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2011年4月22日 (金)

新生児の子猫(5/7)

●この記事の続き(0509以降)は、ここにあります。
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0507
シリンジは日本のテルモ(TERUMO)製が良い(ドイツ製は作りが雑)。
使い捨てが前提の製品なので、長くは使えない(ピストンがきつくなって使いづらく/飲みにくくなる)。
4月18日の保護時は、やや古い5mlを使用。
あと、22、29、5/7と10mlを使用。つごう4本目だ。10mlはあと7本ある。
Yahooオークションで、子猫緊急用と言ったら、こちらの納金前に即日送ってくださった池内さん、本当にありがとう!
最近はクソ元気になって、おとなしく飲まないので、あたりがミルクで汚れるのが困る。
ペット用ウェットティッシュ(ノンアルコール)大活躍の日々だ。

排泄のための刺激は、ふつうのティッシュを2つ折り、4つ折り、8つ折り、16折りにしたものを、さらに三角に折って先をとがらせたもので、おしっこの出口とウンチの出口のあいだあたりをこちょこちょする。最初はティッシュ1枚で十分だったが、今は3枚重ねたものを折っていかないとだめだ。飲む量が多く、したがっておしっこの量も多い。

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0502
朝(授乳前)体重255グラム。
1日に10グラム増だから、日齢2週間+αとして現状はまあまあ標準か。
耳はほぼ完全に立った。
シリンジ使用はそのまま継続している。
飲むとき、前脚で虚空をもみもみするから、「母猫人形」が必要だ。
立ち上がった直立姿勢で飲まないよう、注意が必要だ。
最近の綿棒は、大、中、小、トンガリ(メーク用)と4種あり、濡らした大で肛門をこちょこちょしている。

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0426
朝体重を計る。190グラム(保護時110グラム)。
哺乳瓶(人工乳首)はうまくいかないことが多いのでシリンジ(注射筒)による強制授乳。
もっとたくさん飲むように、哺乳瓶をトライしてみようか…。
今、生後10日とすると、まあまあ及第点すれすれの体重かな。
目は、完全にあいた。
そこらをやたら歩きたがり、私の衣類のあちこちをチューチュー、母猫の乳首を探しているのだ。

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18日、裏庭に生後3日ぐらいの子猫を捨て去ったやつがいる。保温・授乳・排泄介助に努め、22日現在、元気だが、母猫のような完璧なことはできないので、世話する側に不安がつきまとう。

時間があり次第、参考情報をいろいろ書いていこうと思うが、とりあえず参考になるURLは:
http://www.lifeboatjapan.org/contents/baby_cats/
http://www.geocities.co.jp/AnimalPark-Shiro/3131/baby.htm
http://milkcat.7.tool.ms/

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4/25
18日の午後3時に保護したから、今日で満1週間だ。
へその緒は19日に自然にとれた。
目がやや開(あ)き始め、歩けるようになった。耳は、まだふさいでいる。
黒白の雄だが、黒いもようは頭としっぽの付け根に少々あるだけで、白猫に近い。
いますでに、とってもかわいい。
保護した状態がきれいだったから、「母猫がなめて全身を掃除している」ということは「初乳も飲んでいる」。
この2つの条件のない新生児猫は、まず生き延びられない。昔、羊水でべちょべちょ状態の新生児猫を3匹保護し、結果、悲しい思いをしたことがある(片山ペットクリニックさん、あのときはありがとう!)。
母猫にしか完璧にできないことを無知な人間がやっているのだから、毎日が「びびるの毎日」だ。
残酷なことをする人間の第一の特徴は、自分が残酷なことをしているとはまったく思っていないこと。今のカダフィなどのように、自分は善いこと、正しいこと、きわめて合理的なことをしている、と思っている。
コミュニケーションのない空間で呼吸している人間は、すべて、自分の思いこみ=100%の善、という哲学の化身だ。

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2011年4月15日 (金)

nature-friendly technology(part2)

コミュニケーションの重要な基盤の一つが、他者の正しい理解だ。人間にとっての他者は、自分も含む人間たちだけでなく、自然の全体とそのあらゆる細部も、重要性の高い他者だ(ていうか、重要性の低い他者なんてありえないが)。

他者理解の重要な前提の一つが、他者を自分の意味体系で理解(したつもり)になってはいけない、という点だ。

他者そのものの実体/実態を、知る、想像してみる。

たとえば海というものの、まず、スケールを想像してみよう。幅数千キロメートル、深さ数千〜1万数千メートルという、巨大な水のかたまりだ(しかし地球上のほとんどの生物が直接間接に海に依存している)。このスケールの水塊にとっては、高さ数十メートル程度の波は、ちょっとしたことで起きうる、ささやかなripple(さざなみ)にすぎない。想定外どころか、十分に想定内、おっと"想像内"、であるはずの現象だ。

