コミュニケーション忌避のつけ
人間という動物の伝統的な…そしてずば抜けて最悪の…資質であるコミュニケーション不能は、心中脳中における他者概念の未確立に起因する。
共同体は他者(他共同体)との接触において、私の知るかぎり地球上の全時空において、コミュニケーションではなく、トレードと戦争を主たる相互的やりとり(トランザクション)の手段とした。
今は、共同体というcocoon(繭、保護皮膜)が破れて「個人」というものが…孵化した蜘蛛の赤ちゃんたちのように…ぞろぞろと現れつつあるが、彼らはまだだいたいの精神基盤として「共同体性の記憶」しか持っていない。が、それは個人の精神基盤としては無効である。
このブログでも、またそれ以前にも、日本人の多くに見られるコミュニケーション忌避~コミュニケーション欺瞞の性向については何度も触れている。あのとんでもない「拉致問題」にしても、あるいは最近騒々しい、近隣海域におけるいくつかの島の「帰属問題」**にしても、それらはすべて≪終戦処理≫と呼ばれるコミュニケーション作業(さらにその後のフォローアップとしての対外国コミュニケーション)をずぼらしてきたことのつけである。いっさいの戦闘・敵対行為の終結とか、領土とその境界の新たな定義とか、そういう重要な問題をめぐるコミュニケーションをテキトーに放置してきた。
コミュニケーションをせず、自分の一方的な自分に都合の良いヌクヌクとした「思いこみ」で、世界が成立しうる、という、とんでもないテツガクをこれまでの日本人(とくに指導的政治家たち)は持ち続けてきた。『私がこう思うんだから、相手もこうこう思うだろう、思うべきだ』、という、むちゃくちゃなテツガク。相手が、自分の思うとおりに思ってくれなかったら、その相手を悪と見なす、とんでもない幼児性*。コミュニケーション忌避怠慢の典型例だ。
拉致被害者の家族は、遡及的に、当時から今日までの日本政府のコミュニケーション怠慢に関し、国を訴えることができるのではないだろうか。
今日願いうるかぎりでの国際司法とか、あるいは適切な第三者立ち会いのもとでの、抜本的なコミュニケーションの再(というより"初”)構築が、今からでも遅くないから、必要だ。もはや、戦争による解決(==非解決!)はありえないのだから。
〔*: かなり若い世代の日本人の中にも、自分が持つ意味体系==普遍的な(唯一正しい)意味体系、と信じ、それに基づいて、平気で、自分以外の者を律したり罰したりする人たちが、たくさんいる。日本はこれからますます、卑小な国になっていくのか…。〕
〔**: 日本語版Wikipediaの記述によれば、尖閣諸島は石垣島などと並んで南西諸島の一員とされている。しかしGoogle Mapsの海底地形図が正しいなら、尖閣諸島は南西諸島がその上に並ぶ稜線上には存在しない。むしろ尖閣諸島は、中国大陸の大陸棚の端っこ(ほぼ南東端)にある。あそこの海底資源を外国に勝手に採掘されたら、中国人としては気分悪いかもしれない。また、同じくWikipediaによると、明治中期に尖閣諸島を日本領土と見なすにあたり、日本政府は中国等とのコミュニケーションをまったく行っていない。島は、「勝手に」日本領とされたにすぎない。ここにもまた、コミュニケーション忌避という日本人の(将来的には致命的な?)悪癖が大手をふっている。
| 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (0)
最近のコメント