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2012年3月26日 (月)

年金を廃止せよ

年金(pension)は、かつてイギリスで発明された、今や相当古い制度であり、それが大手をふっている現状は、やや誇張的に言えば、平安時代の貴族社会時代に発案実装された制度が、そのまま現代社会に適用されているに等しい。

すなわち年金制度は、今の社会、今の人間状況には、合わない。合わないものをそのまま温存しているから、いろんな問題も起き、また運用の困難度を増している。社会保険庁を悪者に仕立ててすむような、表層的な問題ではない。

さて、現代〜未来の社会において本当に必要なのは、『社会福祉と社会保障の一元化』である。あらゆる福祉とあらゆる保障を、「所得の適正な再配分」(or所得の部分移転)の名の下に一元化する。要するに、お金持ちは年金なんかなくても安楽な老後を送れるし、逆に貧乏人はその原資(年金積立金)すら払えないから、老いてますます暮らしは苦しくなる。医療保険にも、これと同じ状況がある。医療へのアクセスに関し、保険なんか要らない豊かな人たちもいれば、そもそも保険料(健康保険税など)を払えない==保険の恩恵に与れない貧乏人も、決して少なくない。

この一元化により、社会福祉と社会保障関連の行政コストは激減するはずだ。またそのための税源は、消費税はあくまでも最低限のベースと考え、その上に多様な(実質)奢侈税を設けるべきだ。

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言葉は話者の文脈に属する

xyzという語句を、Aさんはpという含意で発話した。それをBさんは、qという含意で受け取った。そしてBさんは、qという含意に基づいて、Aさんのxyz発話を非難する。

日本のインターネット上では、私なんかよりもずっと若い、ずっとずっと意識がグローバル化されていてもおかしくないと期待される人びとにおいてすら、このBさんのような人物が、ものすごく多い。無規制で氾濫放置されている。

日本人のこの、"コミュニケーション土人状態"は、いったいいつまで続くのか。前稿に登場する"コミュニケーション土人"たちも、「悪意による捏造虚話」という話者の含意文脈に属するテキスト情報を、自分の勝手な含意文脈、すなわち「あいつは本当は影で悪いことをしている男だ」として受け取ってしまう。しかも、そういう自己の情報摂取態度を、疑ってみる能力を欠いている。『自分の言語受け取りは100%普遍的であり100%正しい』と、信じて疑わない。どうしようもない、馬鹿者たち。

自己の言語意味体系を即グローバルに正しい、と思う態度は、一種の独裁指向であり、犯罪的である。真のグローバルは、各自が自己のローカル性を自覚するとともに、またほかの人たち一人々々の、自分のそれとは異なるローカリティを、認め尊重するところからしか育たない。

しかし、原始共同体性のしっぽの重い土人たちは、「日本人全員が(自分の属する)唯一の共同体==意味体系に属している」と信じ、その信念に基づいて、その"唯一の共同体"の規範に違反している--と自分には映る--者を責めるのだ。その人が自分とは全然別の意味体系や価値観体系を抱えていることは、土人たちには想像すらできないのだ。

いっそ、日本語を廃止して、公用語も日常語も英語にしちゃったほうが、将来の日本人の心と脳の健康のために良いかもしれないな。


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Google差し止め命令(東京地裁)は論理的錯誤

このブログでも何度も指摘しているように、日本人の多くは原始共同体性のしっぽが重く、そのため視野狭窄的近視眼的で、脳の論理性が無に近いぐらい希薄だ。それがとりわけ日本人の、コミュニケーション不能やコミュニケーション忌避の体質の基盤ともなっている。

そもそもGoogleの検索はほとんどAI的でもマンティック的でもなく、インターネットという大量のがれきで汚染された川や海の河床や海底のゴミをごっそりかきとる浚渫ブルドーザーのようなものであり、何でも拾うし、多いものは結果的に目立つ。悪質記事も、それがあることや、とっても多くあることが、隠蔽されるべきではないし、むしろあるがままに露呈されるべきである。そもそも日本のネットは、インターネット以前から、悪質な人間と、彼らによる悪質な投稿がきわめて多い。すなわち日本のネットは、相当な初期から、震災後の太平洋のように多量のがれきで汚染されているのだ。そのことはむしろ、隠蔽されるべきではない。

