内的他者と外的他者
日本の総人口の99%は、下意識を旧共同体性の慣行に支配されているイナカモンだと思うが、このところ15年あまり、某田舎県田舎市に住んで感じるのは、イナカモンにとって他者は自分の中にある、他者は内的他者である、言い換えると他者が自分の外にいる自分とは異なるくっきりとした(distinctな)外的他者として、認識中に確立していないことだ。
言い換えると、日本のイナカモンにとって、他者はつねに、自分にとってavailable(可利用)であると認識されている。いろいろ具体例を挙げるとヤバイ可能性もあるので、いちばん一般的(common)で分かりやすい例を:
イナカのヒトは、ひとの家に「いきなり」来る。たとえば都市部の営業マンにとって、いきなりの飛び込みセールスは、効率が悪すぎるのでタブーである。cold callをしまくって、その商品に「関心がありそうで」かつ「訪問日時のアポイントの取れた」ところを訪ねるのが基本パターンだ。cold callとよばれる電話は、レンジに水を張った鍋を乗せたが、まだ火を着けていない状態--コミュニケーションがcoldな状態だからcold callと呼ばれる。
ところが、イナカの営業マンは、例外なく、そのときの相手の状況や都合におかまいなく、「いきなり」来るのである。
イナカモンにとって、『他者とは、いつでも自分の話を聞いてくれるために存在している物』、すなわち、つねにavailableな物である。
私は、日本の電力技術関係者全員が、『海(などの大自然)という他者は、自分にとってavailableなもの==自分にとって都合良く振る舞ってくれるもの』と信じていたイナカモンたちである、と感ずる。ご先祖が石碑まで立てて、子孫たちに対し禁じたにもかかわらず、平気で低地に家を建ててしまった連中もまた…。
彼等にとって自然は、くっきりとした(discreteでdistinctな)外的他者ではなかった、自己の下意識的慣行中にある、なれ合いの他者==どうにでもなる、自分の好きなようになる(available)他者==内的他者であった、と思えてならない。
歴史神は、人間のhubris、他者に対する傲岸なうかつさ、を罰する。[参考URL]
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コメント
つまり、それは「他者みたいなもの」ということですか?。
他者が「想定外」なのは当たり前ですよね。
と言ったら冷たすぎるかな。
投稿: みなみ | 2011年8月 9日 (火) 17時06分
@みなみ
そう!
本当の(外的)他者に対して、「想定外」は、すっげぇ失礼な--思い上がった--言葉だよね。
投稿: iwatani | 2011年8月 9日 (火) 19時41分
結局、間違いは、問題に対して、答えの正解を用意してしまったと言う事ですよね。正解を考える事も、大事だけど、問題を、自分で、立てられるか? の方が、大事なのにね。
投稿: 恐怖の創刊4人組の1/4さん | 2011年8月13日 (土) 20時40分
大事なことだから、よく踏まえておかないと、とおもいます。
特に、日本人は。
私は、泉谷閑示さんの云うように、
「未知なる存在」として相手を捉えること、これが相手を「他者」として
見ることだ、に賛成です。
言い換えると、相手のことを決して
「きっと自分と同じようなことを感じたり、考えたりしている人間に
違いない」とは考えない、ということ。
岩谷さんの指摘も、その通り、と思うので、
私自身も気を付けなければ、と思いました。
Simomitu
投稿: 下光博之 | 2011年8月15日 (月) 07時57分