ポスト民主主義
前回の「コミュニケーション教育!?!」(+「共和主義」へのリンク)の関連稿です。
独裁国家(一党独裁、一親族独裁、etc.)より、民主主義国家のほうが良いに決まっているけど、民主主義は社会原理の「最終形」ではないと思うんだ。
民主はいいけど、ではその「民」は一体、どんな「民」(たみ)なのか?
明示的共有的自覚的定義は、残念ながらまだないと思うが、implicitでdefaultの定義はある。日本などで、民主主義社会を構成する「民」の定義は、「自由な消費者」、選択の自由、好き嫌いで振る舞える自由を持ち、その自由を侵されない消費者個人だ。またその自由は、これまた暗黙かつデフォルトに、(ほとんどの場合)「トレードへの参加と成功」によってのみ、支えられる。トレードといっても、これまたほとんどの人が持つ交換財は、(健康な状態の)「自己の労働力」、それだけだ。それが売れてないと、自由な消費者のステータスもない。
『トレードの成功によって成立する自由な消費者』、「民」の暗黙デフォルトの定義がこれであるところに、日本をはじめいわゆる先進民主社会の、問題、あるいは病理の、唯一最大の原因があるのではないか?
抑圧よりは、リベラリズムがいいに決まっている。しかしそのリベラリズムの「自由」(liberty)は、何をする自由なのか。買い物(選挙の投票も買い物の一種だ)で、好きなものを買い、嫌いなものは買わない自由、それだけか? しかもその背後には実は、「トレード強迫」という地獄がある。
これでいいのか?
こんな、読者数の少ないブログだけだなく、あちこちで、この、「ポスト民主主義」「ポスト・リベラリズム」が徐々に大きく取り上げられていくために、各自の立場で工夫努力をしていただきたいと思う。虐待死する子どもたちの魂は、われわれに、それを迫っているのだ。
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