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2011年12月 9日 (金)

他者排撃==コミュニケーション不能、の原点

前編、「神はhubrisを罰す」へのsaigonodorei氏からのコメントに、ひらめかされたのですが、他者不感/他者排撃の原点は、<トレード絶対視>と並んで人類(ドアホウな旧人類)の心を普遍的に支配している<死の排撃>、死を忌み嫌うことにあるのではないか。死は、あらゆる生物の、えー、あらゆる生命の、普遍的な属性なのに(だから、愛せよ!)、それを忌み嫌うのはものすごく不自然で無理がある。やはり、あってはならない「欲」、hubrisだ。

だが、それへの罰は、what?

今宵は時間もスタミナもあまりないので、こんな素描だけで失礼。


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コメント

中世時代の、覇者(王)達ににとって、不老不死は、一つの夢だったとか?喫煙(に関する禁止事項等)、健康食品等、今の世の中(日本だけ?)それらが氾濫するのは、そのせい? なんか変だな?と思いつつ自分の事に追われて来てしまったが…?

投稿: s.hodo | 2011年12月 9日 (金) 22時06分

─引用─だれかが前日、鹿川に「あすは遅れて来いよ」と言ったらしい。当日、鹿川の机に色紙や花、夏ミカン、線香を飾った。休み時間に鹿川が来て、色紙を見た。そのあとの授業は美術だったと思う。教室を移動するために、みんながばらばらと教室を出ていき、自分も教室を出る準備をしていたら、鹿川がそばに来て「てめえ、なんだよ。こんなこと書いてんじゃねえか」と言った。笑いながらだったが、涙をぼろぼろ、こぼしていた。ぼくはそのとき、「うるせえ」とか、軽くぽんと、突き放すようなことを言ったと思う。たしか、裁判では、葬式ごっこはいじめと言うより、遊びだった、という一審判決が出たのではなかったか。自分もずっと、そう思っていたが、いまにして思えば、葬式ごっこは、鹿川がみんなにとっての自分の生命の軽さを感じ、自殺の前に踏みとどまる最後の支えであるべき一つを失った伏線だったと思う。(『「葬式ごっこ」―八年後の証言』「O君の告白」の章)─引用─

「毎日のように買い出しに行かされて、授業中にも行かされるようになりました。登下校時に多い時には5、6個もの鞄を持たされたりしていました」。「始業式の後、鹿川君はグループのほぼ全員から暴行を受けました。教室から屋上に通じる階段に連れて行かれ、耳たぶが切れるまで殴る蹴るの暴行を受け、さらに場所を変えて、三年生三人も加わり、さらにひどく殴っています」。

鹿川君に加えられていた暴力は情け容赦のないもので、今だと中学2年生といえども傷害罪で検挙でしょう。鹿川にとり、クラスで唯一、そこはかとない信頼を置き、ベランメエ調の強がった口調で話しかけることのできる相手であったO君。彼までが、葬式ごっこに署名していた。これは、教師三名の署名よりも鹿川君にとってキツかったようです。「ムラのルールを守らないと、鹿川みたいになるぞ!」。「死への恐怖」は、共同体の権力装置ではないでしょうか。

投稿: saigonodorei | 2011年12月10日 (土) 19時02分

@saigonodorei
なるほど、死の否定(不浄視、不吉視)は、共同体の暗黙のフィクション==個・自己を抑圧抑止するため、であるという説は、理解できますね。

逆に、自覚した個・自己は、生(もちろん死もそこに含む)を、ゆったり抱擁し、愛せます。それが自然であり、自然は愛だから。Death is Life. ---Emerson, Lake and Palmer

投稿: iwatani | 2011年12月10日 (土) 21時11分

他者を別物視したいという欲があります。

他者を視野の外に置いて安心したいのでしょう。

罰はその人の死の際に訪れるでしょう。
「死にたくない!」
というセリフとなって。

そんなこと(死ぬこと)生まれた時から決まっていたのに。

投稿: みなみ | 2011年12月13日 (火) 10時26分

 hubris
 傲慢、ですね、

 他者なんかなくても自分は在る、という傲慢。他者が居なければ自分は無いということに気付かない、気付こうとしない傲慢。

 そのくせ、他者が居ない孤独に身をよじって苦しむ。それ自体が傲慢。

 Death is Life.
 どうしてそんなことが言えるのか。
 他者が居るから。
 私という者が在るのは、私に先立って他者(あなた)が居るから。

 この真理に気付けない。謙虚さを致命的に欠く。これが傲慢。

 だから神はそれを許さない。神こそが、根源的な他者だから。

 

投稿: 市川智 | 2011年12月13日 (火) 12時08分

故福岡正信氏は、この世には何も無いじゃないかといってましたね。Death is Life

投稿: bad | 2011年12月13日 (火) 12時37分

僕は喫煙者なのですが、職場には煙草を持っていきません
現場に入るとそんな暇ないし、休憩時間は事務仕事片付けたいし
外の喫煙所は落ち着けないし、今の季節は寒いし

自室に帰って、お茶なりコーヒーなりで一服点けると
時にはホワーとしたり、時には重力を感じてズッシリしたり
そんなこんなが心地よかったり、します

先日、夜勤明けに戻ってから、どっかり椅子に腰かけて
やおら一服点けたところで、かけていた鉄瓶がシュウシュウいいだし
火を弱めようと、立ちかけたところで
よろっ
危うく転びかけたのでありました。

その一瞬、と言っても一秒も無い間に思ったのは、
あれっ、意図してない動き、今してるぞ、
何だ?
でも何だかオモシロイぞ。
でした。

次の瞬間には体が反応して踏みとどまれたのですが、
後で思ったのは、岩谷さんの書かれていた失神体験に近いのでは。
これも他者。自分も他者の体験です

死ぬる時も楽しみにする
何か、僕も出来そうな気がしました。

勿論、精一杯生きた先に、ですけど

報告まで

simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年12月16日 (金) 21時54分

一審判決の「ごっこ 遊び」って何?裁判所って 滅びゆく旧共同体の、front line? それは例えば、「凹型の憲兵隊」みたいな…。ヤバイなァ-、 ドうnaルのniっぽn .

投稿: m.hodo | 2011年12月30日 (金) 02時07分

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