« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »

2013年1月26日 (土)

存在の複数性

たまたまうちにいる、寄る辺なき犬または猫にこと寄せて:

You came from far far away.
So farther than beyond any measurable distance where
Even you do have no memory nor knowledge about.

You came from a universe different from current mine one
Which is giving its physical shapes of objects in my view.
So even the word 'infinite' can' t be applicable for
describing the measure for the distance,
The distance between different universes.

Because it is, distinctly, different
From us each other, mine and yours.

…というわけで、自己というものはこの宇宙の中で寄る辺なく孤独なものであり、うちで保護されたりされなかったりする犬や猫個体と、その寄る辺なき絶対的孤独は同じである。言い換えると自己とは、すべからく、一介の捨て猫であり捨て犬である。You are nothing but a stray cat in this universe.

そこで、コミュニケーションの相手となる他者とは、1)まず自己自身(Je suis autre.)、2)ほかの人、3)ほかの生物無生物、4)自然〜自然現象とその任意の部分、5)宇宙〜宇宙現象とその任意の部分、となる。コミュニケーションには、他者としてのリスペクトに付随する無干渉(無搾取)、Let them be as they are.も含まれる。例: 宇宙開発は、そろそろここら辺でやめよう!

他者を対象物としてのビューで見る、伝統的コミュニケーション不能人種の視野では、目の前にいるいたずら猫のココは、けっこう複雑な構造と機能集合を持つ有機活動体でありつつ、けっこう簡単に停止して分解("土に還る”)してしまう物体でもある。それは私でも同じだ。しかし、対象物ではなく、それ自身、すなわち一個の自己(==他己)として見れば、ココはものすごく遠い別の宇宙からごく短時間、ここ(私の視界宇宙)を訪れているひとつの立派な自己である。それは、どこから来てどこへ行くのか、当のココ自身すら知らない。だから、自己はまず自己にとって他者である。Je suis autre.

宇宙についても、物理学や宇宙開発などの一方的専横を恥じないhubrisのコミュニケーション不能人種においては、宇宙の自己を認識しない。それは、先年の3.11(大地震/大津波/原発メルトダウン)の何百倍もの災悪をもって、人類の専横にリベンジするだろう。

というわけで、ココの自己存在と、私の自己存在は、お互いに絶対的他者として異なる。そこに、『存在の複数性』というテーゼの根拠がある。私は、ココにおいて、存在がどう見えどう認識されているのかを、知らない。知り得ない。猫相手では、言葉によるコミュニケーションをじっくり重ねていくこともできない。

私の自己存在は私の自己存在でしかなく、しかもその全貌は私自身にとっても不知不制御の他者だ。なんだか知らないが生かされてる、まだそのごく短期的なメディアである有機活動体の停止と分解は訪れない、というだけのことである。文章を書いている私も、書いてるよりも書かされているが当たっている。

いずれにせよ正しいコミュニケーションの大前提は、存在の複数性である。それしかない。

それらを、トレードという串で刺し貫いてはならない。われわれは、お団子ではない。

どんな一般性の串も刺さらない、そして、互いにきらきらと反照し合う、硬質の水晶球たちの出会いだ。ダイヤモンド球の方が、よいかな?

(rev. 2013/02/01)



| | コメント (16) | トラックバック (0)

2013年1月24日 (木)

インターネットの正しい利用の形

要するに、F***とかT***とか特定の巨大サーバ/サイトが「場」であるのはおかしくて(セキュリティ/プライバシーも個人の自由もやばいし)、そうではなく、インターネットそのものと、その構成員全員が「場」であるのが、正しい形なんだ。そのことは、過去にも、いろいろ書いてきた。しかもその正しい形は、現行のプロトコル(TCP/IP)で十分に可能だ。

そして、今日発見したこの記事は、そういう正しい形へ向かっての、一歩前進のように思える。まだ、インターネット原理主義(笑)からすると、不純な部分はあるのだけれど。

-----
●もう一つの重要記事


| | コメント (7) | トラックバック (0)

2013年1月21日 (月)

相手国社会状況の劇症化に終わらない資源外交とは

表面的な「正しい理屈」としては、相手国の政府と正式に合法的に契約して、しかるべきお金も払って、資源の採掘プロジェクトを動かしているのだから、テロリストにやられたことは理不尽な犯罪被害以外の何ものでもないように見える。

