« アストラッド・ジルベルト | トップページ | コミュニケーション不能と知学の一般形姿 »

2011年9月26日 (月)

貨幣の稀少性と差異

世界中の人類のほとんどが、超金持ちから超貧民までほぼ全員が、まだ認識も自覚もしていない重要事は、トレードのvehicleである汎用的な交換財(貨幣)が、稀少財であることだ。

今の貨幣以前の、いわゆる(さまざまな)実物貨幣は、誰が見ても自明に稀少財である。稀少財だからこそ、交換財として機能する。その地の稀少財である"塩"でなく、誰もが持っている(==非稀少財)空気を瓶に詰めて持参しても、誰も食べ物と交換してくれない。(ちなみに塩は、サラリーという語の起源だ…塩の現物給与だった。)

すなわち、貨幣の持つ価値は、その稀少性、言い換えると、持ってることと持ってないこととの峻険な差異、ないし落差、にある。貨幣が貨幣であるためには、社会の底辺…'底辺'は適切な言葉ではないが…に、相当数の貧乏人を必要とする。貨幣社会は、無数の小ピラミッドの重なりからなる、大ピラミッドである。

では、今のような純粋貨幣の、貨幣としての稀少性は、どのようにして作られ、維持されているのか?
なぜ今日の汎用抽象貨幣は、某地の塩のように、ただし全社会的に、稀少財でありうるのか?

貨幣を稀少財化する動因は、差異のピラミッドのなるべく上にいたいという、である。その欲がなく、保有が…実質意識において…(ほぼ)平等なら、それは空気であり、貨幣として存立しない。

というわけで貨幣社会…貨幣がまともに信じられ肯定されている社会…は、万人の万人よる万人に対する戦いの、戦場である。世界のほぼ全員が、まだ、このことを自覚していない。

だから、コミュニケーションが、メジャーな問題意識として、まだ普及しない。自覚されない。
人類は依然として、コミュニケーション不能の下等動物のままである。

|

« アストラッド・ジルベルト | トップページ | コミュニケーション不能と知学の一般形姿 »

コメント

コピーライターの仲畑貴志氏が神経症に罹った時
「お金は何にも助けてくれない」
と骨身に滲みたそうです。

そんなヘビーな体験をせずに済んでいる人々も何らかのかたちで絶望できれば良いです。

投稿: 南 | 2011年9月27日 (火) 10時26分

希少性は物神化に由来し、物神化はコミュニケーションの停滞・怠惰・膠着に由来する。
喚起すべきはコミュニケーションへの「欲」だと思われる。
「落差」があってもコミュニケーションは可能なのだ。

投稿: 市川智 | 2011年9月27日 (火) 12時31分

”等価”とは何か…?

簡単に言うと…、その物の「”価値”や”価格”が同じ」ことであり、所謂、A=Bのことであろう。論理学では、「AならばB」と「BならばA」が同時に成立する場合、AとBは、”等価”だそうである。言い換えれば、A、Bどちらか一方が真であれば、他方も真、また、どちらか一方が偽であれば、他方も偽という関係が成立する場合、AとBは、”等価”であると定義される。

命題をその論拠の礎とする従来の論理学は兎も角、上記冒頭の「“価値”や”価格”が同じ」というところが、意味深で怪しくも微妙、しかも論理的にも超不自然・超不明瞭な点であるが、A、Bが何であろうと、物品・商品の交換としての”物々交換”は、両者合意の下であれば、”等価交換”という形で、現在でも世界随所で日常茶飯事滞り無く行われている。例えば、不動産絡みで、Aを土地、またBを建物に見立てた場合の”等価交換”等々は、未だに巷で良く取り交わされ、良く聞かれる話でもあるし…。

”物々交換”における当事者間の合意(Agreement)は、あくまでも両者にとってトレード(Trade)を成立させる為の単なるトリガ(Trigger)であって、言うまでもなく、AとBが”価値”として”等価”であることの論理的な証明の一切を体現している訳ではない。そもそも、異なる物品・商品、即ち、異なる”価値”を持つA、Bが、真に”等価”である理由や事由、またその様態・形態・有様・根拠・機微に関して、如何なる英知明晰、また優れた知性を結集〜駆使しても、論理的に説明することなど到底不可能である。従って、”等価交換”は、交換当事者らが、その都度その都度トレードの際に、極々一瞬”等価”であると勝手に過信・妄信しているだけであって、始めから断固あり得ないのである:

※ ”等価交換”は、初めから存在しないし、また、自ずから存在し得ない!

