自己論のスケッチ(1−8)--存在の無垢純潔
最近、猫の遺骸を"移葬"する機会があったんだけど、まあ、場所を移すべき事情が発生したので。3週間近く前に、老齢にはほど遠い7歳で肺がんで亡くなったコロンちゃんだけど、掘り出しても分解はまだ始まっていない。やや干からびてちょっと小さくなっている。でも、その、泥だらけの干からびた猫の遺骸は、私の目と心に、「きたない」とか「きもちわるい」とか「かわいそう」とか「悲惨」等々の、ネガティブな印象はまったく与えない。単純に「かわいい」。猫って、死体になってからでも、やはり猫だから、かわいい、という形容しかないんだ、100パーセント。再び移葬する機会はまずないから、そのかわいさは、コロンちゃんから私への、コロンちゃんが私に見せる、最後の、もっともピュアな、メッセージだ。
7年間毎日、ほとんど私がお世話したんだからな。
その、泥だらけの遺骸になっても、まったく損なわれないかわいさは、コロンという「自己」の、アンタッチャブルな無垢純潔を表しているようだ。生きること、生き物として生かされ、やがて死なされる(==生かされることの一部にすぎない)ことには、いろいろ、厄介ごとやつらいことなどがつきまとうが…猫だろうとヒトだろうと…、そんな中にあってそれぞれの「自己」は、ピュアに、≪きれい≫である。そのきれいな、自己と自己から、そのきれいな孤独同士から、本当のコミュニケーションが、芽生え育たなければならないのではないか。
やっぱり、禅を脱構築したような『何か』の、創出と普及が必要か…。この、ともすればとげとげしい社会を、とげとげしくなくするためには。
(オトコの多くがjerkと呼ばれるような状況--小さなすさんだ個--と、先進諸国で児童虐待が頻出する状況は、根っこは同じだ。なんとかしなければならないが、まだ私には名案はない…。)
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コメント
人間の義務・作品は自己・人生です。
自分の人生を善なる方向へ進めることが意識ある生き物の存在意義です。
その作品を愛おしむことが自分を愛するということです。
投稿: みなみ | 2011年8月26日 (金) 09時41分
ヒトの遺骸でも同じような感慨を得る(?)ためには、「禅を脱構築したような『何か』」が必要なのかもしれません。
オトコって硬いから。
投稿: 市川智 | 2011年8月26日 (金) 21時36分
夜勤明けの休み。台風で外出もままならず。と来れば、
自室に籠って、読書でしょう。ありがたき幸せなり。
以下は、
西澤 哲(にしざわ さとる)・著
子ども虐待 / 講談社現代新書 2076
の、言ってみれば読書ノートみたいなものです。
ーーー
まず、ここに集うからには、教えの通り、言葉の意味は
やり取りの内に確定してくる、と踏まえなくてはいけませんネ。
そこで「虐待」という言葉は、本来は「濫用・乱用」を意味する
abuse の訳語である、と確認します。「濫用・乱用」とは
「正しくない使い方、本来の目的とは異なった使い方」である。
したがって child abuse は「子ども乱用」と訳されるべきであった
かもしれない。
「子ども虐待」とは、「親などの保護者がその親権を乱用し、
子どもの存在やその関係を利用して自分自身の欲求や要求の
充足につながるような行為をなすこと」だと言える。
親の心理をとらえる調査、として
「虐待心性評価尺度」(parental abusive attitude inventory
:PAAI )が開発されている。
これと母親自身の被虐待経験及び子どもに対する実際の虐待
傾向を尋ねる質問項目からなる調査、統計処理を行った結果、
分析によると、経験・心性・傾向に三つのルートがあった。
1. 身体的被虐待経験 ー〉体罰肯定感 ー〉子どもへの身体的虐待傾向
2. 被ネグレクト経験 ー〉子どもからの被害認知 ー〉子どもへの
ネグレクト傾向
3. 心理的被虐待経験 ー〉自己の欲求の優先傾向 ー〉子どもへの
身体的・心理的虐待及びネグレクト傾向
これら三つはすべて、子どもを自分の欲求充足のいわば手段として
