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2011年12月15日 (木)

メディアを人間のものに、社会のものに

広告業界に多少なりとも縁のある方にお願いしたい。広告出稿量の多い企業(飲食品、化粧品、医薬品などなど)は、すべての広告を、公共広告を兼ねたものにしてほしい。とくに当面重要なのは、「いじめ自殺」と「児童虐待」の防止だ。

それは基本的に、中小の広告代理店が電通などから客を奪うための、良い企画ネタではないだろうか。青年〜壮年期の元気な人は、そういう代理店を自分で立ち上げてもよい。

未来はいじめられっ子にある、こんなメッセージも、このようなマイナーなブログ上では、かんじんの、伝わるべき人たちに伝わらない。

メディアの長期的無能と、無能の上のcomplacencyは、カダフィやアサドなみの、破壊すべき悪だ。破壊のきっかけを、広告サイドから作ってほしい。インターネットという、メディアの民主化がまだ成熟していない現状では、従来型のマスメディアの機能も無視できない。

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コメント

いつもこのブログの読者数が少ないとお嘆きですが、HPのタイトルをもっとベタなものにしたら増えるんじゃないでしょうか?。

今のタイトルはカッコいいですが何のHPか分からないでしょう。

投稿: ミナミ | 2011年12月15日 (木) 09時41分

グッドアイデアだな
もしも私がその立場なら、いいこと教えてもらった、と
読者が少ないなら尚更、
メモして動き出すのになあ
惜しい、勿体ない

先行者になれるのに

simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年12月16日 (金) 22時04分

まだ初まったばかり。

投稿: s.hodo | 2011年12月23日 (金) 19時38分

in the begining, there was rhythm.

投稿: m.hodo(2nd) | 2011年12月23日 (金) 21時03分

新しい仕事とかってこうゆう風に始まっていくんだろうな。当たり前のことかもしれないけど。しかし自分もそんな立場ではない。

投稿: m.hodo(3rd) | 2011年12月26日 (月) 04時33分

ワルガキにランドセルを奪い取られても、それを取り返そうとしない
というのはなんか分かりますね-。
諦めということは、否定よりも、可能性があるのではないか。
諦めの中の距離感というんですかね。
今の子供たちは、この距離感が、つかめないのだそうです。
媒体(メディア)と身体との距離感が無いというのですね。
岩谷さんの文章などは、距離そのものを扱っていたように思いますね。

投稿: saigonodorei | 2011年12月29日 (木) 22時45分

saigonodoreiさんのコメントを読んで
「諦めの中の距離感」って、何だか物悲しくやるせないナ。 駆け引きの中の距離感じゃダメなのかな?

投稿: m.hodo | 2011年12月30日 (金) 01時26分

続き、only love can break you heart そんなくだらねえ事に関わりたくねえ

投稿: m.hodo | 2011年12月30日 (金) 01時42分

@saigonodorei
> 諦めということは、
禅のテキストで「諦めは明らめである」という説を読んだ記憶があります。

私のランドセル放棄は、諦めというより、無関心、関わる意義が認められないものには関わりたくない、というローカルな放下だと思います。

でも、いじめ自殺を防ぐためには、その子の心を強くするための、まわりからの工夫が必要ですね。こんな考えの普及、とか。

投稿: iwatani | 2011年12月30日 (金) 19時47分

制服というのはすごい発明だ。心のギプスのようだ。そういやAKBも制服着てたな・・・私は彼女らが電通のエージェントの様に見える。映画マトリックスに出てくるような。みんな同じ。同じ格好。
GDPをあげるコマのような働き手がたくさん欲しいから、早いうちから個性を摘み取るのでしょうね。そんな政治だから、少子化の今でも今だに35人学級なのだろう。
個性がないから、価値観が平坦で、小さい国土に、世界最大規模の広告代理店や匿名掲示板がのびのび育ってしまう。

投稿: 長谷川 | 2012年1月 8日 (日) 19時12分

nprやrollingstoneなどの年間ベストを聞いていたら、日本で流れている音楽のバリーエションのなさとの落差に日本人として深く失望してしまったのです。

投稿: 長谷川 | 2012年1月 8日 (日) 19時38分

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