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2011年8月29日 (月)

ポスト民主主義

前回の「コミュニケーション教育!?!」(+「共和主義」へのリンク)の関連稿です。

独裁国家(一党独裁、一親族独裁、etc.)より、民主主義国家のほうが良いに決まっているけど、民主主義は社会原理の「最終形」ではないと思うんだ。

民主はいいけど、ではその「民」は一体、どんな「民」(たみ)なのか?

明示的共有的自覚的定義は、残念ながらまだないと思うが、implicitでdefaultの定義はある。日本などで、民主主義社会を構成する「民」の定義は、「自由な消費者」、選択の自由、好き嫌いで振る舞える自由を持ち、その自由を侵されない消費者個人だ。またその自由は、これまた暗黙かつデフォルトに、(ほとんどの場合)「トレードへの参加と成功」によってのみ、支えられる。トレードといっても、これまたほとんどの人が持つ交換財は、(健康な状態の)「自己の労働力」、それだけだ。それが売れてないと、自由な消費者のステータスもない。

『トレードの成功によって成立する自由な消費者』、「民」の暗黙デフォルトの定義がこれであるところに、日本をはじめいわゆる先進民主社会の、問題、あるいは病理の、唯一最大の原因があるのではないか?

抑圧よりは、リベラリズムがいいに決まっている。しかしそのリベラリズムの「自由」(liberty)は、何をする自由なのか。買い物(選挙の投票も買い物の一種だ)で、好きなものを買い、嫌いなものは買わない自由、それだけか? しかもその背後には実は、「トレード強迫」という地獄がある。

これでいいのか?

こんな、読者数の少ないブログだけだなく、あちこちで、この、「ポスト民主主義」「ポスト・リベラリズム」が徐々に大きく取り上げられていくために、各自の立場で工夫努力をしていただきたいと思う。虐待死する子どもたちの魂は、われわれに、それを迫っているのだ。

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コメント

"こんな、読者数の少ないブログだけだなく、あちこちで、この、「ポスト民主主義」「ポスト・リベラリズム」が徐々に大きく取り上げられていくために、各自の立場で工夫努力をしていただきたいと思う。虐待死する子どもたちの魂は、われわれに、それを迫っているのだ。"

私事ですが、今までの選挙、自民党の候補、民主党の候補にも投票しませんでしたが、何も変わっていないことを歯がゆく思っていました。

何かしなきゃ、と思っても仕事で疲れて帰ってきて、風呂に入って酒飲んで寝る、てな日々を繰り返していると、いったい自分って何?の問いが...

ブログ読んでいますょ。

引用したこの言葉には、ハンマーで頭を叩かれた思いがしました。

自分に何ができるか問うてみます。

投稿: くぼ ただよし | 2011年8月29日 (月) 23時06分

誰かの思想が顕現するというような形で発生したわけではない、この「民主主義」。

なんとなく流れでこうなってしまいました。

だから誰にでも綻びを見つけることは可能。

社会を意識的に設計してもいいんだ、というのがマルクスの唯一のおしえ。

「これでいいのか?」いいわけない、いいわけない、いいわけない。

投稿: みなみ | 2011年8月30日 (火) 08時53分

何てゆうか、その、突進する(?)「民主主義」「リベラリズム」というのも、一つの「収容所」みたいだ。

投稿: s.hodo | 2011年8月30日 (火) 20時42分

面白い文書に目がとまったので、報告します
既にご存知ならば、フォローをお願いします願ね

今、集団としての好みを表す記号として >* を用いましょう
〔条件Ⅰ 推移律〕導かれる集団の選好>*は推移律を満たす
〔条件Ⅱ 正反応〕候補p とqに対して、いまp>*qであるとせよ。
この時、市民たちの好みが変化して、どの市民kの
好みにおいてもpの好みの順位が相対的に
上がった場合、集団の好みは相変わらずp >*q
を満たす。
〔条件Ⅲ 独立性〕候補p、qについて、集団の選好がp>*qであるか
q>*pであるかは、市民たちのpとqに関する好み
だけから決まり、他の候補rへの好みとは無関係で
ある。
〔条件Ⅳ 市民主権〕どんな候補pとqについても、市民の好みの
組み合わせによって、p>*qも導かれるし、
q >*pも導かれる。
〔条件Ⅴ 非独裁〕集団の選好>*が、ただ一人の市民kの選好>k と
いつも一致していてはいけない。
これは、アローという人が規定した「民主主義的な社会選択」
五つの条件です。アローは、この上で、次のスゴイ定理を証明して
しまいました。それは、
【アローの一般可能性定理】
個人の選好から集団の選好を決定する方式(関数)で、決定された
集団の選好がこの5条件を満たすような方法(関数)は存在しない

アローは、民主主義的な選択というのはどうやったって不可能だ、
そういうとんでもない定理を数学的に証明してしまった、のです。

以上、
「文系のための数学教室」/小島寛之(こじま ひろゆき)
/講談社現代新書
からでした。
小島氏によると、アローの研究の価値は、
民主主義の是非に対する直接の結論にあるのではなく、
そのようなクールな議論の方法を切り開いたことにある、
というもの。

私は、ここで、岩谷さんたちとポスト民主主義を模索したいな
と思った次第。

報告おわり。
にしても、岩谷さんもアローもスゴイ!

Simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年9月20日 (火) 01時40分

くぼ ただよし 様へ

今日、訪れたのは、くぼさんへのコメント内容が書けそう
だったからです。それは、

いきなり解決案を書こうとしなくてもイイ、ということ。
それよりも、そういった、ここでは、ポスト民主主義という
お題、になるのですけれど、
未だ誰も回答しえていない難問なのですから、
問題意識を持ちながら生活をイキイキ続ける方が大切です
と伝えたかった。

理由は、もし思考、試行、をやめてしまったら、
そこで志す人が一人、居なくなってしまうからです。
今日、何もできなくても良い。でも、
忘れないで

もっとよくなるベクトルには志向していよう

メディアの使い方、これでイイ?

Simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年10月14日 (金) 22時43分

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