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2011年3月29日 (火)

自己論のスケッチ(1−6)

---主観にとり、世界との距離はない。(最期の奴隷)

本論の趣旨からいうと、「自然」とか「存在」あるいは「世界」などの言葉を使うべきだが、ここでは原典のままに「神」にしておこう。

(宗教概念としての「神」は、性悪で根強い疎外概念(==究極の外部性概念)であるので、本当は使うべきでない。)

###以下「宗教改革だったキリスト教」の続き###
で、それぞれの孤独な「自己」が、その孤独において、神と直接的に結ばれている==自己は神と無媒介に結ばれているとはどういうことかというと、直接==無媒介==互いに別物ではない、という意味になる。同じ一つのものなのだから、言うまでもなく、"距離はない"。

私は神であり、神は私である。私(自己)は、神(自然、存在、…)から疎外されている何か別物ではなく、神の一部である。むしろ自己は、神の、最中心の重要機能だ。存在の、自己開示という。

他者は、たとえば今私の部屋にいるエイズ猫のココの「自己」は、また別の存在開示として、私の自己という宇宙とはまったく別の--見ることも触ることもできない--宇宙として、しかし私の自己の内部性に属している。このような意味で、あらゆる外部性が実は内部性である。

このような、絶対的な隔絶と絶対的内部性という、最大の絶対的矛盾の中に、コミュニケーションという課題とその可能性がある。言い換えると、他者というものは、安易な外部性--あるいは悪い意味での内部性(自己内への恣意的取り込み)--として存在するものではない。

他者とは、また、別の神様なのだ!!
でも、自分も(同じ、同一の)神様なのだから、多くの場合、互いに友だちになれることは確実だ。

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2011年3月26日 (土)

宗教改革だったキリスト教(続き)

のちの体制キリスト教によって、(最終/究極的な)供犠にされちまったイエス(と体制キリスト教が呼ぶ男)は、今ごろ怒り狂っていると思うが、やはり、神が厳父厳君で、しかし供犠(供物、お供え物)…という代価、price…によってトレードの相手でもある、という伝統的神認識自体が、噴飯滑稽奇天烈と言わざるをえない。

本ブログのターム「内部化」には良い意味と悪い意味*の両方があるが、この、供犠によるトレードは、神の、悪い意味での、犯罪的とも言える、内部化であり、神に対する"失礼"なのである。土人たち、旧共同体人種は、このことを自覚しない。神を、純粋に、潔癖に、100%、外部化したとたんに、それは、(今度は良い意味で)内部化(==自己内化)され、それは愛となる。

〔*: 悪い意味での内部化/内化については、この記事や、この記事(のとくにコメントへのレス)を見てください。〕

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2011年3月21日 (月)

宗教改革だったキリスト教

古い初期的な宗教においては、神は厳父厳君のイメージだ。なにしろ神は、人を厳しく罰したりする怖いものなのである。古代のユダヤ教と特定しなくても、もっと一般的世俗的に、たとえば古くからの民衆的日本語の中にも「神様の罰(ばち)が当たる」「神仏の裁きが下る」などの言い方がある*。(今度の大災害でも、あのphallocentric都知事がまたまたヘンなことを言ったらしい。)

〔*: また、生きている人間の心臓をえぐり出して神殿に供えないと、その年のトウモロコシの豊作が約束されないとする某古代文明は、原初的宗教とトレード強迫の通底をもうかがわせる。言い換えるとトレード強迫も、トレードを、人をそれに従わせるおそろしい厳父厳君として想定している。そういうおそろしい"お供え物"は、どこにでも、たとえば日本にもあった痕跡が(昔話などに)見受けられる。〕

(ついでだが、神を厳父厳君と定義する宗教は、宗教勢力と政治勢力が野合した劣悪な権力構造を作りがちだ。そのことへの怒りも、イエス(とのちに呼ばれる人)たちの動機の一つとしてあっただろう…ローマ進駐軍とローカル権力の野合。)

さて、のちの体制宗教化したキリスト教において、イエス・キリスト(救い主・救い主)と呼ばれ、人間としての本当の名前が分からなくなってしまったその改革運動の主導者は、「神は愛である」というテーゼを立てた。これは、もう、ものすごいラディカルな宗教改革である。神が厳父厳君でなければ都合の悪い連中は、その意図どおり、早期に彼を死刑にすることができた。

