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2012年3月18日 (日)

言語改変妄想(その1)“直接存在”がこの世からなくなること

今の言語はおおむね、SVO/SVC型だ。

Pair programming considered extremely beneficial.
ペアプログラミングはとっても有益だ(と思われる、と私は思う)。

単純化すると:
Pair programming is beneficial.
ペアプログラミングは有益である。

ペアプログラミングに対しては否定的な評価もあるので、このような談話は情報として貧弱だ。実際、本文を読んでみると、「二人のうち一人が、車の運転にたとえれば助手席に座る、つまりナビゲーターである場合」について書かれている(原文)。なんだ、助手か。最初からそう言えよ。

そこで私の言語改変妄想第一号は、単純に「ナニナニはカニカニである」のような直接存在を禁ずるのだ。正しい談話はつねに、「コレコレのときナニナニはカニカニである」の形でなければならない。必ず、最広義の<文脈環境>によって存在が修飾されていなければならない。それを今の言語なら、if節やwhen節などで別記するから、修飾が自動的に義務化されることがない。未来の言語においては、SVO/SVCの基本言語要素そのものが、最初から修飾を含んでいる。

「神は偉大なり」ではなくて、未来の言語は「どんな神がどんなときに、なぜどんなふうに偉大なり」でなければならない。人類の脱宗教も、それから始まるだろう。「神」が、それぞれの固有文化に属する個々の人間の、単なる特殊な想念・概念へと相対化されるのだ。直接存在としての神、超越者としての神は、この世、この宇宙から消える。

あらゆる存在が、人間側の文脈によって(これまでは暗黙に)修飾されている。直接存在は、実は、ない。どこにもない。これからは、その「暗黙」が、「つねなる明示」へと変わらなければならない。

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なぜこれまでは、直接存在が、あたかもあるように思われていたのか?。それは、神だろうが何だろうが、共同体の(伝統的な)了解事項だったからだ。だから、いちいち修飾を明示化/意識化する必要がない。そこで、純粋に、直接に、絶対普遍的超越的に、『ナニナニそのもの』があるかのような仮象が心中にできてしまうのだ。しかしこれからの広域コミュニケーションの時代においては、自分が前提している文脈を明示化して、存在を相対化間接化しないと、コミュニケーションは一歩も進まないのだ。で、その代わりに、ある神を心中に抱く者の、ごりおしテロがあったりする…。いまだに人類の多くが、コミュニケーション不能の下等動物であり続ける。
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要するに直接存在とは、人類が無コミュニケーション、禁コミュニケーションの状態において抱く迷妄であり、そんなものはほんとは、もともとない。真にある(…あると思われている)ものとは、その様態(or文脈)において、そのように、あると思われているもの、である。

★そして、本稿で触れようとした最大の問題は、今/今までの言語は、いかにも、直接存在(or純粋存在)がある、と思わせてしまう構造になっていること。だから、改変の妄想が、どうしても必要なのだ。★

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コメント

ペアプログラミングは、気が合えば、かなり面白くて、有益なような気がします。この essay/エッセイ/小論文 の趣旨については、考えさせられましたが、自分の意見を発表するまでには至らず、です。

投稿: alarky | 2012年3月18日 (日) 17時16分

人はなぜ神を信じたのでしょうか?
人は天災など、どうにもならないほどの大きな力を感じた時、それをそんな風に称したのでしょうか?
あるいは自分がいま置かれている状況ほどに不幸な人はいない、と思い至り、助け合える人がいない。だから救ってくれる絶対的な存在を求めたのでしょうか。
これらの場合、神様が必要だったから、神様が産まれたのでしょう。

しかし誰のことばだったか、
「時計は2つ以上ないと、本当に正確かどうかわからない」というのがありました。
つまり他人とその観念を共有することで神を実体化したいという欲求も同時に産まれる事は、理解できます。その方が心強いでしょうから。
しかし、世の中には「今のところ、神様は信じてないよ。」という人も多くいますから、そこにどうしようもないギャップができます。

理由なく、伝統で神を信仰することは、その齟齬を無用に増長させるでしょう。iwataniさんの、(大雑把な言い方ですが)神を細かい条件づけで発動する、というアイデアは、それを回避してくれるかもしれません。

浅い宗教観かもしれませんが、私はそんな風に考えました。

投稿: 長谷川 | 2012年3月19日 (月) 15時00分

こんなに短い文章のなかに巨大なことを書かれているのでうまく消化できません。

いつどこでも通用する発語はあり得ない、あってはいけない。
発語には細心の注意が必要ということ?。

いや、もっと大きなことを述べられている。

投稿: 南 | 2012年3月19日 (月) 17時49分

はじめて書き込ませていただきます。よろしくお願いします。

タイトルの"Pair Programming Considered Extremely Beneficial"は体言止めですか?

センテンスであれば、

Pair programming is considered extremely beneficial.

でないとおかしいと思うのですが。

投稿: ともむら | 2012年3月22日 (木) 05時15分

@ともむら
新聞記事の見出しや雑誌記事のタイトルなどでは、be動詞抜きがよく使われます。

Girl Killed by Her Mother
Hate Mailed to His Classmates
Market Gutted in Huge Fire
Hostage Set to Fly Home

.....いくらでも、ありますね。

投稿: iwatani | 2012年3月22日 (木) 20時05分

返信ありがとうございます。

そのbe動詞抜きのタイトルを、今の言語がSVO/SVC型である例として出すのはおかしくないですか?

投稿: ともむら | 2012年3月22日 (木) 23時23分

@ともむら
>おかしくないですか?
省略文型はつねに、その背後に、正規型が暗黙に前提されているわけですから、べつにおかしくはないでしょう。でなければ、私がここで取り上げる意味もないわけです。

投稿: | 2012年3月23日 (金) 07時16分

ありがとうございました。

「今の言語はおおむね、SVO/SVC型だ」ということがわかる、もっと良い例を教えていただけますか?

投稿: ともむら | 2012年3月23日 (金) 17時14分

ps 「今の言語」というとき、日本語は当然含まれないわけですね?

投稿: ともむら | 2012年3月23日 (金) 17時17分

@南さんへ
iwatani さんがここで言おうとされているのは、
text in context って言う事なのではないでしょうか ?
つまり、テクストはコンテクストなしには意味を持ち得ない、と。
さらに、ここでの推奨を実践すると、
情報量はまし、理論は研かれ、あるいは、
コトバの鎖で絡めることによって、誤解の可能性も減るので
誰が読んでも納得してもらえる率もあがるよ。そうしようよ、
お互いの為に。
ということなのでは、と読みました

共通理解を得られる、というのはコミュニケーションの鍵だから

すべては現象だから、と言ってもいいのかな?言い過ぎかな?

どうですかね、南さん

simomitu

投稿: 下光博之 | 2012年3月24日 (土) 23時16分

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