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2011年6月25日 (土)

歴史の憂鬱

講談社現代新書「原発報道とメディア」(武田徹)には、1940年代に福島県の山村で陸軍の命でウラン採掘が行われていたこと、その労働力として地元の中学生が動員されていたことが記されている。

なんだ! 今の福島原発事故は、デジャヴュではないか! うまくいってたら(?!?)日本がアメリカの都市に原爆落としてたかもしれないんだから、いいかげん、一方的な被害者意識は捨てよう。

歴史は、世界の歴史も、日本の歴史も、過去の歴史も、現在進行中の歴史も、なんでこれほどまでに、憂鬱という重圧を目一杯背負っているのか?

それは、「個/自己」というものの宇宙的貴重性と、ひとつひとつ例外なき尊厳が、明示的に確立していないからだ。そしてそのような個間と、個-他者(自然など)間に、やさしい、そして明朗闊達な、コミュニケーションが欠けているからだ。まだまだ、ヒトは、暗い(&蒙い)。…そういう意味では、犯罪・犯罪者も、その多くが、歴史の憂鬱性に属する現象だろう(脳の器質的病気等を除き)。

このブログの各記事も含め、個の尊厳の全的確立と、それら間の明朗闊達なコミュニケーション--人間と人間社会の暫定的初期的完成形を目指して、人類史上初の「コミュニケーション学/コミュニケーション理論」というものを模索してきたが、もっといろんな人が、いろんな場と形で、考えを広めてほしいなぁとも思う。お笑い芸でもいいし、学校のユニークな授業方式でもいい、などなど、などなど。そして、そのような多様な試みのポータル/フォーラムのようなネットワークが、もちろん必要だね。

ひどい憂鬱という点では今は、シリアとかリビアとかビルマとか外国が目立つが、「いじめ」や「児童虐待」の絶えない日本も、決して良い状態とは言えない。シリア等に、憂鬱度で負けてはいない。

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コメント

ひょっとして人間は基本的に人間が嫌いなのではないか?。自己嫌悪も含めて。
まず、好きにならないと始まらないのでは?。

順番が違うかなぁ。

投稿: みなみ | 2011年6月27日 (月) 09時00分

@みなみ
共同体はコミュニケーション不要の生活圏なので、自己他己の認識なし。有形無形のローカル権力が支配する。

他共同体は原始的対象知の対象なので、戦争and/orトレードが、コミュニケーションに代わる関係手段。ここにも自己他己の認識はない。

個人やその孤独が問題になるのは、あくまでも、現代の都市化社会以降です。この領域が、まだまだヒトの生活環境として貧しい。

投稿: iwatani | 2011年6月27日 (月) 13時54分

都市を作り上げるだけの文明は発展させ得たが、そこでどう生きたらいいのかという文化の方は未発達な人類の現状。

ていうか、こんな人間の居場所の無い社会で「生きたい」と思う人の方が不可解。

投稿: みなみ | 2011年6月28日 (火) 08時55分

@みなみ
今の人類社会の基調は、共同体の「無個/無自己」と、間(かん)共同体の「コミュニケーション不能」(戦争and/orトレード)を分厚く引きずっています。

でも人間の生活を過去ウン万年ウン十万年支えてきたのは共同体だから、まあ、「とても重い!」としか言いようがないですね。各個人の微力で、少しずつ、変わる方向へ押していくしかないでしょう。

投稿: iwatani | 2011年6月29日 (水) 10時00分

できるとしたら、私が変わることでしょう。

革命なんて信じませんが、実験は信じられます。

投稿: みなみ | 2011年6月30日 (木) 08時59分

「原発報道とメディア」 / 武田 徹 / 講談社現代新書
を読みました。
震災以降のジャーナリズムのあり方を考察してあり提案もあります。
それは「基本財としての安心・安全」の実現に向けて社会を導く、です。
具体的には、一人ジャーナリストのすすめ、かな。
マスメディアではなく、ネットでもなく、
それが、二人のジャーナリズム、さらにその初志をいかすかたちの
活動体へ。
まるで、ここで岩谷さんが提唱されている事のよう。
まずは、基本の日記として、考えたことは書いておくのが肝要と
受け止めました。
同様に rockin'on_JAPAN_9月号「激刊!山崎」でも山崎洋一郎さんが
「今の自分が何を見て何を感じているか、それを全力で書き残すべき
だった。」とコラムを一回休んだ後悔として書かれていました。
通じるものを感じます。
さて、
今回の書き込みには、もう一寸の動機も。
ウラン採掘の試みの話は、本書ではなさそう。
私の読みとばし、下手読みかも知れませんけど。
読者諸賢のご指摘を。

simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年8月12日 (金) 21時44分

@下光さん:

1940年代の福島県の山村で、地元の中学生が動員され、ウラン採掘が行われていた事実があった、と言う事がずっ〜と気になっていまして、遅ればせながら、「原発報道とメディア」(武田 徹 著:講談社現代新書)を先日読みました。確かに本内容は、同書には書かれていない様ですね。そこで、少々調べてみましたが、このブログによると、講談社PR誌(→ 恐らく、2011年 7月号)の「原発報道が見落としてきたもの」と言うコラムか何かに、同氏がその旨を執筆している模様です。また、関連して、こんな記事も見つけました。以上、かなり時間が経過してしまいましたが、もし必要であれば御参考下さい。

投稿: Voyant | 2013年2月 7日 (木) 09時49分

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