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2012年3月26日 (月)

言葉は話者の文脈に属する

xyzという語句を、Aさんはpという含意で発話した。それをBさんは、qという含意で受け取った。そしてBさんは、qという含意に基づいて、Aさんのxyz発話を非難する。

日本のインターネット上では、私なんかよりもずっと若い、ずっとずっと意識がグローバル化されていてもおかしくないと期待される人びとにおいてすら、このBさんのような人物が、ものすごく多い。無規制で氾濫放置されている。

日本人のこの、"コミュニケーション土人状態"は、いったいいつまで続くのか。前稿に登場する"コミュニケーション土人"たちも、「悪意による捏造虚話」という話者の含意文脈に属するテキスト情報を、自分の勝手な含意文脈、すなわち「あいつは本当は影で悪いことをしている男だ」として受け取ってしまう。しかも、そういう自己の情報摂取態度を、疑ってみる能力を欠いている。『自分の言語受け取りは100%普遍的であり100%正しい』と、信じて疑わない。どうしようもない、馬鹿者たち。

自己の言語意味体系を即グローバルに正しい、と思う態度は、一種の独裁指向であり、犯罪的である。真のグローバルは、各自が自己のローカル性を自覚するとともに、またほかの人たち一人々々の、自分のそれとは異なるローカリティを、認め尊重するところからしか育たない。

しかし、原始共同体性のしっぽの重い土人たちは、「日本人全員が(自分の属する)唯一の共同体==意味体系に属している」と信じ、その信念に基づいて、その"唯一の共同体"の規範に違反している--と自分には映る--者を責めるのだ。その人が自分とは全然別の意味体系や価値観体系を抱えていることは、土人たちには想像すらできないのだ。

いっそ、日本語を廃止して、公用語も日常語も英語にしちゃったほうが、将来の日本人の心と脳の健康のために良いかもしれないな。


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コメント

戦後の国語教育に関する情報です。当初、GHQの作った国語教科書は「言語」と「文学」に分かれていた。しかし、何らかの理由により「言語」の科目が削られて「文学」のみとなった。http://ima-coco.blog.so-net.ne.jp/2009-01-30

当初は「言語」と「文学」との二本建ての構想があったということ。そして、それが文学(文学鑑賞)に一本化されたということ。このアンバランス(というよりも片手落ち)が、戦後の日本人における言語的な論理性の育成に関して大きく影響したということは考えられることかもしれません。

おそらくは宗教的な原因により、アメリカ人には馬鹿正直なお節介さ、押しつけがましさがあるということ。そのような彼らの意図した初期段階の構想が、純粋であればあるほどに、実践段階で入る政治的なノイズにより、その方向性が狂わされる可能性が大きいこと。しかし、その狂いに対して、「我々の構想は理想的であった」、「我々の動機は極めて純粋であった」などと、自己満足する傾向があること。

戦後の国語教育の場合では、現場に「言語」の授業を担当する能力のある日本人教師が実際には一人もいなかったというような問題が指摘されています。昭和憲法と同様の、「猫に小判」的な状況があったのかもしれません。しかし、ずさんな占領政策の後遺症という側面も感じます。

とりあえず考えたのは、この「言語」の科目に、初等プログラミングの授業を繰り込むことで、なんらかの効果が期待できないかということです。最近手にとった『愚民社会』という本の中でも「土人」という言葉が連呼されていました。事態は急を要する感じです。

投稿: saigonodorei | 2012年3月27日 (火) 20時03分

日本語廃止賛成。廃止でなくとも日本語は中学生になってからの授業という事で。理由は忘れたが一時期日本人も英語だったらいいのにと思っていたのを思い出してしまった。
もちろん「私は、少年です。」

投稿: m.hodo | 2012年3月27日 (火) 22時00分

私が国語教育を受けたのは比較的最近ですが、「物語を読んで主人公の気持ちを述べよ」みたいな問題が多すぎると思いました。生徒は教師受けする方法ばかり考え、結果的に想像力は低下していく方向だと感じました。

反面、もっと国語で論理を教えよ、という意見にも抵抗があります。論理と言うのは人間に備わっているもので、教育で植えつけるものじゃないからです。国語教育で論理なんて教えたら、国語嫌いが増えるだけでしょう。数学教育で集合論を教えよ、に似た思想だと思います。

あらゆる国語は、最初から論理的に出来ていると思います。でなければ、国語として成立しません。

国語教育では、漢字の書き取りと世の中にはどんな本が存在しているかを紹介するだけで十分だと思います。作文でさえ余計な御世話だと思います。

Iwataniさんの日本語廃止論はだめだと思います。指摘される問題は日本語の意味体系の所為ではありません。日本人が空気に流されやすいという昔からある問題を再発見されたにすぎないと思います。

投稿: ともむら | 2012年3月27日 (火) 22時01分

対応が遅れていますけど、書いてみます

一つは、Iwatani さんが指摘されているように発話者の含意が
聞き手の解釈とずれている可能性を意識しておくのは大事だ、
と言うことです。
これは、日常でもよく経験すること。
そんなつもりじゃ、無いのに。
そんなこと、言う? 等々・・・
反省の気持ちも含めて気を付けたいところです。

二つ目は、受け売りですけれど、
文化と言語の組み合わせは、どれもが、自分たちを取り巻く
世界と折り合いをつけながら進化してきた
その独自のやり方を示してくれる貴重なセット
と考える。と、
英語だ、日本語だ、と言い合うよりも
アイディア出しあう別の方法もあるかも、と
思います。
例えば、ローマ字の活用とか

いずれにしても、よく読んで、よく聴いて、考えなくっちゃ
と思いました

それぞれのコメントも参考になりました

simomitu

投稿: 下光博之 | 2012年4月16日 (月) 21時12分

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