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2011年6月27日 (月)

禅の盲目と聾唖・補遺

正法眼蔵(道元)は、宗教のテキストとしてでなく、ユニークでおもしろい哲学書として、学生時代に(ところどころを)愛読した本だが、それの、分かりやすい現代語訳をもってしても、盲目と聾唖(コミュニケーション不能)の状況は打開できない。

「いはゆる即心の話をききて、痴人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり」(即心是仏)

試訳:
「心==仏、という話を聞いて、愚かな人たちは、一般的な、まだ真理を志していない、日常的な意識や精神の、そのままを、仏だと思うのである。これは、これまで、正しい師に会っていないから、そうなるのである。」

もちろん、自己というものの宇宙的神秘性、神秘的宇宙性、絶対的孤独、時空自己同一性、など(天上天下唯我独尊)を自覚している状態と、ふつうに日常的に意識や心--とりわけ、対象知を指向する!--があることとは、まったく違うが、道元も含め、これまでの禅のテキストも、そのことを教える言説としては非力だ。とくに最大の問題は、それらのテキストで「仏」という語が必ず問答無用、アプリオリに登場することだろう。

そもそも、禅も含め、これまでのあらゆる思想や宗教に、コミュニケーションという問題意識はないからねぇ。だから、修行とか僧籍とか寺とかの形の「盲目と聾唖」に閉じこもるのも、当然か…。うーん、困るね。


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2011年6月26日 (日)

禅の盲目と聾唖

禅については昔も今も無知無関心だが、勝手な直感で言えばそれは「自己が自己であることを知る」体験*ではないかと思われる。その人にとって初めての、自己awarenessの確立--自己疎外自己忘却の解離--である。長年の対象知専横((1)(2))の毒からの自己解毒だ。

*参考リンク: (1)(2)(3)(4)(5)(6)

禅仏教の目的(?)が、生きながら仏になることなら、それはシッダルタの「天上天下唯我独尊」の自覚だろう、と思うのである。

人間(〜生き物)==自己==神秘・貴重・尊厳、の自覚は、昨日の「歴史の憂鬱」でも書いたように、コミュニケーション有能に向けての大前提だが、それにしては、これまでの禅宗は、さまざまな仕掛けや(最広義の)ランゲージが特殊で大げさすぎる(==アクセス性が悪すぎる)。そこで、そのことへの批判としての、今回のタイトルとなる。日本仏教の古めかしいいやらしさとは無縁な(と思われる)ネルケ無方氏なんかが、今後の何かの転機により、禅の脱構築者となられることを、期待してやまない。

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2011年6月25日 (土)

歴史の憂鬱

講談社現代新書「原発報道とメディア」(武田徹)には、1940年代に福島県の山村で陸軍の命でウラン採掘が行われていたこと、その労働力として地元の中学生が動員されていたことが記されている。

なんだ! 今の福島原発事故は、デジャヴュではないか! うまくいってたら(?!?)日本がアメリカの都市に原爆落としてたかもしれないんだから、いいかげん、一方的な被害者意識は捨てよう。

歴史は、世界の歴史も、日本の歴史も、過去の歴史も、現在進行中の歴史も、なんでこれほどまでに、憂鬱という重圧を目一杯背負っているのか?

それは、「個/自己」というものの宇宙的貴重性と、ひとつひとつ例外なき尊厳が、明示的に確立していないからだ。そしてそのような個間と、個-他者(自然など)間に、やさしい、そして明朗闊達な、コミュニケーションが欠けているからだ。まだまだ、ヒトは、暗い(&蒙い)。…そういう意味では、犯罪・犯罪者も、その多くが、歴史の憂鬱性に属する現象だろう(脳の器質的病気等を除き)。

このブログの各記事も含め、個の尊厳の全的確立と、それら間の明朗闊達なコミュニケーション--人間と人間社会の暫定的初期的完成形を目指して、人類史上初の「コミュニケーション学/コミュニケーション理論」というものを模索してきたが、もっといろんな人が、いろんな場と形で、考えを広めてほしいなぁとも思う。お笑い芸でもいいし、学校のユニークな授業方式でもいい、などなど、などなど。そして、そのような多様な試みのポータル/フォーラムのようなネットワークが、もちろん必要だね。

ひどい憂鬱という点では今は、シリアとかリビアとかビルマとか外国が目立つが、「いじめ」や「児童虐待」の絶えない日本も、決して良い状態とは言えない。シリア等に、憂鬱度で負けてはいない。

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2011年6月19日 (日)

インターネットプログラミングの近未来

Javaというプログラミング言語が好きな理由の一つは、インターネットプログラミングが簡単なことだ。でもそれは、あくまでもTCPやUDPといった低レベルのAPIがよく整理されているというだけで、高級APIはあまりない。

というより、現状は、インターネットの高級レベルのアプリケーションは、非常に分断化している。アプリケーションプロトコルの数が多すぎる。たとえばHTTPプロトコルのサーバとクライアント間に関しては、HTTPで可能なプログラミングしか意味がない。

