« 『「他者」不在』…テツガクの大罪とテツガクの大革命 | トップページ | 相手国社会状況の劇症化に終わらない資源外交とは »

2013年1月14日 (月)

三つ子の魂

このブログでは、読者自身が「コミュニケーション」という問題意識を、ある種の止(や)みがたい思いをもって、心の底から、頭の芯から、持っているか否かで感想等が相当異なるようだ。

そういうラジカルな(ものごと…とくに人間/社会/歴史現象…の"根っこにあるような”)問題意識は、少なくとも私の場合は、幼児期の大きな不安体験が喚起したもののようだ。それは、戦争とその後の貧困だ。後者は自分の家庭だけでなく日本における一般的な現象であり、餓死者や栄養失調/体力低下による病人(典型的には結核)が出なかったぶん、わが家は幸運なほうだった(親戚に一人、結核罹患者が出たと記憶している)。戦争は、ここでは一つだけ例を書くが、敗戦後、かつての侵略地から日本へ向かう引き揚げ船の出る港町までの列車は、貨物車の中の密閉すし詰めだ(そして真っ暗)。貨物車は、前後左右上下に厚い板壁があるから、大砲はともかく、小銃ぐらいなら射撃されても中の人間は無事だ。…幼児の心を大きく不安にするに十分な道具立てだと言える。※

〔radix == "根"〕

不安と恐怖のおかげでラジカルな問題意識(例:オトコという生き物の大罪)を持ってしまった者にとって、日本の平和憲法(不戦憲法)は、貴重な宝物だ。ちゃんと守っていれば、十分、ノーベル平和賞に値しただろう。今ちらついている改悪の可能性が、またまた不安でたまらない。

しかし「コミュニケーション」という問題意識は、特異な体験に喚起されなくても、今とても若い人でも、持てる人は持てるはずだ。私がこれまで考えて書いてきたようなことは、未来の、真に大きく普及するコミュニケーション学/コミュニケーション理論の、ささやかな芽にすぎない。もっと、いろんな方面で議論が活発になることを、期待したい。

〔※: 南方や北方の最前線の人たちが体験した悲惨や苦難は、いろいろな記録など読むと、その苦難の大きさを10,000とか100,000と仮にするなら、私ら一般居住地の者のそれは、せいぜい1ぐらいでしかない。かつて昭和天皇に対しパチンコ(ゴム銃)を放った帰還兵の姿が、その、地獄のようなすさまじさを象徴している。〕

[画像出典: pieris55]

|

« 『「他者」不在』…テツガクの大罪とテツガクの大革命 | トップページ | 相手国社会状況の劇症化に終わらない資源外交とは »

コメント

以前おっしゃられていた鼠がおやつというのは、なかなかイメージしにくいです。戦後のお話、もっと聞きたいです。
今年もよろしくお願いします。

最近興味深く読んでる猫の英文記事です。
http://www.messybeast.com/brachycephaly.htm
ペルシャ猫って、人の手を借りないと生きられないんですか? また彼らのユーモラスなお顔は人工的な交配によるものだったとは。

以下駄文
(米軍の力をうまく利用して、パワーバランスでアジア間の戦争だけは避けてもらいたいです。でも、米軍にのせられているようでは彼らを儲けさせるための戦争になるかもしれません。日本は彼らより腕っぷしは弱くとも、賢くないといけないと思います。

ただ一番の方法は、民衆同士で先につながってしまう事だと思ってます。経済的なつながりはそういうことの助けにはならないのだろうか、と思います)

投稿: 長谷川 | 2013年1月14日 (月) 20時18分

私の母も、思春期に満州に渡り、戦後命からがら日本に引き揚げてきたという体験をしています。父も同じなのですが、その頃の話をあまりしません。まあ、こちらから積極的に聞かないというのもありますが。話したがらないという印象です。「保守」といわれるメディア等に登場するインテリ層は、そもそも日本国憲法はアメリカが作ったもので、戦後60年も経っているのに改正しない方がおかしいと申します。そして必ず自衛隊の事を口にする。
けっこう戦後の団塊の世代とか、アメリカから自由主義的な文化を享受され楽しんで来た人達に限って、そんなことを言う。戦争の地獄を体験した人達は高齢者となり、少なくなっていますが、どう思っているのか・・・聞いてみたい。