でも、まず、相手国政府なるものが、昔なら超特権階級たる王族一族、今ならたとえば不法軍事政権だったりする。ほぼ全国民が納得し肯定し支持している近代的民主的政権ではない。

だから、表面的に正しい理屈の裏では、実態としては、西欧列強によるアラブ世界〜中東世界〜イスラム世界の(そこの人びとや社会に対する)搾取が数世紀にわたって続いてきて、今の21世紀になってもまだまだ続いているわけだ。それは、その社会の持つ劣悪な症状を、悪化させ、劇症化させてきた。だから、

テロリストたちが育つ温床は、その長期的な搾取が醸成したものにほかならない。

だから日本〜日本企業は、単純にうかうかとその尻馬に乗るんじゃなくて、いわゆる西欧列強の伝統的な態度とはまったく異なる、視野広い、優しい、賢い態度をもって、相手国国民の社会と心に浸透していく努力が必要なのではないか。テロリスト消滅は、当該国政府の武力ではなく、国民の成長と生活改善が基盤にならなければ、絶対に成功しない。

日本の平和憲法(不戦憲法)は、ただ単に憲法の条項があるだけでは全然だめで、その、ものすごく活発な、積極的な、そして定常的(コンスタント)な、多様な「実装努力」が絶対的に必要だ、とかつて書いたことがある。実装努力とその絶えざる持続がなければ、平和は空しくてひ弱な願いにすぎないものへと頽落する。そんなとき平和憲法は、誰かがとっくにゴミ捨てに捨ててしまった経文にすぎない。

外国で仕事をする日本企業も、その実装努力の一翼を担うことが、絶対的に必要である。その国の政府が粗悪で国民搾取的なら、相手国の政府だけをインタフェイスとしてこと足れりの「一見正しい態度」は、実はとっても、ヤバイ態度だ。

また、エネルギー資源について言えば、外国を向く前に、とくに日本の場合は国内の開発に着目すべきだ。泰子さんの霊が、本当に明るく、浮かばれるためにも。もちろん有力候補は、地熱だけではないが。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月14日 (月)

三つ子の魂

このブログでは、読者自身が「コミュニケーション」という問題意識を、ある種の止(や)みがたい思いをもって、心の底から、頭の芯から、持っているか否かで感想等が相当異なるようだ。

そういうラジカルな(ものごと…とくに人間/社会/歴史現象…の"根っこにあるような”)問題意識は、少なくとも私の場合は、幼児期の大きな不安体験が喚起したもののようだ。それは、戦争とその後の貧困だ。後者は自分の家庭だけでなく日本における一般的な現象であり、餓死者や栄養失調/体力低下による病人(典型的には結核)が出なかったぶん、わが家は幸運なほうだった(親戚に一人、結核罹患者が出たと記憶している)。戦争は、ここでは一つだけ例を書くが、敗戦後、かつての侵略地から日本へ向かう引き揚げ船の出る港町までの列車は、貨物車の中の密閉すし詰めだ(そして真っ暗)。貨物車は、前後左右上下に厚い板壁があるから、大砲はともかく、小銃ぐらいなら射撃されても中の人間は無事だ。…幼児の心を大きく不安にするに十分な道具立てだと言える。※

〔radix == "根"〕

不安と恐怖のおかげでラジカルな問題意識(例:オトコという生き物の大罪)を持ってしまった者にとって、日本の平和憲法(不戦憲法)は、貴重な宝物だ。ちゃんと守っていれば、十分、ノーベル平和賞に値しただろう。今ちらついている改悪の可能性が、またまた不安でたまらない。

しかし「コミュニケーション」という問題意識は、特異な体験に喚起されなくても、今とても若い人でも、持てる人は持てるはずだ。私がこれまで考えて書いてきたようなことは、未来の、真に大きく普及するコミュニケーション学/コミュニケーション理論の、ささやかな芽にすぎない。もっと、いろんな方面で議論が活発になることを、期待したい。

〔※: 南方や北方の最前線の人たちが体験した悲惨や苦難は、いろいろな記録など読むと、その苦難の大きさを10,000とか100,000と仮にするなら、私ら一般居住地の者のそれは、せいぜい1ぐらいでしかない。かつて昭和天皇に対しパチンコ(ゴム銃)を放った帰還兵の姿が、その、地獄のようなすさまじさを象徴している。〕

[画像出典: pieris55]

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2013年1月 7日 (月)

