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2012年10月28日 (日)

犬猫失敗話(2)日本の地域コミュニティは遠い

この話は、前にも書いたことがある。いまのところに住んで20年近くになるが、未だに、両隣などご近所の家の家族の、「姓」は分かるが「名」は知らない。お互いにそうだ。だからアメリカの地域コミュニティのように、お互い日常的に、「ハーイ、ジェーン!」とか「ハイ、トム!」という具合にいかない。フレンドリーな日常関係のない日本の地域社会は、冷凍庫の中のようにしーんと凍結している。

だから日本では、地域で誰かが動物愛護活動など始めても、そこらの主婦や高校生などが自然に手伝うようになり、コミュニティの活動になっていく、ということがない。むしろ、近隣社会の中で孤立して、依怙地になってやっているようなところが多いのではないか。これまで、隣近所からの関わりといえば、うるさいとか臭いとかで、市役所、警察、保健所などに匿名でクレームするやつは何人(or何回)かいた。そのたびに、理解を求める文面を印刷して、あたり数十軒の郵便受けに配布したが、そのおかげかどうか、フィジカルな嫌がらせとか脅しなどはない。少なくとも、これまでは。

でもこれは、こっちから積極的に助けを求める、という筋合いの話ではないので、個人の活動を地域の活動に変えていくためのノウハウは、未だによく分からない。もっとみんな、(精神年齢が)若くて、知的水準も高くて、人生経験や意識が国際化グローバル化していれば、日本でもうまく行くのか、という気がしないでもないが、うまく行っている例を、私は知らない(横浜磯子区の「地域猫」活動は、いわゆる保護活動とは少し違う)。

しかし日本を動物愛護先進国(殺処分廃止、ペット業者の標準事業形式の確立遵守、ほか)にしていくためには、もっともっと、全国各地の地域が充実し、アクティブにならないとだめではないか。われわれの次の世代では、冷凍庫がせめて冷蔵庫ぐらいに温度アップすることを期待したい。

動物愛護は、動物だけの問題ではなくて、人間とその社会のクォリティの問題(〜〜ひいては経済の多様な活性化)の問題でもあるのだ。社会が、冷血動物から温血動物に変わっていくこと。


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2012年10月22日 (月)

犬猫失敗話(1)木造の小屋は寒暑い

遺棄されている犬たち猫たちの保護という道に、なぜかさまよいこんでしまい、20年あまりになるけど、これは簡単に抜けられない道である。後継者など、いるわけもないし。で、長いということは、失敗も多いということだ。その全部を思い出せるわけではないが、参考になる人がいるかもしれないので、ぽつり、ぽつりと書いていこう。

一時期(約10年前)、保護猫の人口が増えすぎて家の中だけではお世話できなくなり、庭に木造の小屋を建てたことがある。ホームセンターには、木造と新建材製の二種類を売っている。後者のほうが、やや安い。しかし外見にこだわる家人の主張で木造にした。広さ6畳、壁の板厚は5センチ、コロニアル張りの屋根はとても薄い。

何が失敗かというと、冬は室温と外気温がsameである。外が零下8度なら、小屋の中も零下8度。ちなみに人間が住んでるほうの家は、天井裏などにフワフワの断熱材がいっぱい放り込んであるので、冬の早朝でも外気温との差は10度近くある。

人間も寒さに弱いが、猫は人間の10倍ぐらい寒さに弱い。簡単に風邪をひき、ひくと直りにくい。

夏は、屋根(==天井)が薄いせいもあり、外の気温が30度なら、小屋の中は40度ぐらいある。とうてい、生き物は置けない。しかし外(ネットで囲ったウッドデッキ)も、暑すぎるときは置けない。

うちがお金持ちなら、冷暖房はすべてエアコンですませられるだろう。それができないから、冬は段ボール箱製の"猫つぐら”の中にアンカを入れてやるとか、夏はデッキで扇風機を回すとか、いろいろ工夫をしている。小屋の夏は、最初、アルミ蒸着反射シートを屋根に張るという工夫が奏効したが、屋根材の腐食のおそれがあると思い、やめた。

というわけで小屋の猫たち(当時8匹)は、夏も冬もエアコンという、わが家のぜいたく猫になってしまった。40度になる夏の室内は、エアコン運転により30度強ぐらいに落ち着く。冬の外が零下5度なら、小屋の中はエアコンにより15度ぐらいには上げられる。どちらも、それぐらいが限度だ。壁も屋根も薄すぎる。冬は当然、アンカも併用する。

新建材製の小屋だったら、どうだっただろうか?

