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2011年11月 7日 (月)

動物保護活動の遷移(補遺1)--自己は他者である

毎朝4時起きなので、夜は9時すぎ、遅くとも10時には寝るようにしているが、昨夜(11/6)はくたびれてしまって、8時半に寝てしまった。翌朝、昨日は最後にやるべきことを、なんと!4つも忘れたことに気がついた。

(1)外のデッキにある犬用水容器(2つ)を取り込んで洗っておく。
(2)同じくデッキにある電池式蚊取り器の電源をoffにしておく。
(3)口腔を手術して間もない猫(「ココ」ちゃん)の食事(朝食)用にカリカリをふやかしておく。
(4)自分が寝る直前におしっこ間隔の短い老犬「モーリ」+若い雄犬「マーク」を外に連れ出してその日最後のおしっこをさせる。

いずれも、それほどcriticalなことではなく、(3)は三時半ごろ寝床の中で気づいて(思い出して)、がばと起きて対処、(4)は暖かい夜だったので二頭ともお漏らしはしなかった。

世話する動物の数が多いと、いつも、「次にやるべきこと(作業課題)」が5〜7つはある、という日常の中で、1つ2つ忘れることは多い。忘れない、忘れる、思い出す、思い出さない、…いずれも自己にはコントロールできない。この「私」という生き物は、私自身にとって、どーしょーもない「他者」である。おいおい、きみ、もうちょっと良質な脳を持てないのかよ!。と言ったって、だめなものはだめなのだ。前にも書いたけど、失神(突如の完全な意識喪失)の経験から言えるのは、死もまた、制御不能な完全な他者としてやってくるのだ。そう、別の言い方をすると、「私」もまたこの複雑巨大な謎である「大自然」の一部であり、たかが私ごときに、制御できるものではない。×神は愛である ○自然は愛である。…私が、それを愛するから。


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コメント

人生そのものが他者なのでしょう。

「私の」人生だなんておこがましい。

投稿: みなみ | 2011年11月 7日 (月) 14時53分

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