投稿: musataro | 2013年1月15日 (火) 08時17分

人類は未だ幸福を希求していない。

我々が追求しているのは快適と勝利とであって幸福ではない。

「幸福になりたい」と思ってはいない人類が幸福になれないのは当然。

幸福ってそんなに難しい概念か?。

投稿: 南 | 2013年1月15日 (火) 09時09分

他者性(私はあなたとは違う!)と同一性(話し合えば理解し合えるさ!)のどちらを重きを置くかで、「コミュニケーション」という言葉の印象がずいぶん変わってくるように思います。
西洋ですと、どちらかというとユダヤ系の思想家のほうが他者性に対して敏感なように見えるのは、彼らが帰るべき故郷を持たないからでしょうか。非ユダヤ系ドイツ人のハバーマスは、まさに「コミュニケーション的行為の理論」という名の書物を書きましたが、彼がそこで、誠実性にもとずく歪みのないコミュニケーションを顕揚する時、デリダ(アルジェリア生まれのユダヤ系フランス人)は、そんなものはドイツ人のドイツ人のための自民族中心主義にすぎないと噛み付くわけです。
ごく普通の辞書的な解釈での communication(s) は、まずは「伝達」とか「通信」を意味するため、その相関物としての純粋な意味性の存在と、それを保証する形而上学の支配を無意識のうちに前提せざるをえません。デリダからすれば、そうした形而上学こそ自民族中心主義にほかならない以上、純粋な「意味」の伝達による相互理解などというものはコミュニケーションとは呼べない(そんなものは存在しない)ということになるのでしょう。
他者「理解」が困難であればこそコミュニケーションが重要なのだとすれば、単なる「意味の伝達」ではないコミュニケーションとはいかなるものか? ということがコミュニケーション学にとって重要な問いのひとつであるように思われます。

投稿: iris60 | 2013年1月15日 (火) 22時56分

「奥崎謙三 白豚、黒豚、代用豚」「山本七平 バシー海峡」検索で出てくる内容の凄さに驚かされます。上意下達と言ってしまえばそれまでなのでしょうが、今日的観点からすれば、「コミュニケーションが無い」の一言なのでしょう。

私の知る人で、二十歳の時に満州から逃げてきた女性がいます。満州では水洗トイレとセントラルヒーティングのあるお屋敷に住んでいたそうです。彼女がどのようにして満州を後にしたかについての詳細に関しては聞いておりませんが、その後、クリスチャンになっています。ひじょうに困難な事態に陥り、そこで本物のコミュニケーションが必要になるが、そこにそれが無ければ、人は大変な窮地に陥るでしょう。

キリスト教は、隣人愛において、家族愛を否定しています。大いなる喪失において、共同体なるものが幻想でしかないと知る時、人がキリスト教というコミュニケーション・ツールを選択することは理解できます。故山本七平氏も、イザヤ・ベンダサンの名で、キリスト教、ユダヤ教について言及していますね。後、『日本人とユダヤ人』は批判されたようですが。

投稿: saigonodorei | 2013年1月16日 (水) 12時34分

 あの戦争の戦死者の、半分以上が「餓死」なのだそうです。
 かつて岩谷さんが言っておられた
「食は平和だ!」
 に深く思いを致す次第です。

投稿: 市川智 | 2013年1月18日 (金) 11時57分

先ずは、平和で居よう、を僕たちの合意の
はじめにしようよ!

simomitu

投稿: 下光博之 | 2013年1月18日 (金) 16時04分

わしにも強烈な三つ子魂がある。それは父親に対する、イヤな不信感である。かつて自分が4~5歳頃の話である。我が家の暴君支配者であった祖母にいじめ抜かれている後妻である母を、庇おうともせず祖母に加担して一緒に悪口をいっている父親の姿を見たせいである。子供心に「なんで父ちゃんは母ちゃんを助けないのだ。男なら女を守るだろう。」と、不信に思っていた。当時の父は祖母の権力にベッタリとひっつき傘の下になっていたのである。それだけ強烈なババアだったのであり、自分は母がかわいそうで仕方がなかった。そしてわしは父ちゃんと遊んだこともなければ、ほめられたこともなかったのである。
てなことが、わしのオトコ嫌いオトコ不信、ひいては自己不信・肯定不能(自身不能)にもつながったのではないかと思う。悲惨だった。
やはり幼児体験というのは、その人に大きく影響するものである。有名なところではジョン君も小さい頃、フレッドにすっごい悲惨な選択を迫られ、そのトラウマから抜け出せなかったのだと思う。

ということで、子育てである。子育てには、家庭の平和・両親の愛情は不可欠かということである。そりゃあ、あるに越したことはないだろう。大人になってからの情緒安定にも大きく影響するだろうし。だけどである。どんな育ち方にしても、その育ち方がその人の個性になるのだとも思う。度を越した虐待なんかは別にして、その人その人に千差万別の環境があるのは当然である。そしてそれが、その人の個性を形づくる。とすれば、あとはいかにそれに気づいて生かしていくことだかと思う。紋切り型の育て方なんかするべきではないし、できるはずもない。ということは必ずしも両親に育てられるのがベストということもないのだろうか。前々項でvoyantさんの言うように両親ではない(当然の愛情を持つ)第三者に育てられた方が、私欲が混じらない分良いとも言えるのだろうか。
それにしても、自分の血縁を求める心理もあるだろうし。

投稿: ohiya | 2014年10月 2日 (木) 04時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 三つ子の魂:

« 『「他者」不在』…テツガクの大罪とテツガクの大革命 | トップページ | 相手国社会状況の劇症化に終わらない資源外交とは »