そのころは、近くのスーパーマーケットの裏の駐車場に頻繁に猫が捨てられ、そこでこっちの保護人口も増えてしまったのだけど、今は昔のような捨て猫ブームはない。でも今うちにいる売れ残り猫約20匹のうち、3匹はスーパー裏猫だ。簡単に人につかまってくれない猫には、捕獲器を使うという乱暴な保護方法をとる。するとその猫は、慢性の人間不信になる場合が多い。今いる3匹も、未だに人慣れしてくれない。"家庭内野良”である。

おっとこれは、別の失敗話として、書くべきだよな。

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2012年10月20日 (土)

上を向いて歩くと最後に災悪が降り注ぐ

コミュニケーション不能人種は、もっぱら上を向いて歩く。上にしか、救いはないと固く信ずる。

物の形状は、目が接近しすぎているとよく分からないが、やや離れると分かる。ヨーロッパなどのふつうのマスコミ報道では、日本は今、東京や大阪に民族主義的な知事が登場して危険な兆候、という。そういう、視野風景なのだ、今の日本という物は。(東京、大阪だけでなく、名古屋のあのおっさんも含めるべきか。)

民族主義でも名前は何でもいいが、一見、すぱっと切れ味が良さそうな、強権を求める上向き人種の背景には、ときのデフォルト体制の腐敗、怠慢、非力、感性鈍磨などなどがある。ナチスの出現背景に言及するまでもなく、歴史の時空の至るところにその現象はある。イスラム原理主義暴力集団も、その支持者たちの心情は同じだ(たとえばビンラデンはサウジの現デフォルト体制に不満だった)。

で、その心情は、遅かれ早かれ、たいへんな災悪を惹起する。招き寄せる。災悪がそのまさに'上から’降ってくる。

そこで、現デフォルト体制がかったるければ、上に、切れ味良さそうな強権を求めるのではなく、自主的主体的なヨコヨコ的関係を築くのが正解である。今の日本では、かなり賢い人も多くなっているから、いろんな領域や分野にそういう、地域や住民の自助努力によるself empoweringの取り組みがある。

そういう人たちの、(もちろんこの私も含め)、念力で、いずれ天から降ってくるであろう巨きな災悪を、抑止できるとめでたい。インターネットを、そういう人たちのための(言葉の正しい意味での*)メディアにしなければならないが、それはまた別の、とても真剣な課題だ。

*: 悲惨な社会的事件をネタに、テレビ国の慢性的住人(最古〜最長不倒の住人がたぶん北野武)たちがくっちゃべっているが、そもそもテレビが真にメディア…コミュニケーションを媒介する仕組み…として機能していれば、その事件そのものの発生を防げたはず。

国と国のあいだも、個人間、人間間、小グループ間などのヨコヨコ関係が多様に充実していれば、戦争は自然に抑止される。どんな国の人でも、まずその人「個人」を「人間」として見る、感じる。そしてたまたまその人の国籍が○○国や△△国であるにすぎない。…この視座からずれないこと。

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2012年10月 9日 (火)

論点のずらし(2)--日本は地滑り的に後退する

日本人(or世界のイナカモン)の悪癖である論点ずらしについては前にも書いたが*、その原因もまた、他者不在、他者疎外だ。つまり、目の前にいるもの(者、物)が、他者ではなくて自己操作物である(という思いこみ)にすぎない。〔*: とくにVoyant氏のコメントをお読みいただきたい。〕

Aの話をしているのに、勝手にBやMやQの話をし始める。これでは論理的な対話は会話はまったく不可能だ。だから日本は今、全体的にプログラミング後進国==コンピュータ後進国==グローバルなコミュニケーションにおける後進国になりつつある。たいへん重要なプログラミング言語に関して、こんなひどい日本語ドキュメンテーションがいまだに放置されていたり。