私は、高級レベルを汎用化したい。分かりやすい一例を挙げると、今はメールは、ほとんどの人が、どこかのメールサーバのクライアントとして利用しているだけだ。しかし私がヴィジョンする汎用高レベルAPIセットでは、「メッセージの書かれたテキストや関連のビデオファイルなどを相手のメールフォルダに送り込む」というAPIがあれば良いのだ。どこかの、いざというときやばい(例: Gmailは最近不具合を起こした)、大きなメールサーバ様は要らない。また、そもそもこんなブログみたいなものも、どこかで動いているブログサーバのお世話になる必要はない。誰かの公開日記を読みたければ、彼/彼女の日記ファイルに直接アクセスすればよいだけのことだ。

ということはしかし、各人の(ときには複数の)コンピュータ上で、汎用インターネットAPIセットをサポートするサーバ&クライアントプログラム(==完全ピアツーピアプログラム)が、常時動いていなければならない。むしろこれこそがインターネットのあるべき姿の未来像、と言えるだろう。

まあそれは、たとえば、AppleやiPhoneといった語が、埴輪や勾玉のような、うっすらとした古語と化したとき、次世代〜次次世代が実現している状態だろう。今の、クソ消費者甘やかしの、パーソナルコンピューティング(の不在)の現状は、つまんなくてつまんなくて、吐き気がするね。

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2011年6月18日 (土)

新生児の子猫(6/18)

[前回]からの続き:

0618
昨日、写真撮影をし、インターネット上の主要な場所に掲載。
このブログを見た方へのお願い:
以下のURLを、散布してください。散布先がまた散布するよう、お願いしてください。
http://www.satoya-boshu.net/keisai/c2-124515.html

肩の荷が下りた、と言いたいとこだけど、まだまだ下りないね。良き里親さんが決まるまでは。

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2011年6月15日 (水)

新生児の子猫(6/15)

[前回]からの続き:

0615
推定誕生日が4月15日だから、今日から日齢は2か月のスタートとなる。

0614朝、食事前の体重870グラム(前回0606は725グラム)、順調な成長ぶり、
0611に最初の予防接種。検便の結果も異状なし。

性格がおだやかで、表情に気品があり、頭も良く、将来、「名君」ならぬ「名猫」になること間違いなし。

さていよいよ、里親さん探しを開始しなければならない。

インターネット上は常時、猫で飽和しているので、ある個体が"売れる"確率は50%ぐらいだ。居残り猫が、着実に増えていく。

ずっと家にいることになってもいいが、猫のやたら多い(現状で20数匹)わが家にいることは猫にとって幸福でない。十分遊んでやれないし、万一のときの高額医療費は出せない(そのまま死んでいただくことになる)。

今朝、ひなたぼっこをさせながら、時間つぶしのため、相当久しぶりに、新聞を読むという経験をした(うちでは新聞紙は犬猫の世話のための"資材"だ)。メディアの尊大で愚かななcomplacencyは、テレビだけでなく新聞も同じだね。Public Access TVとかいう、渡辺裕一さんのプロジェクトはちょっと気になるけど、まだ、ちゃんと知るほどの時間はなし。

体も大きくなり動きも活発。そろそろ、トイレのサイズアップが必要なよう。子猫のトイレなんて、100円ショップのプラスチック製品で十分間に合うので、費用的には気楽だ。

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2011年6月13日 (月)

本当は人間だったショパン

これは有名なドラクロアのショパン像だ:
Chopd

これは、ヴァイスが描いたショパンの像だ:
Chopw

これは、亡くなる年に撮られたショパンの写真だ:
Chopp

(ドラクロアの絵に、いちばん、ショパンの“人間"が感じられると思う。)

私が勝手に「西洋クラシック音楽の脱構築者」と呼んでいるピアニスト、イリーナ・メジューエワは、ショパンの曲の演奏/録音も多いが、それらをいわゆる、ショパンのピアノの名曲としてではなく、上の絵や写真に見られる、本質的に悲しみを抱えた人間の表現として音化している。話を単純化するために一曲にしぼると、作品64-2の嬰ハ短調のワルツ、ディヌ・リパッティの1950年録音(Abbey Roadスタジオだ!)は、約3分の超美演快演だが、メジューエワはそれより30秒長くかけて、「名曲」を「人間の心の表現」へと脱構築している(ライブとスタジオ録音の両方)。一方、名演と言われるルービンシュタインのも3分30秒だが、こちらはただ単に、(老人っぽく?)遅くて長いだけ--きれいだけど退屈--だ。

個人的には、ショパンは長年、どーでもいい音楽家であり曲であるにすぎなかったが、Wikipediaの日本語記事によると、本人はロマン派と分類されることを拒否していたとか。メジューエワの演奏で初めて、まさしく当時のヨーロッパ史を体現している『人間』の一人であることを、理解できた。

