論点のずらし(2)--日本は地滑り的に後退する
日本人(or世界のイナカモン)の悪癖である論点ずらしについては前にも書いたが*、その原因もまた、他者不在、他者疎外だ。つまり、目の前にいるもの(者、物)が、他者ではなくて自己操作物である(という思いこみ)にすぎない。〔*: とくにVoyant氏のコメントをお読みいただきたい。〕
Aの話をしているのに、勝手にBやMやQの話をし始める。これでは論理的な対話は会話はまったく不可能だ。だから日本は今、全体的にプログラミング後進国==コンピュータ後進国==グローバルなコミュニケーションにおける後進国になりつつある。たいへん重要なプログラミング言語に関して、こんなひどい日本語ドキュメンテーションがいまだに放置されていたり。
超長期一党独裁国やちっちゃな半島分裂放置国などからも、最近はばかにされ始めた日本は、政治と教育両面でここで大きなてこ入れをしないと、しまいには消滅してしまうかもしれない。
●中国に対しては、民主化の早期実現に関し、断固たる態度をとり続けること。
●韓国に対しては、半島再統一のメディエイターとして日本が活躍すること。
(このままでは北朝鮮に住んでる人たちがかわいそうすぎる。)
こうして日本は、歴史上始めて、「偉大なる国」となり、グローバルな論理性を体質として身につける必要がある。そしてプログラミングは、普遍的なツール技術として万人のスキルであるべき。
(参考記事。)
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コメント
出張での出先で、近くだからと数年ぶりに
友人と呑む。
話題は多岐に及んだのですが、
中1になった息子さんの話にもおよぶ
反抗期です。
一つのエピソードとして、パソコンで
ゲームばかりしているので、母親が押し入れに
パソコンをしまってしまうという顛末も。
僕は、プログラミングを教えてあげたら、
とアドバイス。
使う立場ではなくて
自分で作れるんだよ、のメッセージは
大事かもよ、と。
技術者でもある彼は、目を輝かせました
先程も、いいヒントをくれたと
感謝メールあり。
あの、海から出ている岩
あげちゃえばいいのに、とも意気投合。
楽しい呑みになりました
いい夜だったなあ
simomitu
投稿: 下光博之 | 2012年10月10日 (水) 23時39分
コンピュータは、ハードウェア(HW)とソフトウェア(SW)の二つに大別されるが、その性格・性質上、前者は”有限”であるのに対して、後者は一種の”無限性”を孕んでいる。言い換えれば、HWは、完成後は只の一介の箱であり、そこで一先ずDone。しかしながら、SWは、インプリメントされるHW側の仕様・性能等の各種制約を仮に除外したとしたら、そのインプリメンテーションにおいて”無限の可能性”を秘めている。
言う迄も無く、一つのツールとしてのコンピュータにおけるユーザのニーズは多種多様・種々雑多であり、よって、これもまた”無限”であると言える。従って、あらゆる場面で個々のニーズに応じた、適切で柔軟なアプリケーション(Application)が常に必要とされる。では、ここで、SWをアプリケーション・ソフトウェアにのみ限定して言及する場合、是迄、適切で柔軟と思しきアプリケーションは果たして本当に存在したのか・・・?
一例として、アプリケーションのDe facto standardとされる、某社のWord、Excel、またPowerPoint等は、私も仕事上長い間、嫌々ながら仕方無く使用しているが、Revision upする度に、SWとして只管重くなるばかりでなく、妙に意味不明なGUI等々に代表される余計なお世話的機能のみが益々増えて行くのだが、実は肝心要のFunction等が無かったりとか、一ユーザとしては、Grade upと言うより、一種のDegradeである感を拭えないのが常態である。これは、個々のユーザの顔=他者の顔が全く観えないまま、即ち、ユーザのニーズの多様性やその機微を一切無視したまま、一企業が、アプリケーション・ソフトウェアを開発〜販売していると言う無理無謀な有様を如実に物語っているものである。言い換えれば、一企業のみで、人間の”無限”のニーズを網羅・満足するアプリケーションを作る事など到底不可能である。
ユーザが、恰もロボットの様に、一方的に只ひたすら使うだけのアプリケーションではなく、ユーザが自らのニーズに応じて自由自在にカスタマイズ(Customize)出来るアプリケーション、それがアプリケーションの理想型である。その為には、Linux OS同様、全てのアプリケーション・ソフトウェアが、オープン・ソースとして開示されている必要がある。また、ユーザ諸氏においても、日常極々普通に文章を書くのと同じ様な感じで、プログラミング出来る素養が極々普通に身に付いている必要がある。
プログラミングの健全化を明らかに阻害し、矛盾・誤謬・錯誤をたんまり抱えたSWビジネスと言うものも、何れ追々、ビジネスとしては自然に淘汰されて行く不幸な運命にある様な気がしてならないのだが、それをより推進して行く為にも、確かに、早い時期からの良質のプログラミング教育は必須であると思う。
投稿: Voyant | 2012年10月19日 (金) 01時51分
