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2012年5月21日 (月)

終結しない音

またまたEmerson, Lake and Palmerで、これは、はまり出すとけっこう奥が深い。今日は、Brain Salad Surgeryと来て、Toccataと来て、Alberto Ginasteraの線と、もう一つ、Mihaela Ursuleasaと来てやはりAlberto Ginasteraと来る。このルーマニア出身のピアニストのファーストアルバムは、ジャケットだけ見るとなんじゃこりゃ!と言いたいぐらいの、えーかげんなアイドル路線なのだが、演奏と音は、およそいわゆる女性らしさとはまったく無縁の本格的でパワフルなものである。中でも圧倒的にパワフルなのがGinasteraである。

で今日は、なぜGinasteraの音楽には惹かれるものがあるのか、と考えてみた。そもそも音楽の曲は、最後に終結するものである。だいたい、ドミソのいわゆる主和音で終結するのが定石だが、ロックも含め、多少のバリエーションはある。

Ginasteraは、現代の音楽は終結しない、終結に向かう構造を持たない、持ったとしたらそれは欺瞞だ、とその心の軸で感じ信じている。その信条が、曲の構造全体を貫く。音は、拡散的に配置されていく。(私は囲碁はぜんぜん詳しくないが)無限に終わらない碁の対局の、白、黒、白、黒、…の宇宙的配置のように。ストーリーが終結に向かわず、むしろ無限大に向かって一歩々々、着実に配置されていくのだ。登山道を拒否して、わざと形の悪い岩ばかりをを選んで登る無謀な登山のように。

私自身も、インターネット以降は、人の心は安らかな閉域へと終結せず、たえずoutboundしている、と感じている。相当前に、すべての自己よ”割れ裂けよ”なんて書いた記憶もある。そう、Ginasteraの音は、閉じることを意識的に拒否しようとしている音、かもしれない。

なんか、まだまだうまく書けないが、うまく書けて、はい終わり、とはならないだろうし、そんな文にはしないだろう。このテーマはとくに。

以前、クラシック音楽の超定番の一つ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、あの超聞き飽きた曲を、Daniel Hopeという若手が非常に鋭く、シャープにビビッドに弾いてるのを聞いてびっくりしたことがある。このMihaela Ursuleasaという人も、リストのピアノ協奏曲なんてくだらん曲や、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」なんて退屈な曲を、びっくりするぐらい生き生きした音楽へと変身させ生き返らせている。

YouTubeで検索してもよいが、Uwall.tvTubalrでリストを作らせて聴く方法もある。


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2012年5月20日 (日)

子猫またまた続報

こんなに大きくなり、捨てられていた5月5日で200グラム弱が、今では500グラム近くある(このページは、「いつでも里親募集中」さんの上にある)。離乳食をしっかり食べ始めると、ミルクの量と回数が減り、こっちは楽だ。

去年の4月18日に生後3〜4日で保護したの(当時の体重110グラム)は、売れ残って家にいる。とってもかわいいから、いたっていいけど、こちとら高齢者だから、今後のことが心配だ。そのほかの犬猫たちも含め、悲惨な最終結果になることだけは、なんとしてでも避けなければならない。

捨て猫捨て犬。これなども、人間のコミュニケーション不能の典型的な現れのひとつだけど、昔みたいに子猫子犬を紙袋に入れて川へ流す、なんてのよりは、やや人間マシになった、と思うしかないね。

人間、共同体の成員でなく都市社会の「個」になると、小さな、寄る辺なき命と、自分の孤独な自己存在とが、無意識裡にオーバラップするんだな。だから、*それ*を安易に殺せなくなる。ひろってもらえそうな場所に、捨てる。だから、人間、ややマシになってるとは言える。

ちょっとだけでなく、もっと大きく堅牢に、マシになってほしいね。次世代ぐらいからは。

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2012年5月13日 (日)

子猫続報+Web APIの話

5月5日に保護した子猫は、本日13日の体重が365グラムだから、おなかにあると思われる朝食と2〜3日ぶんのウンチを差し引いても、とても順調な生育ぶりである。すでに、保護後5日目ぐらいからトイレを使えるようになったから、早熟でもある。