”物々交換”における困難・不便を、暫定的かつ一時的に払拭〜解消する為に、人類は”貨幣”という代物を創出し、これまでの長い歴史の間、無反省にも無惨にも今日迄、知らず知らずのうちに温存してしまった。”貨幣”は、物品AとBの間、及び交換当事者間に介在し、A、B双方を恰も”等価”であるかの様に装い見せ掛ける為の”擬態”、即ちある種の”Fiction”である。言い換えれば、”貨幣”は、交換当事者らに対して、元来絶対的にあり得ない”等価交換”を、正にそれが成就〜成立したかの様な錯視・錯覚を与え、そう仕向ける様にする為の一種の”虚構”である。A=$xxx=B、また、A=¥xxx=B、という様な感じで…。

しかしながら、”擬態”はあくまでも”擬態”、”虚構”はあくまでも”虚構”、往々にして襤褸が出てしまうのが常である。一例として、国際基軸通貨$(ドル)と¥(円)の関係がある。御存知の様に、1ドル当たりの円の”価格”は、為替市場、また諸々の経済動向、並びに経済情勢によって簡単に左右され、刻一刻と変化し、恣意通り安定することは先ずあり得ない。即ち、1ドル=100円の時もあれば、その倍の200円の時も実際にあり得る(し、事実あった)。現在のところ、この為替レートを、一過性的に無理強いに安定させる為には、苦肉の策として、国家が介入することによって帳尻を合わせ、その都度綱渡り的に急場を凌ぐしか方法は無い。これは、”貨幣”が、各国家(または、EU等の国家群)の下で維持・管理・運営されている限り、異なる”貨幣”同士の”等価交換”が、実質的に不可能であるという、いみじくも忌々しい一面を如実に物語っているものである。最悪の場合、全く同一の商品は不本意にも、$ベースと¥ベースで”価格”が大幅にしかも非常識的に食い違ってしまい、国家間でのトレードは無理不能という、非常事態が勃発してしまう可能性も出てくる。普段であれば、”等価交換”を担うべき”貨幣”であるが、一歩国家を踏み出してしまうと、その”擬態”という性分・正体があからさまに露見・露呈され、言わば、”裸の王様”と化してしまうのである:

※ ”貨幣”という”擬態”に騙されるな!

我々人類は、”交換”という、恐らく人類にとって最も必要不可欠な営為において、自ら発明・発案した”貨幣”という”擬態”、言い換えれば、人類の無反省かつ無神経の痕跡によって、日々無意識的に騙されている訳であるから、これは正に、幼稚余りある茶番劇と言っても過言ではあるまい。しかも、この人類による騙し騙され合う、Discommunicationたる茶番は、日本の場合、官銭である和同開珎以降を例に取ると、彼此少なくとも千数百年以上もの間、旧態依然として延々と同様に繰り返されているのであるから、全く呆れ返る惨憺たる光景である。”安く買って、高く売る”という、ある意味”温度差”、または”差異”を基幹かつモットーとする”貨幣”経済、延いては資本主義経済は、当然ながら、カネのあるところ無いところ、富めるところ貧しいところを、その原動力・起動力無くして存立し得ない、甚だ可笑しな矛盾を内包していることに、各人がもっと自然に、もっと柔軟に、もっと厳密に気付くべきである。

「何よりも先ずは、カネ、カネ、カネ…!」と、万人が常日頃良く口にするだけあって、悲惨なことにも”貨幣”は、人間の”欲望”の”象徴”かつ”唯一絶対”たる対象となってしまった。反面、悲しいかな、”貨幣”無くして、これまでの人類の繁栄・興隆、また昨今著しい科学技術の進歩も発展もあり得なかったとは思うが、そのおどろおどろしい歴史の中で、肝心要である当の人間はどうなってしまったか…? 本末転倒的に日夜”貨幣”に使われ、 益々退化・硬直し、のっぺらぼう化し、矮小人間となってしまっていないか…? 貴方が日々行う、貴重で掛け替えの無い"労働"も、単なる"一等価価値"として、"貨幣"によって簡単・単純に計量される程、ぞんざいで軽薄なものであって果たして良いのか…?