あるプログラマーが、自作のアプリケーション・ソフトウェアを「御自由にお使い下さい。また、改版・改変も自由です。」と付記して、ソース・コードの形でインターネット上に公開したと仮定しよう。そのアプリが元々、そこそこ使い勝手も素地も良く、また、より改良の余地のある一種魅力的なソフトウェアであった場合、それに興味を有したプログラマー諸氏が、潜在バグ(Bug)やセキュリティ・ホール(Security hole)等、CriticalなDefectの除去に加え、仕様の変更〜追加〜充実等々、寄って集って改版・改変に尽力したら、同アプリは、見る見る内に進化の一途を辿って行くであろう。
その性格・性質上、ソフトウェア(SW)は、ハードウェア(HW)と異なり、その実装(Implementation)において、”無限の可能性”を秘めている事は、先に本記事のコメント(10/19/12付け)にて触れさせて戴いた。日常、人が普通に生活していて、起こり得る多種多様な"無限のニーズ”に反して自然的必然的に発生し、打ち当たってしまう困難不便は、SW、特に、アプリケーション・ソフトウェアによって、回避出来たり、払拭出来たりするケースが、往々にして、益々多くなって来ている事実は否めない。冒頭の’あるプログラマー’をA氏とした場合、B氏も、C氏も、D氏も、〜氏も、・・・、A氏同様、インターネット上へ自前のソース・コードを公開する事は容易であるし、また、他氏が作成したソース・コードに関しても、簡単に改版・改変可能なのだから、諸々発生し得る困難不便は、一個人や一企業等が、ブラック・ボックス的「ソフトウェア商品」として視野狭窄的に提供するよりも、ある種人海戦術的な参加型『錯綜的双方向コミュニケーション』にて解決した方が、人々の多彩で微細なニーズにマッチした、よりスマートで、よりSecureな結果を齎すであろう。
さて、この『錯綜的双方向コミュニケーション』には、"代償"(Compensation)としての「貨幣」は、もはや全く発生し得ないし、介在し得ない。その発端として、インターネット上へソース・コードをUploadしたA氏は、当該ソース・コードへの”対価”や”代償”をそもそも必要も期待もしていないし、改良に励み勤しむプログラマー各位も正に同様である。此処には、返礼迄の時間を与える’贈与’や’互酬性’と言う概念も、延いては、最終的に起こり得る’交換’と言う概念も初めから全然存在しないし、もしあるとしたら、返礼を全く期待していない、善意ある’余剰労働の相互贈与’と言う概念のみである。
プログラムのソース・コード等を含む、インターネット上に配置された「エリクチュール(=痕跡)」の多くは、「商品財」、即ち「貨幣財」になり辛い要素と傾向を自ずから強く孕んでいる。各人によるソース・コードの生成と開示 → 各人によるソース・コードの飽く無き改版・改変 → アプリケーション・ソフトウェア自体の改良と進化、この一連の過程は、国内外問わず、様々な『錯綜的双方向コミュニケーション』を生み出し、それと並行して、参画者各位の論理性を同時に進化させて行く過程の一環に他ならない。この種のインターネット・コミュニケーションを通じた、人類の一つの理想形、また最終形としては、’余剰労働の相互贈与’から「余剰」の文字が取れ、’労働の相互贈与’、即ち、「貨幣」を必要としない、また、「貨幣」が一切通用しない”無償の相互労働"として、徐々に徐々に変化し、移行して行く事だろうか…?
投稿: Voyant | 2013年1月16日 (水) 03時03分
@Voyant
>”余剰労働の相互贈与”から「余剰」の文字が取れ、
”労働の相互贈与”、即ち、「貨幣」を必要としない、
また、「貨幣」が一切通用しない”無償の相互労働”として、、、、
参考になりました。しかし、本文も疑問文で終わって
いるように、いつどのように、、。
やはり、その契機は「今後、二度と貨幣(カネ)を経
済の媒介にしねーぞ。」という強い意思の統一・疎通が必要
でないかしらん。貨幣を用いる事は~~であり、私の
幸福になんら資するものではない、という強い認識が
万人に宿ること。
しかし今のテレビも雑誌も、どうすればお金を貯められるか、
どうすればお金に好かれる人間になれるか、
なんてものばかりで、お先真っ暗ですけど。
投稿: Ohiya | 2014年4月13日 (日) 02時19分
@Ohiya
> お先真っ暗ですけど。
ふつうの家族とか、Linuxの生成史などを見ると、コミュニケーションが密なところではむしろ貨幣的トランザクションが無用な邪魔者であることが分かります。
また大災害のときなどは、きわめて局所的に、局所的だからこそ、コミュニケーションが密になり、貨幣トランザクションを伴わないリソースの流通配布が行われます。
こう見てくると、貨幣の廃棄は、イコール、全地球規模での、コミュニケーションの充実、という課題であることが分かります。よそよそしい(fremd)仲では、どうしても貨幣というfremdなメディアがその寒い空隙を填めます。
投稿: iwatani | 2014年4月13日 (日) 07時21分
>全地球規模での、コミュニケーションの充実、という課題、、、
いやはや、気の遠くなるような話。それとも、私がそ
の手の話に縁遠いだけ?。
大災害時に、局所的にそのような状況になるのはうな
ずけます。しかしそれを、恒久的に地球規模で展開す
るには、自分も含めて人間(人類)の質が低すぎます。
けれど悲観視だけしていても始まらないし、今最低限
自分に出来ることは、最終目標を見据えつつ、できる
だけコミュニケイティブに人に接していくことかなと、思います。
投稿: Ohiya | 2014年4月13日 (日) 10時57分