ココの自己存在と、私の自己存在は、お互いに絶対的他者として異なる。そこに、『存在の複数性』というテーゼの根拠がある。私は、ココにおいて、存在がどう見えどう認識されているのかを、知らない。知り得ない。猫相手では、言葉によるコミュニケーションをじっくり重ねていくこともできない。
私の自己存在は私の自己存在でしかなく、しかもその全貌は私自身にとっても不知不制御の他者だ。なんだか知らないが生かされてる、まだそのごく短期的なメディアである有機活動体の停止と分解は訪れない、というだけのことである。文章を書いている私も、書いてるよりも書かされているが当たっている。
いずれにせよ正しいコミュニケーションの大前提は、存在の複数性である。それしかない。
それらを、トレードという串で刺し貫いてはならない。われわれは、お団子ではない。
どんな一般性の串も刺さらない、そして、互いにきらきらと反照し合う、硬質の水晶球たちの出会いだ。ダイヤモンド球の方が、よいかな?
(rev. 2013/02/01)
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コメント
卑近なコメントになってしまいますが、最近(というかずっと)人間関係で悩んでいたので、ヒントに富んだ内容でした。
救われたような気にもなりました。
投稿: 長谷川 | 2013年1月26日 (土) 21時51分
旧約創世記第一章に、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。…」とあり、これからしても、ユダヤ、キリスト、イスラム教圏の人々が、3)4)5)の領野から人間圏を縮小した方が良いとは、とうてい考えてくれそうもありません。この点、日本の新石器文化がもともと牧畜を欠いたせいでしょうか、日本人には「個体数の増大が無条件に善である」という感覚は希薄で(むしろ人口増への警戒感が抜けず)、いったん人口が減り始めると歯止めがかからないようです。
ランボーの「私とは一個の他者(Je suis autre.)」を、動学的に(?)記述し直したのが「現前に亀裂を生じさせ、差延の動きを顕わならしめよ」というデリダ・テーゼなのかな? と思ってきましたが、アポリアは、現前に亀裂が生じた瞬間に、それまでまがりなりににも(対象物としては)捉えられていた他者の像も消失してしまうという点にあります。
投稿: iris60 | 2013年1月26日 (土) 23時23分
@iris60
いや、“対象物ではない”と最初に言っている(ことわっている)わけですから、その心配というか問題は存在しません。像としての他者は他者ではなく、a single universeにおける“内者”です。あまり、信ずるに足るものではありません。
投稿: iwatani | 2013年1月27日 (日) 08時21分
@iwatani
なるほど…。
真理(=他者)は、つねにすでに個々の主観の「外部」にある、ということでしょうか。
この点、完全に同意いたします。
ただ、通常の意味(笑)でのコミュニケーション・シーンを考えますと、例えば一匹のネコを不遜にも「対象物」として観察して、「この子はお腹が空いている」「どうも寄生虫がいるようだ」といった配慮(診断)をすることが主になってしまうように思います。レントゲン写真なんて、究極の「像」なわけですが、こういうのはコミュニケーションとしては低次元なものということになるのでしょうか?
もちろん、あらゆる診断「像」は「内者」であるがゆえに、究極的には当てにならないことは確かですが、実践的には、こうした不確かな診断の集積こそが日々のコミュニケーションの実情ということになってしまいます。
投稿: iris60 | 2013年1月27日 (日) 09時47分
@iris60
同じ土俵で議論せよ、などと野暮なことは言いませんが、私とiris60さんとでは、「コミュニケーション」という言葉の定義が月とスッポン以上に違いますよね。
医療の診断治療などは、一般的共通的に適用される技術知識であり、その他者その個体とのコミュニケーションとはまったく無縁の行為です。それらは、お米の正しいとぎ方などなどと同じレベルで、ずっと存続することでしょう。
「コミュニケーション」という言葉の私における定義は、あえて言葉の羅列はやめますが、『これまでの人類はコミュニケーション不能の下等動物である』、とか、こないだの‘三つ子の魂’という記事とか、宇宙開発を即座にやめて人間開発にリソースを回せとか、などなど私がこれまで書いてきたものから、誰にでも十分に感じ取れると思います。
投稿: iwatani | 2013年1月27日 (日) 12時26分
月とスッポンどころか、岩谷さんと私とでは、「お互いに絶対的他者として異なる」わけですから、エイリアン同士に「同じ土俵」はもともと存在しません。
一介のコメント屋としては、その都度、少しずつ地平の差異のある話を書いて、ブログ主さんに「それは違う!」と否定してもらうことによって、初めて朧げながらこの主さんの言わんとすることはこういうことなのかなぁ、と合点がいくことがあるかもしれない。その可能性に賭ける以外にないのです。
以前、コミュニケーション不能を定義して、「『私がこう思うんだから、相手もこうこう思うだろう、思うべきだ』、という、むちゃくちゃなテツガク」と述べておられましたが、ご自身の主張については過去ログを読めば「誰にでも十分に感じ取れる」はずだというのも、虫の良さという点では同様なむちゃくちゃさだと思います。
末尾ながら、コミュニケーション学の一層の発展をお祈りします。
投稿: iris60 | 2013年1月27日 (日) 20時07分
@iris60
えーと、そういう複雑なお話ではなくて、たとえば、「てんぷら」と言えば本州の多くの地域の人にとっては、魚介や野菜などに溶いた小麦粉の衣を付けて揚げたものですが、九州のある地域では、魚のすり身を揚げたもの、標準語(?)で言えば"さつまあげ”のことです。
お互い、「てんぷら」という言葉の定義が違います。そこがはっきりしないまま、九州の人と本州の人が「てんぷら」について議論しても、話がおかしくなるだけです。
で、たとえばirisさんが本州の人で、私が九州の人だとすると、「私の文をもっとたくさん読んだら、私が何の意味で"てんぷら”と言ってるか、分かるはずだけどな」と私は本州の人にうったえてるわけです。
それが、そんなにむちゃくちゃですか?
