« 宗教改革だったキリスト教 | トップページ | 自己論のスケッチ(1−6) »

2011年3月26日 (土)

宗教改革だったキリスト教(続き)

のちの体制キリスト教によって、(最終/究極的な)供犠にされちまったイエス(と体制キリスト教が呼ぶ男)は、今ごろ怒り狂っていると思うが、やはり、神が厳父厳君で、しかし供犠(供物、お供え物)…という代価、price…によってトレードの相手でもある、という伝統的神認識自体が、噴飯滑稽奇天烈と言わざるをえない。

本ブログのターム「内部化」には良い意味と悪い意味*の両方があるが、この、供犠によるトレードは、神の、悪い意味での、犯罪的とも言える、内部化であり、神に対する"失礼"なのである。土人たち、旧共同体人種は、このことを自覚しない。神を、純粋に、潔癖に、100%、外部化したとたんに、それは、(今度は良い意味で)内部化(==自己内化)され、それは愛となる。

〔*: 悪い意味での内部化/内化については、この記事や、この記事(のとくにコメントへのレス)を見てください。〕

|

« 宗教改革だったキリスト教 | トップページ | 自己論のスケッチ(1−6) »

コメント

If I understand these essays, I want to inform Mr. William on ''Where is the Love?''.
*William … will i am <Black Eyed Peas>

投稿: dukie | 2011年3月26日 (土) 22時22分

If you are William, you should call yourself 'billy', not 'dukie'. :)

投稿: iwatani | 2011年3月27日 (日) 03時35分

Is it joking? Anyway, I will try to call myself 'billy', not 'dukie'.

投稿: billy | 2011年3月27日 (日) 05時31分

「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」というイエスの言葉。教会の権力者が、力なき民衆に対して、「右を殴られたら左も差し出しなさい。敵を愛しなさい」などとやるのは、意味の履き違いである。もともとは、「右を殴られたら左も殴られてやれ」というような、反逆者イエスの言葉であったというような話。これも、イエスの言葉を、外部としてとらえるか、内部としてとらえるか、という違いだと思います。主観にとり、世界との距離はない。存在という痛み、あるいは、「世界はそれそのものとして在る」ということのリアル性。しかし、外部化においては、その距離を客観化できる。主観における左右の差異は、客観においては、ひとつの単一な外部、距離として、同一化される。主体的な時間(内部、差異)と客観的な時間(外部、一般化)との、距離(遠い・近い)こそを、世界観(リアリティ)における基礎として定位させることが必要だということ。貨幣という一般化の視座は、そのような距離感を無化してしまう。そのような視座が、生活における基本的理念として、まずもって第一番目に必要なものとして基礎付けられていることが問題である。それは、「本当の距離」の定位という命題に関し、大きな障壁となっている。右を殴り、左を殴る。暴力の行使は、二度反復される。しかし、右を殴られ、左を差し出す行為においては、意志の作用があり、敵とは、「外部」のことであり、敵を愛せとは、外部として立ち現れる敵の、内部性という、いわば「二重化された距離」への着眼点であるように思います。(本質的な距離、つまりそれは、近い、遠いという、双方向的、双対的な、コミュニケーションの距離。)

投稿: 最期の奴隷 | 2011年3月27日 (日) 12時17分

@dukie
> I will try to call myself 'billy'
Ya I was kidding. 'dukie' is just fine if you prefer it to anything else. It might even sound cuter than 'billy' that would connotate an American Western outlaw hero. :)

投稿: iwatani | 2011年3月27日 (日) 17時51分

@最期の奴隷
「右の頬を云々」は、「右の頬を殴られたら、そいつに左の頬も差し出してやれよ(相手はぎょっとして、たじろぐぜ、はっはっは)」てなもんで、「ローマのものはローマ人に」などと同類のせりふです。「敵を愛せ」なんて、これまた噴飯滑稽。要するに内部性…神は愛である+(一人きりで神と直接結ばれた孤独な個としての)信仰…が確立していたら、外部性において怖いものは何もない、外部性なんてどうでもいい、関心を持つ必要もない、という、強い、ラジカルな、反逆の姿勢です。