さて、貴方はどう思う?

投稿: Voyant | 2011年10月14日 (金) 07時16分

@Voyant
> 反面、悲しいかな、”貨幣”無くして、これまでの人類の繁栄・興隆、また昨今著しい科学技術の進歩も発展もあり得なかったとは思うが、
貨幣は普遍的稀少財として、差異であり格差なので、繁栄興隆は同時に、ひどい悲惨も招来しています。たとえば、過去何世紀も慢性の飢餓などなかった地域における、貨幣的貧困がもたらす、すさまじい飢餓、など。

なお、等価交換はトレード妄執者たちの思いこみなので、$1==\84も、$1==\76も(等々々々も)、すべて等価交換です。

貨幣の本質が差異であることは、もっといろんな人が、もっとうまく、啓蒙する必要がありますね。

投稿: iwatani | 2011年10月16日 (日) 13時32分

111016補遺:

1)飢餓やその原因である貧困がなくなることは、単純化して言うと貨幣アクセスの平等化であり、アクセスが平等になった貨幣は空気と同じ非稀少財だから、貨幣としての力を失う。

2)上をさらに一般化すると:

 経済 ≦ (経済が作り出している)外部不経済

言葉を変えると:

 利益・利潤 ≦ (利益・利潤の源泉である)外部不利益

ここも単純化図式化して言うと、自然破壊(〜〜健康破壊)のような外部不経済を完全に修復すると、経済の大きさはゼロ、もしくはマイナスになる。(から、彼らは外部不経済を温存放置する。)

というわけでトレード(==貨幣経済)至上主義にとらわれている人類社会は、滅びに至る道の上にいる。

問題は、脱貨幣、脱トレード(==コミュニケーション有能社会)への進化が、間に合うタイミングで起きるのか?だ。

投稿: iwatani | 2011年10月16日 (日) 18時12分

@Voyant さま
@iwatani さま

僕も、お金が一番大切とは思っていません。とはいえ、名案がある
訳でもありません。うまく言えるようになりたいとはおもいます

思い付くままならな、健康とか生命とか、贈与とか

身近なことなら、引っ越し契約に必要だった
保証人を引き受けてくれる友情とか
一方できっちりお金を納めることも必要でしたけれど・・・

今は、まだ途中なんだと思うしかないのかな。

引き続き勉強していきます。
参考になったので、感謝の表明です

Simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年10月17日 (月) 19時10分

zなんで我々の生活が、経済によって追い詰め
られなくてはならんのか。気に食わん。

投稿: Ohiya | 2014年4月 9日 (水) 23時55分

また逆戻しになるけど、、、、
@iwatani
貨幣社会は、万人の万人による万人に対する戦いの、
戦場である。

最高の名言だと思う。自分は行楽時に、イベントでの
販売協力員としてよくかり出されるのだが、隣同士の
販売ブースとの関係性にイヤになることが多い。好景気
ならいいが、今の少子高齢社会や増税時期では皆さん、
財布の紐が固くてなかなか売れない。昔のように、子
供がたくさんいた時代はものもよく売れ、貨幣の循環
も良かっただろうが、今はダメである。
この虚しさ、徒労感から抜け出したい。なぜ、全人口
の何%だか知らないがそんな超高級富裕者のために、
あとの全人類が汲々とした事態にならなければなら
ないのか。しかし、精神的な不健康さはいずれも同等
である。この状況を打破したい。抜け出したい。

金融経済、ロスチャイルドのクソッタレ。


投稿: Ohiya | 2014年4月28日 (月) 01時51分

1.(貨幣)経済成長=(世界規模での)格差拡大。滅亡への道。経済成長しなくても良い社会。

2.カネ(貨幣)が無ければ生きていけない社会(残酷な社会)なんだから、そりゃカネが何より大事だわな。カネのためには、他者も蹴落とすだろう。
だけど今こそチャンス・分かれ目だと思う。貨幣によって追い詰められ、それでも愚かに貨幣にしがみつくか、それとも貨幣という存在・媒介に大きな?マークを投げつけることができるのか。各自の、他に知らしめるための努力を願いたい。

