今の言語はおおむね、SVO/SVC型だ。
Pair programming considered extremely beneficial.
ペアプログラミングはとっても有益だ(と思われる、と私は思う)。
単純化すると:
Pair programming is beneficial.
ペアプログラミングは有益である。
ペアプログラミングに対しては否定的な評価もあるので、このような談話は情報として貧弱だ。実際、本文を読んでみると、「二人のうち一人が、車の運転にたとえれば助手席に座る、つまりナビゲーターである場合」について書かれている(原文)。なんだ、助手か。最初からそう言えよ。
そこで私の言語改変妄想第一号は、単純に「ナニナニはカニカニである」のような直接存在を禁ずるのだ。正しい談話はつねに、「コレコレのときナニナニはカニカニである」の形でなければならない。必ず、最広義の<文脈環境>によって存在が修飾されていなければならない。それを今の言語なら、if節やwhen節などで別記するから、修飾が自動的に義務化されることがない。未来の言語においては、SVO/SVCの基本言語要素そのものが、最初から修飾を含んでいる。
「神は偉大なり」ではなくて、未来の言語は「どんな神がどんなときに、なぜどんなふうに偉大なり」でなければならない。人類の脱宗教も、それから始まるだろう。「神」が、それぞれの固有文化に属する個々の人間の、単なる特殊な想念・概念へと相対化されるのだ。直接存在としての神、超越者としての神は、この世、この宇宙から消える。
あらゆる存在が、人間側の文脈によって(これまでは暗黙に)修飾されている。直接存在は、実は、ない。どこにもない。これからは、その「暗黙」が、「つねなる明示」へと変わらなければならない。
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なぜこれまでは、直接存在が、あたかもあるように思われていたのか?。それは、神だろうが何だろうが、共同体の(伝統的な)了解事項だったからだ。だから、いちいち修飾を明示化/意識化する必要がない。そこで、純粋に、直接に、絶対普遍的超越的に、『ナニナニそのもの』があるかのような仮象が心中にできてしまうのだ。しかしこれからの広域コミュニケーションの時代においては、自分が前提している文脈を明示化して、存在を相対化間接化しないと、コミュニケーションは一歩も進まないのだ。で、その代わりに、ある神を心中に抱く者の、ごりおしテロがあったりする…。いまだに人類の多くが、コミュニケーション不能の下等動物であり続ける。
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要するに直接存在とは、人類が無コミュニケーション、禁コミュニケーションの状態において抱く迷妄であり、そんなものはほんとは、もともとない。真にある(…あると思われている)ものとは、その様態(or文脈)において、そのように、あると思われているもの、である。
★そして、本稿で触れようとした最大の問題は、今/今までの言語は、いかにも、直接存在(or純粋存在)がある、と思わせてしまう構造になっていること。だから、改変の妄想が、どうしても必要なのだ。★
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