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2011年12月30日 (金)

Liberation from Money

そう、貨幣は、人間を不必要に矮小にし、卑(いや)しくし、破壊的にする。そう言う意味で貨幣は、伸びようとする子どもの頭を押さえつけて成長を不能にしている大きくて重い巨人の手のようであり、人間の家の、明るい暖かい日射しが射し込もうとする窓をひたすら蔽(おお)っている悪魔鳥の巨大な黒い翼のようだ。多くの場合貨幣は、人の良き本性に、その発露に、蓋をしている。

しかし、人間がうっかり採用し、うっかりグローバルに普及浸透させてしまった貨幣システムを、それと同等、あるいはそれよりも密な、コミュニケーションシステムで置換していく作業は、たいへんな過程でもある。大中小の諸集団から個人に至るまで、コミュニケーションに基づく協力的生き方が全地球を被(おお)い、全地球に浸透しなければならない。余談: 国、国家と呼ばれる集団は、大と中の中間ぐらいかな。

生産と分配のために、貨幣システムは要らない、むしろそれは邪魔である、と実証したのはLinuxオペレーティングシステムの生成過程だが、それに似たもっと小さくてローカルな(無名の)例は、世界各地にけっこうあるはずだ。それらのドキュメンティングも、必要な準備過程の一環だろう。

Liberation from Money、貨幣からの解放は、そこから、ヒトという種の全体的なre-birth(再生、生まれ変わること)が、人類全体の“全的ルネサンス”が、はじまる重要な契機だ。ヒトという種の、それまでの悪性な破壊性が止(や)み、自然に生かされる生き方/死に方に変わるだろう。そしてこれまでの、貨幣を得るための不毛な努力に代わって、ものすごく多段な、大中小さまざまなレベルでのコミュニケーション努力が、ヒトの一生を退屈のひまなく駆動するはずだ。忙しいという点では、今と違って、全員がすごく忙しくなる。勉強すべきことも増える。…だがそれらの"たいへんさ"すべての中に、貨幣時代のような心と頭脳の卑小さはもはやない。

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コメント

はい。
その通りです。
re-birth ですね。そしてやることは、作り直すことですね。
もはや修理では対応できないのですから。
勉強して、変化させていこう、自分を。

今年も、色々考えさせてくれて、ありがとう!
先ずは、よいお歳を、ワンちゃん、ニャンちゃん達含め
お迎えください。

来年もヨロシクお願いします

simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年12月31日 (土) 18時18分

貨幣制度を維持・持続させている思想の根元の一つは「楽したい」です。

その思想に対抗する思想は「楽だけど良いことない」でしょうか?。

なかなか根深いです。

投稿: みなみ | 2012年1月 4日 (水) 15時15分

楽する事は幸福とイコールではないと価値観の置換が行われなければ。

投稿: みなみ2 | 2012年1月 5日 (木) 09時40分

『沈黙交易』とは、主に古代において、直接の接触を忌み嫌う部族(= 共同体)と部族(= 共同体)が物々交換を行う際、各々が特定の場所に交互に交換財(= 商品)を置いて、それぞれが相手方の品物を取ったら、ささっと逃げて行き、両者がその品物に満足した場合にのみ、交換が成就〜成立すると言うトレード(Trade)形式の一つである。その交換財の中には、追々、貨幣になり得る物もあった事から、この『沈黙交易』は、貨幣が人間のディスコミュニケーション(Discommunication)の産物である事を代弁している行為であると言える。

貨幣は、人間が抱いてしまう、あり得もしない”等価”と言う妄信・迷信・妄執を担う’観念の産物’でもあるから、実は何でも貨幣になり得る。「贈与は時間を与える。」と言われるが、より正確には、「贈与は返礼迄の時間を与える。」である。例えば、バレンタイン・デーに、ある男性に対してチョコレートAを上げた女性は、贈与としてのチョコレートAの他に、返礼の為の時間も同時に与える。『贈与の一撃』を受けた男性は、一ヶ月と言う時間の猶予を経たホワイト・デーに、女性から受け取ったチョコレートA相当の、言い換えれば、チョコレートAと”等価”と思しき、チョコレートBを返礼せざるを得ないのが、一般的な慣例である。従って、この場合、チョコレートBは、貨幣の一種と化してしまうのである。

「贈与は時間を与える。」は、〜 Give & Take 〜、即ち「贈与はある時間を経て交換に帰結される。」とも換言出来る。但し、交換が無事正常に終了するには、女性が’一方的に’結果として、その返礼に対して満足する必要がある。即ち、男性から返礼されたチョコレートBが、女性にとって’一方的に’、チョコレートAと”等価”として映らなければならない。

