禅の盲目と聾唖
禅については昔も今も無知無関心だが、勝手な直感で言えばそれは「自己が自己であることを知る」体験*ではないかと思われる。その人にとって初めての、自己awarenessの確立--自己疎外自己忘却の解離--である。長年の対象知専横((1)、(2))の毒からの自己解毒だ。
*参考リンク: (1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)。
禅仏教の目的(?)が、生きながら仏になることなら、それはシッダルタの「天上天下唯我独尊」の自覚だろう、と思うのである。
人間(〜生き物)==自己==神秘・貴重・尊厳、の自覚は、昨日の「歴史の憂鬱」でも書いたように、コミュニケーション有能に向けての大前提だが、それにしては、これまでの禅宗は、さまざまな仕掛けや(最広義の)ランゲージが特殊で大げさすぎる(==アクセス性が悪すぎる)。そこで、そのことへの批判としての、今回のタイトルとなる。日本仏教の古めかしいいやらしさとは無縁な(と思われる)ネルケ無方氏なんかが、今後の何かの転機により、禅の脱構築者となられることを、期待してやまない。
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コメント
僧侶が寺の運営者と禅思想家とを兼ねているのが間違いのもとでしょう。
分業してはどうかな?と素人考えでは思う。
投稿: みなみ | 2011年6月27日 (月) 08時54分
ネルケ無方さんの
「迷える者の禅修行」
新潮新書404を
読みました。
面白く読めましたヨ
良いなと思ったのは
迷える者の禅修行
を人々と分かち合うこと
が私のつとめであり
続ける、というところ
こたえをしめしている
わけではないのです、
と解釈しました。
これは期待出来そう。
今まで
宮元啓一さんや
石飛道子さんで
勉強したつもりになって
いたけれど、
また発見がありましたネ
ありがとうございました
色んなアプローチが
あるね!
simomitu
投稿: 下光博之 | 2011年7月 3日 (日) 19時53分
呉智英氏によると、禅宗は荘子思想だそうだ。
投稿: bad | 2013年2月18日 (月) 16時08分