終結しない音
またまたEmerson, Lake and Palmerで、これは、はまり出すとけっこう奥が深い。今日は、Brain Salad Surgeryと来て、Toccataと来て、Alberto Ginasteraの線と、もう一つ、Mihaela Ursuleasaと来てやはりAlberto Ginasteraと来る。このルーマニア出身のピアニストのファーストアルバムは、ジャケットだけ見るとなんじゃこりゃ!と言いたいぐらいの、えーかげんなアイドル路線なのだが、演奏と音は、およそいわゆる女性らしさとはまったく無縁の本格的でパワフルなものである。中でも圧倒的にパワフルなのがGinasteraである。
で今日は、なぜGinasteraの音楽には惹かれるものがあるのか、と考えてみた。そもそも音楽の曲は、最後に終結するものである。だいたい、ドミソのいわゆる主和音で終結するのが定石だが、ロックも含め、多少のバリエーションはある。
Ginasteraは、現代の音楽は終結しない、終結に向かう構造を持たない、持ったとしたらそれは欺瞞だ、とその心の軸で感じ信じている。その信条が、曲の構造全体を貫く。音は、拡散的に配置されていく。(私は囲碁はぜんぜん詳しくないが)無限に終わらない碁の対局の、白、黒、白、黒、…の宇宙的配置のように。ストーリーが終結に向かわず、むしろ無限大に向かって一歩々々、着実に配置されていくのだ。登山道を拒否して、わざと形の悪い岩ばかりをを選んで登る無謀な登山のように。
私自身も、インターネット以降は、人の心は安らかな閉域へと終結せず、たえずoutboundしている、と感じている。相当前に、すべての自己よ”割れ裂けよ”なんて書いた記憶もある。そう、Ginasteraの音は、閉じることを意識的に拒否しようとしている音、かもしれない。
なんか、まだまだうまく書けないが、うまく書けて、はい終わり、とはならないだろうし、そんな文にはしないだろう。このテーマはとくに。
以前、クラシック音楽の超定番の一つ、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、あの超聞き飽きた曲を、Daniel Hopeという若手が非常に鋭く、シャープにビビッドに弾いてるのを聞いてびっくりしたことがある。このMihaela Ursuleasaという人も、リストのピアノ協奏曲なんてくだらん曲や、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」なんて退屈な曲を、びっくりするぐらい生き生きした音楽へと変身させ生き返らせている。
YouTubeで検索してもよいが、Uwall.tvやTubalrでリストを作らせて聴く方法もある。
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