昨年と同じくYahooオークション上の池内さんが、シリンジを代金受領前に送ってくださった。こっちが池内さんを選んだのではなく、使い慣れたテルモ製品を買ったら、たまたま池内さんだったのである。いまヤフオク上のシリンジは、ニプロ製のカテーテルタイプが多い。ちょっと、子猫の口には合わないかもしれない。

5月冒頭のいわゆる連休は、今年は天候不順のため暖房器具をしまうという恒例の行事をやっていない。そこへ、ここ数日の異様な寒波だ。老猫たちは、朝はストーブの前、昼間は電気あんかにへばりついている。けがの功名で、暖房器具をしまってなかったのが幸いした。

このあたりは長年、野生動物が出没する住宅地ではなかったが、今年は狸が来る。これまた天候不順で、山に食べ物がないのだろう。これから日本の、そして世界の、自然はどう変わっていくのか。全体として、"より豊かな自然”になるといいけど、果たして…。

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ちょっと話変わるけど、最近はWebという衣装を着たインターネットが、ある意味では汎用OSみたいな存在になってきて、これから作るアプリケーションが利用するOSのサービス==既存のWeb上のサービス、と言えるような状況もある。既存のWebサービスの多くが、そのためのAPIを提供している。だからどうしても、これからの(汎用OSであるWeb上の)プログラミングの中にはWeb APIの使いこなしが入って来ざるをえない。が、しかし、Web APIの利用、すなわちcallは、あまりシンプルでイージーな形式ではない。その事態そのものが今後は改善されなければならないが、当面はこんなサイトが、擬似的なイージーさを体験させてくれる。そう、繰り返すと、これからのアプリケーションプログラミングは、Web APIの利用が入って来ざるをえないんだよ。たとえばストレージなんて、既存ストレージサービス(Google Driveなど)のAPIを使ったほうが便利だし。

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2012年5月 6日 (日)

またまた子猫/ウルトラローカルメディアとしてのインターネット

5月5日、ほとんど夏日の陽気の日、門前に置かれた段ボール箱に子猫が入っていた。体重200グラム弱、ほぼ生後10日、目は開いたばかりのよう。

従来、猫を捨てる人は人気のない深夜をねらい、公園や商店の前、人家なら裏庭に子猫(や子犬)を置く。真っ昼間堂々、家の前面(門の横の生け垣の前--生け垣が邪魔になるので一応死角だ)に置いて立ち去るのは前代未聞。段ボール箱の中にはバスタオルや、私の知らないラーメン店の白い厨房着がたたんであり、その上に子猫を置いている。同じラーメン店の小皿(餃子のタレ用)が置いてある。ミルクでも入れたのか(ただしまだ自力では飲めない)。

猫への愛情は、感じられる。白昼堂々も、子猫を夜の寒さに当てたくなかったのかもしれない。また、昼間で、家の正面の前なら、子猫が確実に短時間内に保護される、と考えたのかもしれない。

状態は良いし、なんとかシリンジ(注射筒)で猫ミルクも飲むから、このままいけばなんとか、ふつうに育ちそうだ。ぜひ、そうあってほしい。猫を愛しつつ、遺棄せざるを得なかった彼/彼女のためにも。

ここらの地域で私の家は有名になっているのかもしれないが、われわれはすでに、いわゆる高齢者で、毎日、体力の限界を感じている。友だちなどと語り合って、自ら、動物愛護グループを立ち上げてほしい。これからはぜひぜひ、そうお願いしたい。

年寄りはインターネットなんか見向きもしないが、これからの世代のためには、インターネットのある側面は、密度の濃い小地域的なコミュニケーションメディアになるべきだな。パソコンじゃなく、携帯で十分。地域の商業者や商工会などが、マーケティング的な機能もねらいつつ、そんなソーシャルメディアを立ち上げてもいいのでは。TwitterやFacebookなどなどは、ぶわーっと広すぎて、地域の味なんてないもんね。


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