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2011年7月 4日 (月)

論理と実践

久々に正法眼蔵をちょろちょろと読んでみたけど、意味なんか半分も分からないのに読めてしまうのは、ひとえに、文章のきれいさ、かっこよさの所以なり。

仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
(現成公案)

かっくいい!。

そしてこれが、禅宗というものなら、仏教諸宗派の中で禅宗のみが、唯一論理的で唯一実践的と言えるのではないだろうか。論理的といっても、理屈を後から構築するのではなく、現実の自然で正直な解明だ(私がかつて、三角形の内角の和は2直角は、新発見でもなんでもなく、三角形の定義の中に最初からある、と言ったことの論理に近い)。たとえば「辨道話」という問答集の第十問答「霊魂不滅説の否定」を見よ。実践的というのは、仏の教えを学ぶというのは、仏(お釈迦さん)の悟りを、自分の悟りとして追体験できなきゃ無意味、という主張(これに対し読経なんて"春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひに又益なし"だそうだ)。この、論理的で実践的なるがゆえに、これまでの日本人大衆はそれを避けて通った。

というわけで、これだけきれいでかっこいい、日本語の文章がほかにもある、とご存じのかたは、お教え願いたい。

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コメント

私も詳しくはないのですが、禅には(宗教には)論理に収斂できない跳躍があるはずですがその辺はどうお考えですか?。

すごく良いもののようにも思えるし、それはダメな気もします。

投稿: 南 | 2011年7月 5日 (火) 08時45分

@南
ふつう、神という言葉で指される絶対者/超越者があるものを宗教と呼ぶなら、だいたい仏教諸宗派も、仏という言葉で絶対者/超越者を指している雰囲気があるので、宗教と呼ぶべきでしょう。

でも道元の文章に感じられる禅宗では、仏(お釈迦さん)は昔の、最初の、偉い、瞑想と思索の実践者にすぎず、絶対者/超越者とは違うようです。

余談ですが、キリスト教の新約聖書も、宗教の部分を無視して、イエス(とのちに呼ばれた人)の言説の重要部分を拾い読みすれば、けっこう、おもしろいと感じます。体制宗教としてのキリスト教は、このブログにも過去に書いたように、最悪の欺瞞ですが。

投稿: iwatani | 2011年7月 5日 (火) 19時02分

信仰する対象としての宗教ではなく、思想・実践の手引書として読むわけですね。
つまみ読みだけど真剣に熟読するというやり方で。

挑戦してみる価値がありそうです。

投稿: 南 | 2011年7月 6日 (水) 08時22分

きれいでかっこいいの
何かあったような、と
思って段ボール箱、
ゴソゴソしてみたけど
一時あさってた本
実家に置いているみたい
何せ寮暮らしですから。

手元にあるのは新書
「ブッダの優しい論理学」
縁起で学ぶ上手なコミュニケーション法
石飛道子 著
以心伝心のポイント
他者のためにと考えて
行動するだけで、縁起
の理法は身について
くる。

それにしても
この頃、反応が
遅くなってばかり・・・
ゴメン

simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年7月 7日 (木) 21時57分

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