外部性を外部性として、100%、純粋に、完全に、潔癖に措定したら、そのとき同時に、内部性も強く維持されるのです。宗教改革というより、当時の文脈としてはしたがって、宗教批判/否定でしょう。

新約聖書に始まる体制キリスト教は、体制キリスト教になるために、二つの巨大な愚行に走った。イエス(と呼ばれた男)をリアルな人間…反抗反体制の思想家…として理解/感受しないこと。そして、彼の談話と言われるものを、旧ユダヤ教の文脈から'再解釈'したこと(旧約へのこじつけがものすごく多い)。前者は後者からの当然の結果でもあります。まあ、イエス(と呼ばれた人物)を旧ユダヤ教で'丸め込んだ'ようなものです。

(そうしなければならない、彼らなりの、打算的動機もあった。)

で、かんじんの、イエス(とのちに呼ばれた男)がもっとも訴えたかった内部性というものは、その前後数千年にわたるコミュニケーション不能の伝統によって覆い隠されてしまった。

私はキリスト教通でも聖書通でもないので、しかるべき人が、体制キリスト教の2000年は欺瞞と隠蔽と噴飯ナンセンスの2000年だった、という本などを書くべきでしょう。

投稿: iwatani | 2011年3月27日 (日) 18時24分

@iwatani
Gee! Just joking! Though I like 'dukie' much, it has a bad meaning too. so, I'll call myself 'alarky' that is real nickname.

投稿: alarky | 2011年3月27日 (日) 21時00分

@iwatani-san:

>It might even sound cuter than 'billy' that would connotate an American Western outlaw hero.

In the sentence above:

× connotate
○ connote

If I am incorrect with the word, please let me know.

投稿: Voyant | 2011年3月28日 (月) 05時10分

@Voyant
Thanks for your comment, while 'connotate' has been my English for years, though.
<quote>
Connotate Con"no*tate (k[o^]n"n[-o]*t[=a]t), v. t. [L. con- +
notatus, p. p.of notare to mark. Cf. Connote.]
To connote; to suggest or designate (something) as
additional; to include; to imply. --Hammond.
[1913 Webster]

-- From The Collaborative International Dictionary of English v.0.48
</quote>

投稿: iwatani | 2011年3月28日 (月) 07時41分

@iwatani-san:

I understand that the "connotate" is from Latin, what we call, "con-" + "notatus". Thank you so much for the kindly clarification as usual !

投稿: Voyant | 2011年3月28日 (月) 08時43分

@iwatani
要するに内部性が確立していたら、外部性について怖いものはない、・・・・・・
ちょっと思いついた歌詞がありました。

Heaven is just a condition
Hell is a condition too
Now,whether we live in heaven or hell
Well,it's up to me it's up to you
It's a special situation
You don't need material things
The love we share with each other
You can't buy all the joy that it brings

The O’Jays   PARADISE from "MESSAGE IN THE MUSIC"

「天国のような境遇だ、地獄のような境遇だ、と騒ぐではない。そんなものおまえの心の持ちようで、どのようにも変われるのである。おまえの心に愛があるなら、余計なもを買い求め満足しようとしなくてもよいのである。」  チリンチリン

とは言うものの、自分の力だけではどうしようもない心の病というものは、厳然とあるものである。それを解決しようじゃあ〜りませんか、皆の衆。

投稿: ohiya | 2014年9月 5日 (金) 00時36分

{追加}「・・よいのである。まず内部性(心、愛)を確立するのが第一・先決である。」

投稿: ohiya | 2014年9月 5日 (金) 00時50分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 宗教改革だったキリスト教(続き):

« 宗教改革だったキリスト教 | トップページ | 自己論のスケッチ(1−6) »