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2011年12月30日 (金)

Liberation from Money

そう、貨幣は、人間を不必要に矮小にし、卑(いや)しくし、破壊的にする。そう言う意味で貨幣は、伸びようとする子どもの頭を押さえつけて成長を不能にしている大きくて重い巨人の手のようであり、人間の家の、明るい暖かい日射しが射し込もうとする窓をひたすら蔽(おお)っている悪魔鳥の巨大な黒い翼のようだ。多くの場合貨幣は、人の良き本性に、その発露に、蓋をしている。

しかし、人間がうっかり採用し、うっかりグローバルに普及浸透させてしまった貨幣システムを、それと同等、あるいはそれよりも密な、コミュニケーションシステムで置換していく作業は、たいへんな過程でもある。大中小の諸集団から個人に至るまで、コミュニケーションに基づく協力的生き方が全地球を被(おお)い、全地球に浸透しなければならない。余談: 国、国家と呼ばれる集団は、大と中の中間ぐらいかな。

生産と分配のために、貨幣システムは要らない、むしろそれは邪魔である、と実証したのはLinuxオペレーティングシステムの生成過程だが、それに似たもっと小さくてローカルな(無名の)例は、世界各地にけっこうあるはずだ。それらのドキュメンティングも、必要な準備過程の一環だろう。

Liberation from Money、貨幣からの解放は、そこから、ヒトという種の全体的なre-birth(再生、生まれ変わること)が、人類全体の“全的ルネサンス”が、はじまる重要な契機だ。ヒトという種の、それまでの悪性な破壊性が止(や)み、自然に生かされる生き方/死に方に変わるだろう。そしてこれまでの、貨幣を得るための不毛な努力に代わって、ものすごく多段な、大中小さまざまなレベルでのコミュニケーション努力が、ヒトの一生を退屈のひまなく駆動するはずだ。忙しいという点では、今と違って、全員がすごく忙しくなる。勉強すべきことも増える。…だがそれらの"たいへんさ"すべての中に、貨幣時代のような心と頭脳の卑小さはもはやない。

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2011年12月26日 (月)

乾いた音

(故)田中希代子さんのドビュッシーとか、(現代の新進)水藤晶さんのラヴェルなどには、私の聴覚が、「日本人離れのした本物性」というやつを、敏感に、すごく鮮やかに感じてしまうのだが、では、「日本人離れのした本物性」という、それ自体すでに陳腐な形容句を、説明しろと言われると、音やフレージングがクリヤーで、"乾いている"、といったこれまた陳腐の二乗のような形容句しか出てこなくて、われながらなさけない。

要するに、音がびちょっとしてたり、リズムがもっさりしてるのは、旧来の日本的なピアノ演奏(等)なのだ。コミュニケーション学に一足飛びしてしまうと、日本人お得の没論理性、AとBはまったく違うものなのに、話の中で勝手に無意識に同じジャンルとして扱ったり、等々々々の恣意性がなく、音を音として、音楽を音楽として、クリアな独立の存在として認識&表現しているか、ということ。とくにピアノは、垂直に打鍵するという、日本にないタイプの楽器だけに、旧来の、"横流れ"(==他己なしの自己塗りつぶし)の大好きな日本人には、本格的に弾くことが難しい楽器だったと思える。

ドビュッシーもラヴェルも、西洋クラシック音楽の最後期を代表する音に属し、論理的に言うと、20世紀半ば以降は、西洋クラシック音楽の作曲家というものは存在しない。アフロアメリカンの米国市民権獲得とともに、音楽はオフビート+ブルーノートが次第に勝利していく。その最後期に、西洋の伝統音程に対する革命(?)を志向した二人のうち、とくにラヴェルが、そのやがて来る"敗戦"を予感しているようだ。しかしそれでも、西洋クラシック音楽が持つ論理性は、ロック音楽の重要な柱の一つでもある。そこで、音的にも完全に、日本人離れした本物的な、日本人ロックミュージシャンていたっけ?。どうでもいいことだけど。

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2011年12月15日 (木)

メディアを人間のものに、社会のものに

広告業界に多少なりとも縁のある方にお願いしたい。広告出稿量の多い企業(飲食品、化粧品、医薬品などなど)は、すべての広告を、公共広告を兼ねたものにしてほしい。とくに当面重要なのは、「いじめ自殺」と「児童虐待」の防止だ。

それは基本的に、中小の広告代理店が電通などから客を奪うための、良い企画ネタではないだろうか。青年〜壮年期の元気な人は、そういう代理店を自分で立ち上げてもよい。

未来はいじめられっ子にある、こんなメッセージも、このようなマイナーなブログ上では、かんじんの、伝わるべき人たちに伝わらない。

メディアの長期的無能と、無能の上のcomplacencyは、カダフィやアサドなみの、破壊すべき悪だ。破壊のきっかけを、広告サイドから作ってほしい。インターネットという、メディアの民主化がまだ成熟していない現状では、従来型のマスメディアの機能も無視できない。

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2011年12月11日 (日)

名詩引用

これは「名曲」であるだけでなく「名詩」だ(そしてもちろん「名演」だ)。
単純に、知らなかった人や世代のために、ここに引用しておこう。
関心を持った人は、Googleなどで容易に演奏を発見できるだろう。

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I carry the dust of a journey
that cannot be shaken away
It lives deep within me
For I breathe it every day.

You and I are yesterday's ashes
The earth of the past come to flesh,
Eroded by Time's rivers
To the shapes we now possess.

Come share of my breath and my substance,
and mingle our stream and our times.
In bright, infinite moments,
Our reasons are lost in our rhymes.

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でも、あのころのあの人たちって、「きれいだ」とつくづく思う。

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2011年12月 9日 (金)

他者排撃==コミュニケーション不能、の原点

前編、「神はhubrisを罰す」へのsaigonodorei氏からのコメントに、ひらめかされたのですが、他者不感/他者排撃の原点は、<トレード絶対視>と並んで人類(ドアホウな旧人類)の心を普遍的に支配している<死の排撃>、死を忌み嫌うことにあるのではないか。死は、あらゆる生物の、えー、あらゆる生命の、普遍的な属性なのに(だから、愛せよ!)、それを忌み嫌うのはものすごく不自然で無理がある。やはり、あってはならない「欲」、hubrisだ。

だが、それへの罰は、what?

今宵は時間もスタミナもあまりないので、こんな素描だけで失礼。


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2011年12月 5日 (月)

神はhubrisを罰す

この際、「神」という言葉を便宜的に使わせていただくけど、これは私が感じている歴史法則の一つなんだ。歴史に残るような、大きな、ネガティブな社会現象には、だいたいこれが言えるんじゃないかな。そういうhubrisの主要原料は、「オトコの光景」+「トレード妄執」+「他者不感」、これらが作り出す大きな空隙(うまっているべきなのにうまっていない)に、いつか、大きな悲惨な陥没が起きる。

要するにこれまでの人類は、あんまし賢くない。万物の霊長なんて自称も、hubrisでしょう、歴然と。

この文は、具体的に書いてるといくらでも長くなるが、やめておく。

真のコミュニケーション学/コミュニケーション理論を追究するこの--おそらくまだ世界で唯一の--ブログや、その前身などが、今よりも3桁も4桁も多い読者数になってくれば、世の中に変化の「へ」の字ぐらい、感じられる雰囲気があるだろうか。

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