『「他者」不在』…テツガクの大罪とテツガクの大革命

ソクラテス、プラトン、アリストテレスに始まり、途中で神学とのハイブリッドになり、カント、ヘーゲルあたりから近代化し、20世紀に現象学、実存主義等と頽落して無能化したテツガクを、存在一般の学として見るならば、そこには一貫して、「単一の存在像」が前提されている。その、単一の存在像が、今なお人の日常心情のベースとなり、また自然科学等体制的営為の持つ存在観のベースとなっているところに、ここで言うテツガクの大罪がある。

それは、自己の視界として開ける単一の世界であり、また単一の宇宙だ。だからそこには、他者はどこにもいない。単一の世界内を浮遊する諸要素、すなわち「物」「対象物」としてのさまざまな諸要素(他人や他物)がいるだけだ。

すなわちその存在像は、シングル(一)であってプルーラル(多)でない。

視界としての単一の存在像を持つ自己は、自己として意識・自覚されていない(自己忘却、自己疎外)。だから、他者という別の存在契機をも持ち得ない。さらにその自己盲目な自己は通常、何らかの共同体の自己とオーバラップされていて、その忘却性疎外性をよりますます蒙(くら)くしている*。

〔*: 対象物は、その二重の自己色によって色づけ(==勝手な解釈)されている。それぞれのプルーラルの存在としての主体性(==真の他者性)は、足下に踏みしだかれ疎外/阻害/虐待されている。〕

他者であるべきものが単一宇宙内の構成要素たる「物」でしかないところに、人間という下等動物の唯一最大の宿痾であるコミュニケーション不能の原因がある。言い換えると、それぞれの単一の存在像には、コミュニケーションのためのインタフェイスがどこにもない。ありえない。だって、他、がいないのだから。

テツガクを(or人びとの無意識的存在像を)、シングルからプルーラルに変えること、ここに、これから絶対に必要な、テツガクの大革命がある。プラトンをヘーゲルをマルクスを等々を、地中深く、蘇り不可能に葬ろう。

-----
南さんのコメントに「小宇宙」とあるが、大罪テツガクは、大宇宙(全宇宙、普遍宇宙、普遍共有宇宙)があると想定し、それを存在の学の対象とする。だがそれは、むりやり一般化された小宇宙にすぎない。そこには小宇宙の視野内の対象物しかなく、いかなる自己も他己も存在しない。言い換えると大罪テツガクは、小宇宙の一般骨格を大宇宙全宇宙とし、それを全存在とする。無惨にも、他者はずり落ち、疎外されている。

(本稿未完)


| | コメント (19) | トラックバック (0)

2013年1月 1日 (火)

「個」と「共同体」(補遺1)

前編で挙げた、旧共同体のメインの、ないしコアの慣行の共通項は、それらがすべて、反コミュニケーション的(アンチコミュニケーション的)であることだ。

> お正月などの年中行事だけではない。戦争も、トレード(〜〜貨幣制度)も、結婚も、葬式も、等々も、そもそも「個」にはもはや、全然なじめないもの、奇怪な骨董品だ。

・戦争…コミュニケーション不能の慢性的反復的劇症(参考記事)。
・トレード(〜貨幣制度)…"利益==差異”を求める不等価交換*(参考記事)。

〔*: 貨幣の本質、貨幣に人が感じる価値の実体は「差異」(持てるvs持たざるの差異)ですから、貨幣経済下では(マルクス等が言う)「搾取」(と呼ばれる現象)は絶対に解消しない。貨幣経済下での平等は、ちょうど、完全に水平なスキーのジャンプ台と同じで、経済にそこで滑れ飛べといっても、滑れないし飛べない。差異があるからこそ、貨幣経済は動く。そして多大なる犠牲者を生み出し続ける。したがって、きわめてgenericな意味でのソーシャリズムは、生産や流通の動因を貨幣からコミュニケーションに切り替えないかぎり、実現しえない。〕

・結婚…特定他者の恣意的排他的囲み込み(参考記事(1)、(2)、(3))。
・葬式…自然と個魂の共同体私物化(参考記事(1)、(2)、より本質的には(3))。

そして、こうして見てくると、コミュニケーション不能の本質が「他者の(恣意的)自己化」であることが分かる。言い換えるとそれは、自己忘却(自己疎外)が結果している他己疎外(阻害)だ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2012年12月 | トップページ | 2013年2月 »