利用するという意味で、「乱用」の中心となる特徴である。
育児とは、子どもの幸せを願って行われる行為である。適切な
親子関係で育つ子どもたちは、自身の愛情欲求がある程度満たされた
大人へと成長し、子どもの幸せを考えて育児に取り組むことができる。
しかし、虐待やネグレクトを受けて育った人たちは、育児においても
自分の愛情欲求を優先してしまう傾向に陥りがちだ。そこに子ども
への虐待行為につながる乱用の心理が生じると言えよう。
さらに、
DV と虐待
性的虐待は子どもをどのように蝕むのか
トラウマについて考える
アタッチメントと虐待
本来の自分を取り戻すために
と、つづきます。
ーーー
興味深く感じたのは、加害者像の一致、というところで
あくまで推論とことわったうえで、
「自分の人生をうまくコントロールできておらず、
強い無力感を抱えているように見える」という共通点
(DV と性的虐待が直接つながるタイプとして)
を記されている点。
これって、小さなすさんだ個、ではないですか。
岩谷さんって、やっぱり凄い。30年選手の専門家と同じ境地だ。
心理療法プログラムも紹介されていますが、
先ずは、関心をもって勉強してみることが必要だと思いました。
以上、本日のはたらき、でした。あれ?
もうこんな時間。寝なくちゃ
simomitu
投稿: 下光博之 | 2011年9月 4日 (日) 00時08分
自己論は、ここでしか読めない、目玉の一つと思っているので、
関連しそうなこととして、ここにまた書きます。
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著者の村瀬 学(むらせ まなぶ)さんは、僕が障害児教育をあれこれ
学んでいるうちに出会った方です。特に「初期心的現象の世界」は、
ポップ宣言(仮)並に衝撃でした。
ここのところ、仕事の現場が変わったので、距離が出ていたのですが
小島寛之さんの著作を漁っているうち、名前を見かけて手に取り、
やっぱ、流石なわけです。
思想史上の重大な欠落を問う
「わたし」と「他者」だけで
世界はできてはいない!
講談社現代新書・・・「「あなた」の哲学」
日本ではじめての「あなた」論
いつもは、要するに、を書くので必ずしも読む必要はないけれど
これは立ち読みくらいしてほしい、な。
コロンちゃんも、岩谷さんにとって、かけがえのない、あなた
だったのでは?
もっとも村瀬さんの言わんとしているのは、人称論ではなくて、
「三世代存在」「継承させるしくみ」「紡ぎのしくみ」という事
になるのでしょうけれど。
いずれにしても、ここでの岩谷さんの話と同じく、
今まで考えたことなかった、とは思える内容だと思います。
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以上、一寸、変則のレポートでした
皆さん、台風、大丈夫でしたか?
(遅いけど)
simomitu
投稿: 下光博之 | 2011年9月27日 (火) 21時40分
「独自存在の失念性」
たぶんスピリチュアル系な本に書いてあったんだろうけど、新年会の講演の中から。「グラスとは、グラスだけでは存在価値がない。それに水を入れて飲み込み、満足する人がいて初めて存在価値ができる。」ということは、存在するためには、必ず他者が必要だということ。独自存在なんてあると思っているのは、おバカさん・自惚れ屋さん・あまちゃんである。かならず他者との関係にしかその存在意義はない。ここにも「私たちはつながっている」が証明される。
とすれば、自己の中のどの要素が人に提供するに値する部分なのかを、今一度自分で検討してみる必要がある。そしてそれを磨き上げて、多くの人から必要とされる人物になっていくことが、その人の「しあわせ」である。
言い方をかえれば「私とは他者である。」他者によって初めて、自己存在の意味を確認・充足できるのであるから。自分の長所(個性)を磨き上げていきたいね。そして人の長所を見つけていきたいね。(優等生ー的になっちまっただよ)
投稿: ohiya | 2015年1月19日 (月) 07時25分