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2011年11月29日 (火)

劣悪さが変わっていないJava日本語ドキュメンテーション

Stringクラスのtrim()メソッドの振る舞いを確認したいことがあり、久々にJava APIのドキュメンテーションを読んだ。

英語:
Returns: A copy of this string with leading and trailing white space removed, or this string if it has no leading or trailing white space.

日本語:
戻り値: この文字列の先頭と最後の空白を削除したコピー、またはこの文字列 (先頭と最後に空白が存在しない場合).

私は過去に3回ぐらい、今はなきSun(日本法人)に、Javaのドキュメンテーションの日本語化を私にやらせろ、現状はあまりにひどい、と申し出たことがある。相手は、無意欲・無理想・無能力のクソサラリーマンだから、彼らは私に門前払いを食わせるだけだ。無能なクソサラリーマンの会社だったから、Oracleなんかに買収されて、Javaの母国Sunは宇宙の彼方へ蒸散してしまった。

とにかく、この訳もひどいし、読者に危険な誤解を与える。leading≠先頭、trailing≠最後だ。
TABTABTABdanceSPSPSPSP
という文字列があったら、「先頭」は最初のTAB、「最後」は最後のSPだ。
これに対し、
「leading」はdanceの前のすべてのTABTABTAB(タブ文字3つ)、「trailing」はdanceの後ろのすべてのSPSPSPSP(スペース4つ)だ。

ここで正しい日本語訳を示してもよいが、あらためてSun(日本法人)の愚昧なクソサラリーマンどものことがアタマに来ているので、やる気を失った。ほとんどの人が無能なクソサラリーマンになることを目指して無意味な競争に励み、一生、明朗で良質なコミュニケーションを忌避する日本は、いよいよこれから、文化的にも経済的にも沈没していくのみなり。そして能力のある人は、グローバルに活躍するだろう。

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遺伝子組み換え作物は全自然をモルモット化する

これについては、人間の健康はおろか、他の生物や、生態系、環境に対する長期的影響は検証されていない。唯一の検証方法は、これからの長い実時間の中で全対象をモルモット化するしかない。そういう、おそろしすぎることは、最初から全面的にやめたほうが良い。

従来種のウィルスによる全滅なんて、長年大規模な(しかも農薬・化学肥料に依存する)モノカルチャーをやってるからであり、本来の自然の複雑な多様性の中では、過去何百年も発生しなかったもの。根本原因を改めずに、遺伝子組み換え種に全面依存するなんて、愚かさの極みなりけり。

言い換えると、遺伝子組み換え作物なんて要らないし、そういうものを必要とする農業をこそ、全面的に廃止すべきである。

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2011年11月14日 (月)

トレードは社会の基盤たり得ない

前回の記事にリンクのある、いくつかの記事や本の趣旨を、うんと単純化して、極端化して図式化すると、次のようになる:

これまで人間の仕事であった仕事がすべてロボット化(コンピュータ化/狭義のロボット化/オンライン化)すると、失業率は100%となり、ロボット化して効率的に(!?)生産される製品やサービスの市場が存在しなくなる(人間がほぼ全員無収入だから、お客がいない)。

また、トレードの常態は、差異(==貨幣の本質)を動因とするfluctuationなので、伸縮しながら進む虫に「縮まずに進め!」と言えないように、人為により完全態を維持することはできない。言い換えると、トレードの完全態を社会の理想状態とし、失業を悪--あってはならないもの--とする見方は、不毛な錯誤である。トレードはfluctuationなので、ほぼつねに不完全であり、したがって、ときにより多かったり少なかったりする失業者も、トレードの常態の一環である。

また貨幣の価値の本質である差異が存続するためには、極富から極貧までの階層を必要とする。トレードによらず、コミュニケーションによって成り立つグローバル社会は、すくなくとも、現代の世界各地にある超劣悪なスラムや飢餓地帯をなくすだろう。

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2011年11月13日 (日)

人類の墓穴?「トレード」

今のようにトレードが絶対普遍視されてしまって、多くの人を苦しめているのは、トレードの相対視を支える共同体が空無になっているからだが、でもそれにもかかわらず、トレード自体はあくまでも相対的なものである。大々的にうまく行ってることもあれば、しょぼんと不活なときもある。どっちも、トレードの状態としては正常態である。

錯誤であるところのトレード絶対視の中で、多くの人のトレード財といえば自己の労働力である。しかしこれも、トレード財であるからには、大量によく売れているときもあれば、細々としか売れてないときもある。どっちの状態も、トレードというものの正常態である。

トレードの相対性が、人類の常識にならないとヤバイのである。何度も何度も書いてきたが、政府に代表されるような社会のメタ機関は、トレードが細々としているときの、売れてない労働力に対し、自立促進とかいって売れることを強制してはならない。個人の努力で、現状の市場の情勢をなんとかできるものではない。売れないときは売れないのだ。売れてることも常態、またそれと同格に、売れてないことも常態である。