だが、のちの、体制宗教と化した/化しているキリスト教の姿は、決して、彼/彼らがイメージした革新宗教の姿ではない。たとえば、何なの?、あの、"法王"って?。今の、体制宗教と化した/化しているキリスト教は、分け分からんもんばかりで凝り固まっている、不可解の化け物的かたまりだ。当時の改革の始祖たちが今の世に降臨したら、すべてを破壊したい衝動に駆られるだろう。

話を本筋に戻そう。厳父厳君イメージの神が創られた要因の一つが、大規模な自然災害だろう。言い換えると、神≒自然、だ。このブログが追究している初期的コミュニケーション学/コミュニケーション理論のタームで言うと、それは、<外部化された>自然だ。「神は愛である」は(残念ながら無意識的無自覚的に)、神、そして自然を<内部化>する。

自然は愛である。

あの、突然の大地震大津波で一挙に数万の命を奪ってしまうものでもある、あの、あれが、「愛」なのか?。そんな、あほな。

ここで、「愛」という言葉の完全な、豊かな、full-bodyの意味を正しく理解するための重要な鍵は、それが、持てる者から持たざる者への転移ではない、という認識だ。言い換えると愛とは、なによりもまず、心の主体的な活動形式である。存在の<内部化>とは、まさしくそれである。

愛は、まず、あなたの中になければ、ほかのどこにもない。それが、<内部化>という、新たな存在のベースである。

nature-friendly technologyは、このような、自然観/自然哲学の改革をそのベースに必要とする。

※:内部、外部といったタームについて、ここではあらためて解説しないので、新しい読者はこのブログの過去記事を参照してほしい。内部/外部が二重の意味で使われていることも多いので、気をつけていただきたい。

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2011年3月19日 (土)

We should use nature-friendly technology, only.

自然はこう言う:「あなたたちは私の一部である。ゆえに、あなたたちの命は私のものである。あなたたちの命は、あなたたちの『社会』や『文化』には、これっぱかしも属していない。それは完全に私のものである。ゆえにそれは、私と共に変わっていく…それが命の歴史である」。

今回の大規模災害では、社会や文化を持たない人間以外の動物たちと同じく、ストレートに自然の大きな襞と皺の中へ帰ってしまった命が多いだろう。遺骸が見つからないことを、ゆったりと肯定的に受け止めるためには、正真正銘の存在の哲学、正真正銘の自然哲学を持つ必要がある。

また、これからの世界が必要とするのは、環境を汚染しないグリーンテクノロジなどとちゃちいものではなく、自然と敵対しない、自然に逆らわない、nature-friendlyなテクノロジの体系である。自然と共にダンスできる、技術と生活慣行の体系だ。どんなに激しいダンスでも、共に踊れる…。また、死は正しい自然の一部だから、敵対視、忌み嫌ってはならない。ただし、自然を無視したがゆえの、粗末なテクノロジや生活慣行が原因で、死にたくはないね、おたがい。

[参考記事]

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2011年3月15日 (火)

大地震大津波(2)

●(人災==コミュニケーション災続き)日本の公務員はものごとへの対応が迅速機敏でない×日本の田舎の人はものごとへの反応が迅速機敏でない==日常的に他者プレッシャー、コミュニケーションプレッシャーというものがない。公務員にあるのは、(なるべく何もしないことによる)自己保全プレッシャーだけだったりして、たとえば。

●不思議: 地震津波の歴史的常襲地に、伝統的な生活の知恵(家の建て方、まち作りの仕方、域内連絡の仕方、etc., etc.)が見られないのはなぜか? それらがあり、それらが機能してれば、原発建設は最初からノーだったはず。

●原発=言語道断の未熟設計(なんであんな設計が許されてしまうのか?)。今の家庭用暖房器具は、ちょっと揺らしただけでも確実に消火遮断するのに。原発は、作るなら新宿中央公園と皇居に作れ。

●でも、自然現象としては、当たり前の一部、ふつうの一部、正常の一部。ときにはそれに、地域の生物の大量死も含まれたりする。

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2011年3月12日 (土)

大地震大津波

各現地の具体的な詳細を知らずに、きわめて概念的に言うのだが、人身被害のかなりの割合が人災、しかもコミュニケーション災であると見える。報道をざっと見ると、津波警報から津波第一波の襲来までの最短時間は、だいたい30分だ。市役所から集落(や事業所等)末端までの"コミュニケーション伝播の波"が、どれぐらい「速く」てしかも「密」だったのか? …このあたりのことが、すべての市町村で、相当、「疎」だったのではないかな。