そのころのポーランド史をここで持ち出してもしょうがないから、そう、長年、原発で--お金的に--潤ってきた東北の各地の方々、そのような「地域」は、本当に幸せでしたか? グローバルなトレード強迫の嵐に、体ごとさらわれてしまわないためには、「個(自己)」、次いで「地域」に、しっかり居直るしかないでしょう。エネルギー問題を単にエネルギー問題としてでなく、地域の自立(自律)性の問題としても、考える必要があるね、絶対。


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2011年6月 6日 (月)

人間のネットワーク

先日訳したこの記事は、かなり粗雑乱暴で底の浅い「Facebookよいしょ」記事だが、その基本的な結論は無視できない。

「インターネット(のようなオープンでグローバルなコミュニケーションネットワーク)は、(物理的には)データや(意味的には)情報のネットワークではなく、人間のネットワークでなければならない。」

ものすごく遠大な課題だが、ものすごく正しい。今はたとえばYouTubeの上ではビデオという情報が主役で、人間はのっぺらぼうなかかし(田んぼのかかし)のような姿で、情報の背後に隠れている。

人間のネットワークであるOGCN(open and global communications network)は、どんな構造のものか?

貧乏核家族における、子どもの虐待を未然防止できるOGCNとは?

うちの裏庭に生後3日の子猫を捨てた人/捨てるような人が、そんなことをしなくなるOGCNとは?

低エネルギー消費型社会の核となる、新しい、充実した地域社会を、そのあらゆる側面を、動的に支えるOGCNとは?

現存、あるいはこれから試行される、人間ネットワークとしてのインターネット、各地の例などをご存じのかたは、随時、教えていただきたい。

ネットワーク利用の基盤となるソフトウェア的インフラも、端末ハードウェアも、もっと進化する必要があるね。端末といってももちろん、P2P端末(同時にサーバでもクライアントでもある)のことですが。

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2011年6月 5日 (日)

nature-friendly technology(part5)

多少節電はするにしても、今のエネルギー需要を前提としての、原発要る要らない等の議論が多い。それは前回書いたように、トレード強迫に脳が支配されているからで、「トヨタが毎日ウン万台の車作れなくなったらたいへんだ!」という論理だ。

しかしオープンソースソフトウェア(FOSS, free and open source software)は、世界各国で、お互いフィジカルに会わない人たちがネットという場でコミュニケーションしながら作られることが多い。それプラス、本当に健康な食生活は旬の地産地消だと言われる。ここから、いろいろ多様に類推し想像すると、地球社会を、今のカーブの延長線上ではない、「低エネルギー消費社会」に変えていくことは可能だと思われる。それが、nature-friendlyにもちろんつながる。老人の生活など、トレード強迫でうまく行かない部分は、お互い徐々に「無償の愛」化していかざるを得ないし。

問題は、こういった議論が、今支配的な議論に代わってメジャーになることだが、さてさて…。

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新生児の子猫(6/6)

[前回]からの続き:

0606
今朝食事前に体重を計ったら725グラム。昨日(0605)の心配は杞憂だったようだ(0530で600グラム強)。
今朝の食事からドライだけに切り換えたが、あっさりと全食。母猫の乳房と大違いのシリンジから、よくミルクを飲んだし、刺激排泄もOK、トイレ使用開始もOK、離乳食への切り換えも一発、と何もかも超優等生だ。

最近は、狭いケージ(相当古いアイリスオーヤマプラケージ660)内を立体的に使って、よく遊ぶ。

そろそろ予防接種をし、里親さんの募集という、定例行事を開始しなければならないな。

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0605
このところ成長(体重増加)のペースが、授乳最後期同様、やや落ちてきたようだ(明日の朝体重測定の予定)。離乳食をやめて一般食に切り換える時期について、ネット上は諸説ありだが、多い説は「60日」か。今日で(推定)生後50日目だから、離乳食1日3回のうち1回(夜)を、Hills Kittenをドライのまま与えてみよう。もちろん、水やりも重要。

日光浴はさせるべきか分からないが、1日おきぐらいに、朝涼しい、日射しの弱いうちに、15分ぐらいミニケージに入れてさせている。予防接種(+それが有効化するその2週間後)まで、控えるべきか? ネット上には、子猫に日光はノー、という説もある。

#子猫が無事育ってくれて、毎日かわいい姿を見せてくれるのは、動物保護/愛護活動の全体を大きな荒野とすると、そこにわずかに咲いた小さな花のようなもの。つらいこと、悲しいこと、腹立たしいこと、空しさ(虚しさ)を感ずることのほうが多い。今回は本人が奇跡的に健康状態特Aだったが、そうでなければ悲しい腹立たしい経験になっていた可能性もある。ときどき、家に入ってきた蛙などを外に逃がしてやるときは、「野生動物って楽だなぁ」とつくづく感じる。人間からの世話不要だからね。犬と猫は家畜だから。家畜が家畜としてまともに扱われていないから、まことに困るわけで。

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