投稿: Ohiya | 2014年6月 8日 (日) 03時23分

「ベィシックなコミュニケーション能力」
今日は休みなので一杯書いてみたい。
俺はこの三連休、まためざみの里へ催事にいったのである。天気がかんばしくなかったけど。そこでやっぱり、上の上のような気まずい状況になったのである。なったというか、俺が感じやすい・感じすぎてるだけかもしれないが。
どうもそこでの催事では、蒸し牡蠣が一番に売れているのである。土地柄なんだと思うのだが、他のお店の中でも一番だと思われる。それを担当しているのは俺です。そうなると、どうにも隣(別店舗)にも気を使ってしまうのである。お客との会話は楽しいのだが、隣(同じ魚系)とは一切目を合わせられない。なんだか申し訳ないのである。多分寂しそうにしているか、こっちを恨んでいるのではないかと気にしてしまう。
今回はうちの会長が先導して、販売したのである。会長は言った。「なんだかよー、となりの奥さんに話しかけたら、なんかすっごい目で睨むんだよなー。」そこでどうしたかは知らないが、だけどいつの間にかその店の主人と、上手いこと座って話し込んでいるのである。なにか他のところのものを買って手土産にして入っていったのか、上手いこと話込んでいる。「さすがだなー。」と思ってしまった。
会長はそれこそ波乱の人生を送ってきた人であり、でもだからこそ下の者にも敬語で話すような人である。かつ、まわりの店の商品をよく買って俺らにお土産にくれるような人である。(今、すごい人だと再認識してしまった。)グダグダと理屈をこねるよりも前に、そうやって敵意(?)のある中に入っていける度量は、スゴクすごい(俺にはできない)と思ってしまった。

だけどである、どこかが儲かるとどこかで損失が出るのである。貨幣経済なら当然に。今のようにパイがだんだん縮小してしまう社会の中では、売り上げ戦争・敵意はなんだか厳しくなってしまうのである。NO,NO! Money is no more.

投稿: ohiya | 2014年11月 4日 (火) 07時41分

[変更]
「べィシックなコミュニケーション能力」→
「体験による豊穣なコミュニケーション能力」

投稿: ohiya | 2014年11月 4日 (火) 08時04分

昨日の夜に会社の新年会があった。会長の生きがいであるような、盛大なものである。とっても盛大である。それはとても良いことなのである。その中で、社長のスピーチの中に上のコメントに書いた会長のコミュニケーション能力の謎に触れる部分があった。「我が社の基本理念は近江商人の理念である。」と。
近江商人とはググってもらうとして、その理念とは「三方よし。つまり、売り手よし、買い手よし、社会よし。」というのである。つまり商売とは、この三方を生かすこと、成就させることである。商人は自分の利益だけを追求しては、絶対にならない。「三方を成功させることを旨とせよ。」というのである。そこで思い出したのが、上のコメントに書いた会長のとなりの主人と上手いこと話している態度であった。「俺にはできない。」と思うことを会長がなぜ出来たのかは、氏は「社会」を見ていたからである。全体像を見ていたからである。

これ以上言うことはないと思うが、その視野の広さ度量の大きさは、大いに敬服すべきである。氏が恐れずに相手のふところに入れるのも、私欲よりもその志の高さゆえである。そう、コミュニケーションを支える動機付けとは、「共に良くなっていきたい」、という根本的な願いから発せられるものしか本物とは言えないんじゃないか、と強く思ってしまった。

もう一つ。上の「三方よし」であるが、これは「ひとつ」である。「ひとつ」である。「ひとつ」である。つまり、「一体」である、ということである。この三つは関連している、リンクしている。どれか一方でも、成就しなければ完成しない。三方ともお互いの「よし」を目指して行動していかなければ、この理念は達成できない。つまり「三方不可分」「全ては一つ」(おおぉ、思い出したぞ。「One is All, All Is One.」)
だから、欲のかき合い、傷つけ合い、殺し合い、競争し合いは意味がありません。結局自分を傷つけることになるのだから。「こんなバカなこと、損なことはありませんよ。」と、全人類に早く気づいて欲しいと、強く思念するものである。

投稿: ohiya | 2015年1月18日 (日) 08時15分

「三方よし」の考えは英語で言う、win-winの上を行くwin-win-winである。それも3項目めに重点を置く理念である。2項目めまでしか考えられないなら、まだまだ狭量な理念でしかない。是非、社会・世界・自然・自己の考え方、まで進透(しんとう)して欲しいものである。