贈与は、バレンタイン・デーとホワイト・デーだけの話に限らず、日本だったら中元や歳暮等々で、慣習的にも日常茶飯事的にも極々普通に至る所で執り行われているが、拒否せずに受け取ってしまったからには、一種のしきたりとして、ある時間軸に沿って返礼をしなくてはならない。これは、人間本来の性(さが=Nature)に起因しており、古今東西において変わりない。しかも、実はこれは、明らかに’一方的な’行為で、『贈与の一撃』を受けた者が圧倒的に不利な状態になる事から、双方向的に成立するコミュニケーションとは言い難い故、ディスコミュニケーションの一形態に他ならない。しかも、”等価観念”としての貨幣を、正に実体として、知らず知らずの内に創出してしまっているディスコミュニケーションの一環である。

贈与〜交換は、人間が生存する上で絶対的に必要不可欠な営為ではあるが、コミュニケーションではなく、ディスコミュニケーションの産物、即ち貨幣を誘発〜生成してしまうと言う点で、注意と慎重さが鋭意必要であったのだが、人間はこの過誤・誤謬に適切に気付かなかったし、仮に気付いていたとしても、性悪説的に知らないふりをしたか、または無視した事から、不本意にも貨幣は温存されてしまったのだろう。自然発生的〜必然的にディスコミュニケーションと化してしまうこの営為を、真の双方向コミュニケーションに変えて行く為には、然るべき寛容とStoic性をベースに、無意識的に発生し得る”等価観念”、即ち”貨幣観念”を、常に意識的にウルトラC的に打破して行くしか手は無いのであろうか…?


補遺 1:『沈黙交易』は、実は未だに改善されていない。例えば、スーパーやコンビニで商品を購入する際、貴方は、店員の顔をまざまざと見ているか…? また、店員は、貴方の顔をまざまざと見ているか…? 正直な所、何処か後ろめたい事から、両者共お互いの顔はまざまざとは見ないだろう。従って、貨幣を置いて商品を掴んだら、すたこらさっさと逃げて来てはいないか…? これぞ、悲しいかな、『沈黙交易』の再演である。

補遺 2:カール・マルクスは、その「労働価値説」において、人間を人間ではなく、恰も貨幣価値を製造するマシンであるかの様に捉えている。人間は、言う迄も無く、機械的に貨幣価値を製造するロボットでは断じてないが、多くの経済学においても言える事は、人間を人間としてしっかり捉えていない事である。言い換えれば、彼等の観え方としては、人間の像が人間の像としてちゃんと観えていないピンボケ状態のまま映っているかの様である。これでは、人間の学であるべき経済学が、人間の学とは言えないので、適切で懸命な脱構築が必要であろう。

補遺 3:貨幣は、人類のディスコミュニケーションの産物の一つであるにも関わらず、殆どの貨幣論者は、貨幣を人類にとっての障害とか、無反省の痕跡とか、攻撃すべき対象として全く捉えていない。従って、多くの貨幣論が、全然為にならない詰まらない物に終始している。従って、こちらも同様に、経済学の一部としての的確な脱構築が必須であろう。

投稿: Voyant | 2012年11月26日 (月) 12時35分

おつかれさまでした。只今山形から帰ってまいりまし
た。大きなことを書いて出発しましたが、イマイチ道
具をうまく揃えられなくて、最高のパフォーマンスと
は言えませんでした。それでも、来店してくれた方に
は感謝しております。ありがとうございました。

そこで考えたこと。売り手が最高の自信持って販売し
ているときは、売る方も喜びになっていると言うこ
と。それは買ってくれる方が喜んでくれているのを、
実感させてもらえるから。(これが催事販売のたのし
さである。)こうした、「売る方も喜び。買う方も喜
び。」というのが本質的な経済活動ではないだろか。
そこに貨幣という卑小な、媒介物が
はいってくるが故に、それが成就しないと言えるので
はないだろうか。貨幣経済は、常に利益を生む、残さ
なければいけないという律があるために、ロス・
コストアップという物を避けてしまう。そこに品質に関
する問題が生じる。そうじゃなく、貨幣という存在が無く
コミュニケーションだけで成り立つ社会なら、利益とい
う足かせが外せることにより上記の、「送り手も、受
け手も平等に喜ぶ。」という社会活動が成立するんじゃ
ないかと思えた。

もう一つ。しかし、ところで、人がある物を同時に
いっきに求めた時に生じるバランスの悪さ。そこが読
めない。今は貨幣というストッパーがあるために、需
給のバランスが取れているというか。もしそれが無く
なれば、どんな均衡状態になるのか。私の場合やはり
「リソースの配分問題は非常にテクニカルな問題であ
り、それこそがコミュニケーションの本質問題であ
る。」の見とうせ無さに帰結するのである。

まとめ。やはり、人間が貨幣によって縛られ汲々とし
ているのは惨めである。人間がカネによって、支配さ
れ、奴隷になっているのはイヤである。なんで人間の
作り出したものに人間が支配されなければならない。
カネは、あるにしても、その人なりにその人が使いこ
なせる乗り物であってほしい。貨幣なんざ、克服すべ
きものである。そのために、考えてみたい。

投稿: Ohiya | 2014年5月 7日 (水) 08時12分

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