それは、"相手もこう思うだろう”の、ほんとにむちゃくちゃなレベルの話とは全然違いますよ。お互いが、言葉に抱いている、定義の違いの問題です。そしてここは、私のほうの定義をベースに、話が進んでいる場(ブログ)です。irisさんのような、医療診断もコミュニケーション、というレベルの定義ではないです。ここでは、コミュニケーションという語の定義は、もっと深く、新しいです。
そう言えば、むかし、戦争も犯罪も貨幣トランザクションもコミュニケーションの一種だ、という反論があったなぁ。これもまた、定義が全然違います。
投稿: iwatani | 2013年1月27日 (日) 21時27分
全面的に同意です。
ので書くことないです。
「お団子ではない」には笑いました。
投稿: 南 | 2013年1月28日 (月) 09時22分
うちの猫はあまり私になつかない。頭を撫でてやろうとすると逃げる。でも仕事から帰ると玄関の所で出迎えてくれたりもする。うちの猫も単なる一匹の捨て猫。でも互いにあまり干渉しようとしませんが、かけがえのない猫(他者)であります。
投稿: musataro | 2013年1月29日 (火) 08時56分
デリダの〈差異〉〈差延〉については、『ザ・ロック宣言』あたりで決着が付いてると思ってました。
他者についての決定的な「宣言」でした。
投稿: 市川智 | 2013年2月 2日 (土) 23時04分
@市川さん ん?「ザ・ポップ宣言」じゃなかったでしたっけ?
投稿: musataro | 2013年2月 5日 (火) 08時59分
それも、とびっきりクレージーな…
投稿: s.hodo | 2013年2月 6日 (水) 22時20分
人間は、正にUncontrollableな「他者」として、二種類の”狂人”に加え、一種類の”狂気”と上手く付き合って行かなければならない。その”狂人”とは、一つは’自己’であり、もう一つは’他己’、また、その”狂気”とは、他の全生物〜無生物等を含めた、’自然’、延いては’宇宙’である。
「他者」には、言う迄も無く、脅威や畏怖の念が必然的に付き纏うのが未だに常である。その不安や懸念・心配を、先ずは畏敬〜尊敬の念に徐々に徐々に、有効に変えて行く為には、「他者」に対する謙虚さと寛容性のあるコミュニケーションが必要である。しかしながら悲しいかな、人間は是迄、そのコミュニケーションの営為を敢えて忌避・怠慢し、抗争相克たる戦争として誤摩化したり、更には、貨幣、宗教、反自然の科学技術、・・・、etc.をベールとした「他者」への無礼千万、言い換えれば、「他者」に対するある種無謀で無様で悲惨な、惨憺たるバリアとして形成〜構築し、それは今日に至っても現在進行形である。言う迄も無く、それらは全て、ディスコミュニケーションの産物群に他ならなかった事は、是迄の歴史が如実に証明している。
『Je "est" un autre!』 ’自己’は、「他者」として、単なる一介の’他己’たる二人称ではなく、よりFurther farawayたる「他者」である三人称として扱わなければならない。「他者」が分かるとか、分かったとかでは断じてない。「他者」の分からない所が分かった、いや、Maybe、分かったかもしれないが、自然で、差し当たって考えられる唯一の正解であろう。
’自己’にとって、燦々と光沢している「他者」としての”未知”が、極々朧げながらも、刻一刻と豹変〜変貌する極々一瞬の”既知”として映る為には、現前に明白に存在する”狂人”と”狂気”に対して、より真摯で真剣なコミュニケーションがMUSTである。
投稿: Voyant | 2013年2月 7日 (木) 00時59分
@musataro さん
『ロック論集』とごっちゃになってました。
今ちょっと原典にあたれない環境のため、来週にでもあたってみて、確認します。
ご指摘有難うございます。
投稿: 市川智 | 2013年2月 9日 (土) 22時01分
@市川さん
ザ・ポップ宣言はぜひ復刊して欲しい本です。
若い頃(20代)読んだ時と、今では、自分が
受け止める印象が変化しているだろうな
と思います。
投稿: musataro | 2013年2月10日 (日) 07時39分
えーと
ながねん岩谷さんの文章を読んでいる方々
には、この回は、当たり前
の内容だと思います。
存在の複数性
ヒントとしては、
自分以外の人はエイリアンだと思って
接してみる、が良いのではないか、とも。
その人にも何とか取っ掛かりは見いだせるのでは
というのが、賭けられる所でしょう
さて、
ザ・ポップ宣言(仮題)は、
ここでは基本テキストの一つです。
復刻もいいけれど、
持ってろよ!
の気持ちもあります。
勿論、いまだに有効です
「手に入らないんじゃ話にならない」
とお嘆きの貴方には、これまた
ヒントとして、
「弱くても勝てます」
高橋秀実(たかはし ひでみね)
新潮社
を推薦しておきます
simomitu
投稿: 下光博之 | 2013年2月11日 (月) 23時08分