労働力が売れてないことを、うしろめたい、恥ずかしい、人間としての資格がない、なさけない、等々とネガティブに思う必要は、こんりんざいない。上に書いたように、売れてないことも立派に常態である。

1930年代〜1950年代は、機械がブルーカラー労働を置換し、人間の主な労働を営業や事務などのホワイトカラー労働に移行させた、という。そして今では、多様なコンピュータ化が、ホワイトカラー労働を置換して、失業者を増やしている。そういう現況を論ずるこの記事この記事などはしかし、相変わらずトレード絶対主義にとらわれていてしかも、次の時代の労働者人間の姿は描いていない。

今の状況を15年以上前に予言していたこの本(原題: The End of Work, 労働の終わり)は、市場に要らないといわれた労働力は、地域社会(等)のニーズを支えるボランティア活動家になるべし、と言っている。そしてトレード社会が続く間は、必要悪的な擬似トレードとして彼らを住民が直接あるいは間接(==税など)に金銭的に支える。

むむむむ。動物愛護活動なんかは、アメリカなどでは典型的に、地域の理解がデフォルトで得られている、典型的な地域ボランティア活動なんだけどなぁ。20年近くやってんのに、いまだに、地域の理解協力体制なんてゼロでっせ、私の住む日本の某イナカ県では。警察や市役所や保健所に匿名でクレームしたやつは、何人かいるが。

まあなにしろ、トレードが人類の墓穴とならぬよう、トレード観を抜本的に改める(==絶対視を相対視に改める)好機に、歴史は今、さしかかっているようである。メタ機関から率先して、それをやっていただきたい。


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2011年11月 9日 (水)

環境は交換財か

※この文は、特定の場所の特定の森林等について書くものではなく、非常に広汎な(そしてもちろん真剣な)一般論の、一例示である。

アマゾン流域の大森林なんて、地球の「肺」みたいなもんでしょ。それを、国家(など特定主体)の所有物、任意可処分物として位置づける今の人類の"常識"は、やばいよね。そう位置づけた場合、その森林は、その特定主体にとって、木材という交換財の宝の山だ。

今の国連等国際機関は非力だけど、遅きに失しないうちに、もっと強力になるべきだね。

・以前、農業のまねごとのようなことを数年やったとき、いちばん強く痛感したのは「農業を貨幣経済(トレード経済)というシステムの一環に組み込むのは無理!」ということだ。

・日本(など)では、山村には、村民(など)が山や川を守ることに対して、受益者(主に都市住民)がその代価、というか、お礼を支払うべきだ。「観光地化」なんて、そんなに普遍的に成功するものでもないし、成功したとしても、地域にとってマイナス要因も大きい。

自然と環境について真剣に考える(nature friendly technology)ところから、これまでの人類を強力に支配した、トレード至上主義の退位/降位が始まるだろう。だってそれを、交換財として位置づけるのは、やばいんだから。

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2011年11月 7日 (月)

ジェネリックなコンピュータ,ジェネリックなネットワーク

Facebookがどうとか、Twitterがこうとか、その手の話に本心では関心を持てないのは、ネットワークというものは、使う人のニーズや欲求に基づいて、使う人が、その使い方を構成すべきだ、と考えるからだ。どっか特定の大企業が、その大サーバ群を使って、特定の商品(ブランド)名を持つ特定のサービス内容として、やるべきものではない。要するに、送信と受信と対話に関わる、基本的なジェネリックなアプリケーションビルディングブロックがいくつかあって、ネットワークのユーザは、必要に応じ、それらを組み合わせて通信を行えばよい。それをサポートするものとして、強力な汎用サーバ提供サービスはあってもいいが(それも、使い方はユーザが決める)。

今、車を運転する人は(しない人も)、ジェネリックな自動車知識を持っている。特定メーカーの特定車種のことしか知らない、それしか運転できない、それしか眼中にない、という人はいない。コンピュータもネットワークも、いずれ、万人がジェネリックな知識を持ち、ジェネリックに(==好きなように)使いこなせるようになるべきだ。Jobs解毒(補遺2)として書くべきかもしれないが、Apple製品のマーケティング的大成功は、ジェネリック化の逆の、コンピュータイリテラシ(計算機文盲)を大量に現状固定した、という犯罪的結果でもある。Stallmanが怒(いか)るのも当然。例: iPadではなく、タブレット型のパーソナルコンピュータ、というジェネリックな概念が大衆レベルで普及すべきですよ、いずれ。

そして、そういう、最高級レベルのコンピュータプログラミング/ネットワークプログラミングは、個人がドライブ旅行の計画を独自に立て、必要な諸配備をすることと、似たようなものになるはずだ。参考書どおりにやる人がいても、それはそれでかまわない。


