禅の盲目と聾唖・補遺
正法眼蔵(道元)は、宗教のテキストとしてでなく、ユニークでおもしろい哲学書として、学生時代に(ところどころを)愛読した本だが、それの、分かりやすい現代語訳をもってしても、盲目と聾唖(コミュニケーション不能)の状況は打開できない。
「いはゆる即心の話をききて、痴人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり」(即心是仏)
試訳:
「心==仏、という話を聞いて、愚かな人たちは、一般的な、まだ真理を志していない、日常的な意識や精神の、そのままを、仏だと思うのである。これは、これまで、正しい師に会っていないから、そうなるのである。」
もちろん、自己というものの宇宙的神秘性、神秘的宇宙性、絶対的孤独、時空自己同一性、など(天上天下唯我独尊)を自覚している状態と、ふつうに日常的に意識や心--とりわけ、対象知を指向する!--があることとは、まったく違うが、道元も含め、これまでの禅のテキストも、そのことを教える言説としては非力だ。とくに最大の問題は、それらのテキストで「仏」という語が必ず問答無用、アプリオリに登場することだろう。
そもそも、禅も含め、これまでのあらゆる思想や宗教に、コミュニケーションという問題意識はないからねぇ。だから、修行とか僧籍とか寺とかの形の「盲目と聾唖」に閉じこもるのも、当然か…。うーん、困るね。
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