超長期一党独裁国やちっちゃな半島分裂放置国などからも、最近はばかにされ始めた日本は、政治と教育両面でここで大きなてこ入れをしないと、しまいには消滅してしまうかもしれない。

●中国に対しては、民主化の早期実現に関し、断固たる態度をとり続けること。
●韓国に対しては、半島再統一のメディエイターとして日本が活躍すること。
(このままでは北朝鮮に住んでる人たちがかわいそうすぎる。)

こうして日本は、歴史上始めて、「偉大なる国」となり、グローバルな論理性を体質として身につける必要がある。そしてプログラミングは、普遍的なツール技術として万人のスキルであるべき。

(参考記事。)

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アナウンサーのコミュニケーションではない

テレビのニュース番組は、アナウンサーの自己表現やパフォーマンスではない。

アナウンサーの顔にはニュースとしての情報価値はない。

火事のニュースなら、火事の状況を映せ。

少なくともニュース番組では、アナウンサーの顔なんか映すな。

それは完全に、無駄で無意味である。

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ノーベル賞

どっかの金持ち財団が(社会的に有効利用して早く文無しになるべきなのに)運良く運用が上手で運用益を賞制度に利用しているのは、まあ許せるとしよう。

しかし、その、あの、異様なる権威化は、一体何なんだ?
(てめーら、説明してみろ!!)

コミュニケーション不能人類は、至るところに、神を捏造してしまう

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iPS細胞

人間に(本質的に)完全な制御能力がないがゆえに、社会内に実装(実用化、商用化)してはならない科学技術の筆頭が、原子核エネルギーの取り出し、宇宙開発、遺伝子組み換え、そしてiPS細胞である。

しかし真の問題は、科学技術そのものに対するコントロールが、せいぜい、ささやかな市民運動ぐらいしかないことだ。科学技術は今、愚かなるコミュニケーション不能人類によって、神の座に置かれている。

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2012年10月 8日 (月)

死の疎外==コミュニケーション不能の核

未来のコミュニケーション有能人類においては、存在の学(ないし自然の学)ががらっと変わると思われる。そこでは存在はもはや、一方的に視られる、分析される、勝手に操作(等)される「対象」ではなく、対話性という場における「他者」である。その中には、不可知ゆえに黙する、という究極の対話性もある。

そこで、絶対的に不可知あるいは未知な他者領域を、抽象的な
Kaimen
「海面下」と呼ぼう。海面上の空中が、可知の領域とする。

そしてその海面下に、海面に垂直に、フラフープのような
Fura
「円環」を挿入し、フープの平均直径80センチのうち5センチ程度だけが海面上に出ている、と想定する。この円環は存在全体宇宙全体自然全体を表す、とする。

超ヘタクソな絵で恐縮だが、
Lalala
波線が海面、円が円環/フラフープとする。円環の、海面上に出ている部分が、存在の可知領域である。それは知の主体である自己の生誕から死までのスパンでもある(とする)。(海面上の円弧部分は、もっと小さく描くべきだった。)

で、海面下の不可知領域は、総合的に他者の象徴でもある。死は生だが、この不可知領域は生の他者としての「死後」だ、いわば。

で、もう、何を言わんとしているか、勘の良い方はお分かりと思うが、従来の人類==コミュニケーション不能人類は、海面上に突き出ている小さな「円弧」を、存在であると錯認している。そして死は存在が消えることであるとして恐怖し、忌み嫌う。死を疎外する。

そうではなく、本当は、誕生で始まり死で終わる生というスパンは、全存在のちっぽけな一部、一つの「相」であるにすぎない。それが、この超ヘタクソな絵で、お分かりいただけると思う。

add 09 10 2012:
死の忌避、死の疎外は、ひるがえせば、上図の円環全体を自己生としたい欲望である。全存在の自己化。すなわち、他者疎外、他者不在、すなわち、コミュニケーション不能である。コミュニケーション学/コミュニケーション理論の初学者は、他者不在について、これやこれなどが初読として良いかもしれない。

(この続きはまた…)

画像クレジット: 海面・amesuke's fotolife、フラフープ・難波みえのイラスト&漫画日記日和

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