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動物保護活動の遷移(補遺1)--自己は他者である

毎朝4時起きなので、夜は9時すぎ、遅くとも10時には寝るようにしているが、昨夜(11/6)はくたびれてしまって、8時半に寝てしまった。翌朝、昨日は最後にやるべきことを、なんと!4つも忘れたことに気がついた。

(1)外のデッキにある犬用水容器(2つ)を取り込んで洗っておく。
(2)同じくデッキにある電池式蚊取り器の電源をoffにしておく。
(3)口腔を手術して間もない猫(「ココ」ちゃん)の食事(朝食)用にカリカリをふやかしておく。
(4)自分が寝る直前におしっこ間隔の短い老犬「モーリ」+若い雄犬「マーク」を外に連れ出してその日最後のおしっこをさせる。

いずれも、それほどcriticalなことではなく、(3)は三時半ごろ寝床の中で気づいて(思い出して)、がばと起きて対処、(4)は暖かい夜だったので二頭ともお漏らしはしなかった。

世話する動物の数が多いと、いつも、「次にやるべきこと(作業課題)」が5〜7つはある、という日常の中で、1つ2つ忘れることは多い。忘れない、忘れる、思い出す、思い出さない、…いずれも自己にはコントロールできない。この「私」という生き物は、私自身にとって、どーしょーもない「他者」である。おいおい、きみ、もうちょっと良質な脳を持てないのかよ!。と言ったって、だめなものはだめなのだ。前にも書いたけど、失神(突如の完全な意識喪失)の経験から言えるのは、死もまた、制御不能な完全な他者としてやってくるのだ。そう、別の言い方をすると、「私」もまたこの複雑巨大な謎である「大自然」の一部であり、たかが私ごときに、制御できるものではない。×神は愛である ○自然は愛である。…私が、それを愛するから。


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日本人の心にとって「他者」はいない(補遺1)--言語相対性理論の原典

本タイトルの本編にも、またその冒頭にリンクのある先駆稿(+その参照稿)にも、なぜか言及がなくて不思議だが、私の「言語相対性理論」の原典と言える本が、今世紀に入って再刊されていることを発見したので、ここでみなさまにもお知らせしておこう。この本である。

読むヒマのない人のために、某ブログの記事から、同書のかんじんのポイントに言及している箇所を、引用しておこう:

<quote>
伊佐千尋の『逆転』は米軍占領下の沖縄での陪審員裁判を描いたノンフィクションですが、そこでの重要なモチーフは方言で「コロセ」と言ったのが、「殺せ」の意味だと取られたために刑が重くなりそうになるということでした。 

「コロセ」は実際は「やっつけろ」ぐらいの意味です。
</quote>

同書は、日本人陪審員の奮闘により、最後には言語相対性理論が勝利する、というストーリーですが、でも、そのことの無理解に基づく大小の悲劇は、今でもあちこちで起きていることでしょう。


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2011年11月 6日 (日)

動物保護活動の遷移

常時30個体近くの犬たち猫たちをかかえていると、季節の変わり目、とくに今のような晩秋初冬は作業がとても多い。メモ日記の整理転写(パソコンファイル化)もその一つだが、それをやっていると、近年と10年前ぐらいまでの顕著な違いをあらためて実感する。つまり近年は、里親さんへの譲渡が激減し、高齢化などに伴う高額医療費が激増している。

肺がんで死亡した「コロン」や、かろうじて重度尿毒症で死ななかった「お兄(オニイ)」、腸捻転で高価な手術代金を払った犬の「マーク」などは、いずれも、もっと広々のびのびした環境であれば、ずっと健康だったかもしれない。きょうだい猫を成猫になっても一つのケージに入れておくと、性格の弱いほうにストレスがたまることが多く、また子犬時代の小さめの小屋(バリケン)を成犬になっても使っていると、姿勢に無理が生じ、腸捻転などになりやすいと思われる。これらのケースは、いずれも若い猫・犬なので、高齢化とは無関係、世話をする人間側の無能が疾病の原因だ。

良質な環境の提供をはじめ、動物個体の健康を十分維持できる保護活動は、人とお金の問題に帰結するが、聞くところのアメリカの地域社会などと違って、日本の田舎の住宅地では人もお金もままならない。極限の少人数と、極限の低収入で、無理が続いているのである(金銭のカンパは皆無ではないが年間の総額は10万円程度だろう。一桁足りない)。

また日本は一般的に、子猫子犬には"需要"がややあるが(しかしそんなに多くはなく)、大きくなった成猫成犬は'売れ'ずにどんどんたまってしまう。それが、無理を増幅する。そろそろ、なんとかしなくてはならないが、はたして、どうしたらいいのか? 名案はない。


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