「個」と「共同体」
今では人並みにお雑煮など食べるが、昔のドクシン時代は、お正月とは大きなフランスパンを買っておいてチープワインで流し込み、どこかのお店が開くまで3〜4日堪え忍ぶものであった。昔は、どのお店も、まじめに正月は休みであった。正月は共同体の歴史的行事であり、断固、私という「個」とは無縁なものだった。
このブログや過去稿などで素描を試みている、人類史上初のコミュニケーション学/コミュニケーション理論においては、「共同体」あるいは「旧共同体」という言葉が、重要な概念の一つだ。人間という動物の根深い悪性の資質であるコミュニケーション不能は、長年の共同体生活が、まるでその“生活習慣病”のように育んだものだ。
そして今日(こんにち)の問題点は、ほぼ世界全域的に、共同体から「個」がぼろぼろとこぼれ落ち、共同体が空洞化無力化しつつある現状において、その個が、生活価値観として旧共同体のそれしか持っていないことにある。個は、個たるにふさわしい新しい生活価値観を、まだ一般的には具有していない。
お正月などの年中行事だけではない。戦争も、トレード(〜〜貨幣制度)も、結婚も、葬式も、等々も、そもそも「個」にはもはや、全然なじめないもの、奇怪な骨董品だ。たとえば結婚(婚姻制度)は、個と個と個が形成すべき社会にとっては、阻害要因(==悪)でしかない。
だが現状の個は、上で述べたように、骨董品をリプレースすべきオルタナティブをまだ一般的には持たない。多くの個が、共同体のものである生活価値観を、無反省に自分でも有価値視している。だからこそ、個を個として支えない骨董品環境の中でさまざまな個の悲劇が起きる。政治が、このことを完全に自覚している国も、この惑星上にたぶんまだ一つも存在しない。
個食ならぬ個生活の蔓延の中で、今では元旦から開いている店も多くなった(というか、正月(等)という制度そのものをなくしてほしいが)。老人の世話は、税による行政ルーチンが担うしかない(消費税増税反対の人が多いのは、個のくせにまだまだ共同体幻想に心を支配されている人が多い、ということだ。結婚==至上の善、説の信者がいまだに圧倒的に多いように)。…これらは個の荒野に生えてきた、小さな草の芽だ。学校やクラスが、いじめともっとexplicitに強力に戦えるようになれば、それもまた芽の一つだ*。
〔*: 学校やクラスがいじめ(共同体性の醜い残滓)とexplicitに強力に戦えるようになってこそ、学校は初めて、「個の味方」、「個の時代に真にふさわしい教育機関」と自称他称できるのである。〕
今は、多くの個が、厳寒の夜の強い寒風のふく荒野に、一人立ちつくしている。Screaming in the Darkness, Talking to My Shadow. Voyant氏がコメントの中で言及しているPauline Murrayのアルバムは、YouTubeで全篇(48分12秒)を聴くことができる。彼女が「地」でやっている表現を、MetricのEmily Hainesは完全な「作品」として彫り込んでいる。つまり主観的な表現を、状況の客観的な把握・定位がつねにささえているしたたかさ、強さと力がある。
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