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2011年7月17日 (日)

アメリカの停滞

オバマ大統領らの、国民皆保険政策が、アメリカでなかなか成立しないのはなぜなのか。映画「シッコ」は、アメリカでも多くの人が見たらしいのに。

実はアメリカという国は、ティーパーティー運動にも見られるように、ノン・インテリの保守層が、分厚くて不気味なんだ。この本は、アメリカ保守層の現実を日本人にも知らせるという意味で、これまでになかった新しい本だろう。

そしてヨーロッパではもはや、「アメリカ的」は、否定的な形容詞らしい。(類似記事。)

どの国も、「激動の21世紀」から無縁ではありえないだろうが、アメリカ社会の激動は、どういう形で起きてくるのだろう。それは、こわいと同時に、どうしても起きざるをえない変動だろうな。

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2011年7月11日 (月)

バッハの脱構築者Paul McCreesh

組曲(suite/partita)というのは、ダンス音楽集である。バッハにも、ピアノのため、無伴奏のバイオリンやチェロのため、オーケストラのため、等の組曲がある。たとえばヨーロッパの田舎の貧乏村の年に一度の村祭りに現れる、"流し"のバイオリン弾きのおっさんでも少女でも想像してみよう。彼/彼女は自分でも踊りながら(==立って演奏)当時の各種ダンスミュージックを次から次と…もちろん一人で無伴奏で…弾きまくり、村人たちを踊らせなければならない。

ところが、これまでの多くのバッハ作の組曲の演奏は、なにしろ偉大なる厳粛なるバッハ様の「御音楽様々」だ…と先入観してる…から、全然、ダンスミュージックになっていない。

そして、ビートルズが騒がれていたころはまだ生まれたての赤ちゃんだったPaul McCreeshは、2008年スイスのヴェルビエ音楽祭で管弦楽組曲を指揮し、ほぼ全員を立たせて演奏させている。すると、どういう音楽になるか。まあ見て&聴いていただけば分かる(YouTubeに全楽章がある)。

この人の「マタイ受難曲」が、またすごいらしい。ああゆうのは、ハリウッド/東映映画なき時代における、大シリアス大感動歴史ドラマエンタテイメントだと思うが(イエス--とのちに呼ばれた人--の処刑とその前後がクライマックス)、McCreeshのは、コーラス(合唱団)なし、ソロイスト…イエス、福音史家、マリア等々…たちにコーラスパートも歌わせている。どういう音楽になるか。それが、「劇表現」においてどういう意味を持つのか。想像つくが、聴いてみたい。

ところで、バッハの録音音楽の、ジャケットデザインの脱構築を、ついでに発見した。それは、John Eliot Gardinerによる、カンタータ全集だ。ガーディナーの音楽性は、すばらしいのかどうか、よく分からないが、このジャケットデザイン集はすばらしい。世界中の全員にとって、一見の価値があるだろう。


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2011年7月 7日 (木)

デジタルテレビの怪

テレビ放送のデジタル化は、池田信夫さんも言うとおり、平成の戦艦大和、壮大なる無駄・無意味である。あんなものに、デジタルの相当な帯域を使わせるなんて、ほんまにアホらしい(しかるべき日が来たら当然廃棄すべき)。

親戚に中古のデジタルテレビをもらい、診療所の待合室などではなく自宅で大画面のテレビを見るのは初めてだが、受像器がリッパになると、今のテレビのくだらなさがますます強調される、ということに気づいた。よくまあ、こんなくだらない、complacentなものを作るのに、毎日々々、大量のリソースが動員されていることよ! なんなの、これ?

今回の大災害は、テレビが初めて、局のものから、人びとのものになる、良いチャンスだったと思うが、だーれもそんな発想をしないんだから、せっかくのメディア進化の機会も失われてしまった。

というわけでデジタルテレビは、いよいよ、近未来のテレビの墓場か。

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「読み方」による脱構築

これは、前回の記事へのコメントのレスとして書くべきものを、あえて独立させた記事である。

人類がこれまでのコミュニケーション不能からコミュニケーション有能へ進化して行くためのトップスリーの要件は:

1. 宗教という究極のエゴティズム(最大サイズまでインフレートしたエゴティズム)からの覚醒。
 Imagine there's no religion. (J.Lennon)

2. トレード強迫からの覚醒。トレードの相対化、社会的地位の格下げ。参加してもしなくてもよいものに。

3. 社会的決定と実現の仕組み(古語: "政治")を、従来のヒエラルキー構造からネットワーキング構造に変える。
(対応迅速化とリアル化の実現。)

上の1に関しては、一般的伝統的に宗教書として遇されているディスクールを、「個人の言葉」として読み感取していくことが、即、その書の、宗教書としての脱構築となる。新約聖書…ラジカルな宗教改革家イエス(とのちに呼ばれた人)の言葉、正法眼蔵…道元という13世紀日本のユニークな秀才の個性が発した文、として。しかし…、いまだに何をどう読めばいいのか分からないのが、イスラム教だ!!!

また、「読む」という行為は、今では複数者によるネットワーキングな営為でありえる。

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2011年7月 4日 (月)

論理と実践

久々に正法眼蔵をちょろちょろと読んでみたけど、意味なんか半分も分からないのに読めてしまうのは、ひとえに、文章のきれいさ、かっこよさの所以なり。

仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
しかもかくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
(現成公案)

かっくいい!。

そしてこれが、禅宗というものなら、仏教諸宗派の中で禅宗のみが、唯一論理的で唯一実践的と言えるのではないだろうか。論理的といっても、理屈を後から構築するのではなく、現実の自然で正直な解明だ(私がかつて、三角形の内角の和は2直角は、新発見でもなんでもなく、三角形の定義の中に最初からある、と言ったことの論理に近い)。たとえば「辨道話」という問答集の第十問答「霊魂不滅説の否定」を見よ。実践的というのは、仏の教えを学ぶというのは、仏(お釈迦さん)の悟りを、自分の悟りとして追体験できなきゃ無意味、という主張(これに対し読経なんて"春の田のかへるの、昼夜になくがごとし、つひに又益なし"だそうだ)。この、論理的で実践的なるがゆえに、これまでの日本人大衆はそれを避けて通った。

というわけで、これだけきれいでかっこいい、日本語の文章がほかにもある、とご存じのかたは、お教え願いたい。

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