投稿: ohiya | 2015年1月18日 (日) 15時14分

またチョット付け足し。上の理念を完成するには、お互いに自分側の利益を、ギリギリにまで追求してはいけない。ある程度、緩衝地帯、クッション、のりしろを持って控えなければいけないね。当然。ある程度の不自由さは、コストと思って受け入れなくてはね。

そう、やっぱりあの「ありのーままで~」は野放図な醜い歌じゃないのか。真のコミュニケーションとは抑制じゃないのか。
バランス(中庸)が大事なり。

投稿: ohiya | 2015年1月21日 (水) 00時53分

しかしohiya氏はvitalで、こっちも勉強せんとだめやなあと、思いますよ。

投稿: bad | 2015年1月21日 (水) 23時55分

いや~、単なるネット依存症です。(ヤバイよヤバイよーby出川)
それよりも笑って行動することを、勧めます。一人笑顔は人生変えるかもよ。

投稿: ohiya | 2015年1月22日 (木) 05時25分

上のwin-winだが、これはもっと罪の思い理念だと思ってしまった。つまり二者の利益の重い(ダブルの)ツケを、第三者の社会にモロにかぶせてしまうのだから。こんな、自分らに都合の良く、はた迷惑な考え方・行為はあってはならない。もし、win-winなんて言うアホがいたら、・・・!!

投稿: ohiya | 2015年1月25日 (日) 06時01分

しかし、なんで「勝つーかつ」なんだ。いいかげんにしろよな、オトコたちよ。

投稿: ohiya( | 2015年1月25日 (日) 07時47分

今年の催事では上に書いた、隣でやっていた地元の魚系のグループはついに来なかった。あ~ぁである。貨幣経済は焼肉定食、ではなく弱肉強食である。売れない奴らは別のところへ行くしかない。ここら辺、砂漠の中、草を求めて移動していく象に近いものを感じる。逆にオレにとっては、この地はエルドラルド=黄金の地といったところか。
無貨幣経済を考える。すると、こういう現象は起こらない。別に売れ(?)なくても堂々と店を構えていれば良い。なんら恥じることも、苦しくなることもない。その結果を良しとしてよしである。逆に忙しいこちらの販売に、手伝いに来てくれるだろう。
当然、自分らも牡蠣の売れないところで販売することもあるのである。そうなれば当然、売れているよその店の手伝いをしに行くのである。そして売れなかった牡蠣は、他のお店の人に分けて帰ってくるのである。なんの問題もない。
だけど、売買という行為=儲けるという行為抜きにして、こんなイベントというものは成立するのだろうか。人が生きるか死ぬかのためではなく、人と楽しむためにこんな過酷な労働をするのだろうか。どうも私にはその点、自信がないなぁ。イベントを小さくすれば=労働を少なくすれば、出店や催し物が少なくなりこんなに盛大に人は集まってこないだろう。で、無貨幣経済というのは、なんだか規模の小さなショボイ経済になる可能性は、とても大きいのではないだろうか、なと。

投稿: ohiya | 2015年5月 8日 (金) 01時50分

モノを欲するという欲は、そのモノが希少=足りない・貴重だから欲するのだろうか。無貨幣になれば、交換価値や等価価値というものは消滅する。しかし希少性だけは、そのモノの絶対量の問題で、有るモノには、どうしても付いてくる。ふんふん。
また、無貨幣になれば日常品はふんだんに手に入ることになり、そんなもの必要以上に欲しがらなくてもよくなる。
どうなんだろう、無貨幣状態の人間の欲のバランスは難しいニャー。だけど、売れない→カネが手に入らない→買えない→生きていけない→“死”という社会だけはバカゲテいる。恐怖が支配するから、人がオカシクナル、狂ってしまう。

投稿: ohiya | 2015年5月 8日 (金) 02時28分

[変更]
売れない・雇用がない→カネが手に入らない→

投稿: ohiya | 2015年5月 8日 (金) 06時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/140652/52838385

この記事へのトラックバック一覧です: 貨幣の稀少性と差異:

« アストラッド・ジルベルト | トップページ | コミュニケーション不能と知学の一般形姿 »