だからGoogleが地裁の差し止め命令を拒否したことは、正しい論理性に即している。

で、建前上の、懲らしめるべき、その行為を停止すべき真犯人は、問題の悪質記事をインターネット上に大量にばらまいた人物である。建前上というのは、ごみの不法投棄は、犬猫の遺棄と同じく、犯人を見つけるのがきわめて困難だからである。

そして、建前上ではなく現実的な「正論」は、「インターネット上のコンテンツ、とくにテキストコンテンツを、そのまま真と信じ込み、その妄信に基づいて、被害者をクビにしたり、採用を拒否したり、その他もろもろの、否定的差別を行った人びとこそ、責めらるべきである」、ということ。インターネットやそのほかの場所で遭遇する言語を、そのまま真と信じてしまうことは、日本人という"コミュニケーション不能原始人・土人ども”に大いにあって不思議ではない愚行蛮行だ。

しかし、というか、だからこそ、司法のような上部機構は、問題の真犯人(嘘を真と信じて差別を行った人びと)を、間違いなく同定する能力を持たなければならない。

どんな言葉も、ひいてはどんな存在も、特定の(particularな)文脈に依存している。コミュニケーション土人たちは文脈を無視して、(実は宇宙のどこにも存在しない)直接存在を掴もうとする、掴んだ気でいる。しかし、グローバルなネットワーキングの時代においては、どの情報も、その背後〜周辺の文脈を知ることなくして、その情報の意味するところを知ったことにはならない。土人たちも、インターネットと接する以上は、脱アホが絶対的に必要である。

今回の問題の真犯人は、書かれていることをそのまま妄信した、一連のアホたちである。そういう、土人的な情報摂取態度を禁じ、罰する法律が必要だ。

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2012年3月18日 (日)

言語改変妄想(その1)“直接存在”がこの世からなくなること

今の言語はおおむね、SVO/SVC型だ。

Pair programming considered extremely beneficial.
ペアプログラミングはとっても有益だ(と思われる、と私は思う)。

単純化すると:
Pair programming is beneficial.
ペアプログラミングは有益である。

ペアプログラミングに対しては否定的な評価もあるので、このような談話は情報として貧弱だ。実際、本文を読んでみると、「二人のうち一人が、車の運転にたとえれば助手席に座る、つまりナビゲーターである場合」について書かれている(原文)。なんだ、助手か。最初からそう言えよ。

そこで私の言語改変妄想第一号は、単純に「ナニナニはカニカニである」のような直接存在を禁ずるのだ。正しい談話はつねに、「コレコレのときナニナニはカニカニである」の形でなければならない。必ず、最広義の<文脈環境>によって存在が修飾されていなければならない。それを今の言語なら、if節やwhen節などで別記するから、修飾が自動的に義務化されることがない。未来の言語においては、SVO/SVCの基本言語要素そのものが、最初から修飾を含んでいる。

「神は偉大なり」ではなくて、未来の言語は「どんな神がどんなときに、なぜどんなふうに偉大なり」でなければならない。人類の脱宗教も、それから始まるだろう。「神」が、それぞれの固有文化に属する個々の人間の、単なる特殊な想念・概念へと相対化されるのだ。直接存在としての神、超越者としての神は、この世、この宇宙から消える。

あらゆる存在が、人間側の文脈によって(これまでは暗黙に)修飾されている。直接存在は、実は、ない。どこにもない。これからは、その「暗黙」が、「つねなる明示」へと変わらなければならない。