そういう、海という他者の想像的理解に基づいて、たとえば原発は設計すべきなのだ。で、三陸沿岸とその近辺は無理なら、建設をやめる。5.3メートルなんて、無根拠な、無謀に楽観的な、ムシの良すぎる設計をするから、災害時に第二のチェルノブイリが起きる。5.3メートルという設計を見たとき、海は、ケラケラとあざ笑っただろう。

子ども時代にずっと海のそばだったから、体感的に知っているが、海はこわいものである。地球上の、ずばぬけて最大のモンスター、それが海だ。今度、海辺に立って、海をよーく見てみよう。なめてかかってはいけない。対立的〜操作的に接してもいけない。海とは、まさしく、friendlyに接しなければならない。つきあい方が正しければ、海はすばらしい友だちだ。

もう一つ。E=mc2という他者。mを分解してEを取り出す技術は、その逆過程、つまりEを元のmに…瞬時に!…戻すリセット技術が完成しないかぎり、実用に供してはならない。この技術を人間は持っていないが、自然は持っている。ただしその実現工程の期間は、通常、数億年である。…つまり核エネルギー利用の安全な(=controllableな)実用化は無理、たぶん。

他者を、なめて、安易に接した報いが、今、のたうち回って暴威をふるっている。人間側の、自業自得である。

他者をなめた報いは、当然起きる。それを想定外と言うのも、愚かさと思い上がりの極致だ。他者が、てめえの勝手な「想定内」になんか、いるわけないじゃん!!!

いわゆる昨今のテロ事件、そしてアラブの動乱も、西欧社会があまりに長年、他者をなめて、無視して、搾取してきたことの、当然の報いではないか。いまごろになって、NATO軍を派遣するぐらいなら、もっと前から、アラブ社会との正しいつきあい方があったはずだ。

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2011年4月11日 (月)

Linux誕生20周年における孤想

Linuxが誕生20周年を迎えた(主要タイムラインの視覚化)。私は「初めてのLinuxディストリビューション」と言われるSlackware以前のLinuxのコードもいじったことがあるし、日常、Linuxオンリーのデスクトップユーザになってから10年以上経つ。

で、ここであらためて気づくのは、特徴的な世代差だ。Linus Torvaldsが20歳のとき(1901)、私は49歳だ。そしてまた、ビートルズのファーストアルバムのとき(1963)、私は21歳だ。私が音楽として積極的な関心を持ったSgt. Pepper'sとかMagical Mystery Tourのころ(1967)ともなると、私は26歳だ。

これを一言で言うと、私にとっては、自分と同世代の人びとがやってることや価値観は「つまらない」、積極的に参加する気にならない。しかし一方、新しい現象の当事者であるミュージシャンやソフトウェア技術者の同格な仲間になれるには歳が行きすぎている(スキルの蓄積もない)。というわけで私という人間は、上下二つの世代から"疎外された"状態がずーっと続いているのだ。

しかし、もっと重要なのは、基本的な理念の落差だ。

●ビートルズの音楽やメッセージの、そして広くロック音楽の、変遷の歴史は、「ステージ商品」とその「無名多数の消費者」という構造の、破壊を示唆しているのではないか?。タテタテ関係から、われわれ自身のヨコヨコ的関係の充実への移行を。

●だとするなら、パーソナルコンピュータ/パーソナルコンピューティングとそのネットワーク(≒インターネット)は、「一部の専門技術者が作る複雑高度なシステム」とその「無名無能多数のユーザ」という構造を固定化するためにあるのではなく、みんながアクティブにパーソナルコンピューティングでき、パーソナルネットワーキングできるためにこそ、あるのではないか。

(この理念の最大の反面教師がApple/Steve Jobsだが#、しかしこれら二者は、もっと大きな一般的な現象の"象徴"であるにすぎない。#Jobsは無名無能多数の(単なる)ユーザを、mere mortals(ただ死んでいくだけの人たち)と呼んだ。自分は金を儲け歴史に名を残すが、か…。)

私はプログラミングの本やLinuxの本を、一部の少数の専門技術者を育てるために書いた/訳したつもりはない(原則的にプログラミングは、まず、パーソナルコンピュータの全ユーザの素養になるべきだ)。そういう本が、これまでに売れた部数の5倍10倍とは言わないが、せめて2〜3倍売れていたら、犬猫たちの(高額な)治療費もまともに出せない、慢性貧乏人の状態ではなかっただろう。

というわけでこの私という人間は、上下二つの世代プラス、現代社会の主要な趨勢(象徴的に: あてがいぶちのspoon-fedのApple製品ユーザ)からも、疎外されてきたのである。…しかしそのうち、"mere mortalsのための製品群"は(ハードもソフトもネット上のサイトも)、どうにもならない行き詰まりを迎えるのではないか。どうだろう。

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