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なぜこれまでは、直接存在が、あたかもあるように思われていたのか?。それは、神だろうが何だろうが、共同体の(伝統的な)了解事項だったからだ。だから、いちいち修飾を明示化/意識化する必要がない。そこで、純粋に、直接に、絶対普遍的超越的に、『ナニナニそのもの』があるかのような仮象が心中にできてしまうのだ。しかしこれからの広域コミュニケーションの時代においては、自分が前提している文脈を明示化して、存在を相対化間接化しないと、コミュニケーションは一歩も進まないのだ。で、その代わりに、ある神を心中に抱く者の、ごりおしテロがあったりする…。いまだに人類の多くが、コミュニケーション不能の下等動物であり続ける。
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要するに直接存在とは、人類が無コミュニケーション、禁コミュニケーションの状態において抱く迷妄であり、そんなものはほんとは、もともとない。真にある(…あると思われている)ものとは、その様態(or文脈)において、そのように、あると思われているもの、である。

★そして、本稿で触れようとした最大の問題は、今/今までの言語は、いかにも、直接存在(or純粋存在)がある、と思わせてしまう構造になっていること。だから、改変の妄想が、どうしても必要なのだ。★

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2012年3月11日 (日)

なぜThe Sageがペール・ギュントだったか?

Emerson, Lake and Palmer, Greg Lake, The Sageから、ノルウェーの作曲家グリーグにたどり着き、イプセンの戯曲ペールギュントにたどり着いたが、このペールギュントがくせ者。

表面的には大河ドラマ的ドタバタ喜劇のようだ(初演の上演に4時間を要したという)。筋を(あまりにも)超簡単に言うと、ペール・ギュントというすでに相思相愛の女性(ソルヴェーグ)のいる若者が、親に強いられた結婚をしたくない女友達を救うため、二人で山へ逃げ、彼は花嫁略奪でお尋ね者になってしまう→ヨーロッパ各地を転々するうちに奴隷貿易などで大儲け、しかし最後には没落して老いる→故郷ノルウェーの田舎に帰り長年彼を待っていたソルヴェーグの膝枕で彼女が歌う子守歌を聴きながら死ぬ。

エピソードとその細部の数がやたら多く、転変激しく、それぞれにイプセンの思想的含意があるようで、超難解。イプセン自身、またはイプセン公認の世界最高のイプセン研究家の書いた解説でもなければ、細部的にはなかなか分からない。

だが、中心的なテーマへの言及は、何度も出てくる。この戯曲の中心的テーマとは、「おのれ==自己」である。そしてヒロインのソルヴェーグは、自己というものの真の所在、ありか、を象徴していると思われる。

毛利三彌訳(論創社)より、主人公の最期のせりふの一部を引用しよう(わずかに岩谷が改変):

P「じゃ、言ってくれ、おれの全身、おれの真実、おのれ自身としてのおれは、どこにいたか?」
S「わたしの信仰の中、希望の中、愛の中。」
(中略)
P「ああ、おれを隠してくれ、その中に隠してくれ!」

そして、それまでの、ペール・ギュントの長い、変化の激しい遍歴と、The Sageの冒頭:

I carry the dust of a journey
that cannot be shaken away
It lives deep within me
For I breathe it every day.

は、ぴったり重なるのであった!!

コミュニケーションとは、人が、それぞれpureな自己として、愛の中に戻り隠れること以外の、一体何から生まれ育つと言うのか!!! それしかありえないではないか!!!!

というわけでこの話題は、本ブログの中心テーマとも、ぴったり重なって、めでたしめでたし、でした。

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2012年3月 1日 (木)

“批判的”という言葉

最近は、こんな記事や、その続編であるこのコメントで、批判的に、という言葉を使っている。

しかし、日本語の「批判的」という言葉には、やけにネガティブなイメージがつきまとっているようだ。

しかし、criticallyという言葉には、ネガティブ偏重のイメージや含意はない。肯定もあれば否定もある。要は、ちゃんと対象化し、対象を「他者「として尊重しつつ、広い多様な文脈の中で、自主的に判断・理解しながら接する、ということだ。

ぜひ、この記事(とくに最後の方)を、読んでいただきたい。

たんなる主観へのtaken-for-grantedなべったり癒着、批判的対象化的姿勢のなさは、プログラミング経験(==論理構築の経験)のなさと、関連しているのかもしれない。とりわけ日本人は、プログラミング嫌いが圧倒的多数派だもんな。


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