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2011年3月11日 (金)

都知事選

都の重要課題や都民の重要ニーズの正しい認識があって、それらの実現ならこの人(or私)という、唯一のあるべき運びが皆無のまま、出馬者選考だけが騒々しく空回り。

とくに自民党は、自分たちがだめになった原因、みんなからそっぽ向かれてしまった原因を、いまだに自覚していない。今回も、その「原因」を、またまた再演しているだけ。本物の馬鹿の特徴は、(どんなに説明されても)自分が馬鹿であることをまったく自覚できないこと、だろう。


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2011年3月10日 (木)

土人たちの音楽性

Amazon(Japan)における日本のクラシック(!?)のベストセラーは、サラ・ブライトマン、BGM集「images」第11巻、頭が良くなるモーツァルト療法、だそうだ。

どれも、ほぼ等しい量のくだらなさの臭気を放っているが(土人は音楽を他者の表現/作品として聴く能力がない)、時間もないのでここではブライトマンを。

すぐに分かるのは、歌唱や発声の基本訓練をまったく経ていない人の歌声であること。また、一瞬々々に自分がどんな音(声)を出しているかという認識・自覚と、自覚に基づくコントロールがないので、フレージングが雑で汚く、曲としての構成感ゼロ。

問題は、太平洋の片隅の小島の土人たちに、なぜこれが売れるのかだ(世界のEMIではなく、EMI Japan限定)。やはり、音楽をきちんと他者の表現としてでなく、自分の心理的汚物の排泄補助として勝手な思いこみ的に利用・搾取しているからだろう。つまり、演歌の消費形態。ショパンなども日本では、演歌の一種として“消費"されている。

明確な他者概念がなく、したがって他者とコミュニケーションしようとしない人たちの、音楽の聴き方、というより使い捨て消費の仕方。ロックのほとんども、そうだったかな?

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自己論のスケッチ(1−5)

重要なのは「自己」ではなく、自己が自己であることの自覚、「自己意識」である、というところまで本論は到達した。

さて、各自己に自己意識…自己の絶対的全宇宙的尊厳・神秘性・絶対的孤独の自覚…を持っていただくことが、コミュニケーション有能化に向けての唯一最大の鍵であるが、そのためには、

最広義の教育者が、子どもをほめて育てる、おだてて育てるのが有効と思われる。
(そのためには、子ども一人々々の個性の敏感な感取という能力、ないし心がけが必要である。)

言い換えると、全自己に、それぞれ、「天上天下唯我独尊」意識を持っていただくのである。
(そうすると、心の中核的自覚的軸、というものができあがり、常時自覚的に保持されるから、犯罪へ走ることも抑止されるだろう。)
(もちろん、兵士という代替可能な消耗品になることも、完全に抑止されるから、人類社会から戦争は消える。)

自己とは、交換可能でないから、トレード強迫も消え去るであろう。
(等価な交換可能品のない、ありえない、唯一無二の宝石だ、自己とは。)

人類のコミュニケーション有能化へ唯一最大の鍵、それが自己意識である。

(本稿未完)

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2011年3月 8日 (火)

人格虐待とそのエコノミー

イギリスや日本で"内容のない君主制"という人格虐待が無意識無反省に持続するのは、それによって得られる(と当人たちが思いこむ)エコノミーがあるからだ。

何かを、しなくてすむエコノミー。その精神の怠慢のしわ寄せが、killing Masako, killing Dianaだ。無意識無自覚の残虐。

なんで王子の結婚に騒ぐのか、言ってみろ!と言っても、彼らは理解可能な説明ができない。
(試しに、天皇制擁護者は、その根拠を説明してみろ! 子どもにも分かるように。)

太平洋の片隅の小島の土人たちと、大西洋の片隅の土人たち。どちらも、コミュニケーション能力が立ち後れている。

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2011年3月 7日 (月)

日本の民主党という現象

昔と変わらず今も、いや一般的に、ダメな政権ができる唯一の原因は衆愚である。戦争こそないが、今の日本社会はすでに相当ダメな段階まで没入しているのかもしれない。

このブログのどこかにも書いたけど、民主党という名前を見ると私の脳は急にピント機能の壊れたカメラのようになって、なんら明確な像を結ばなくなる。言い換えると民主党という党には、政党としての明確な像がない。言い換えると民主党には、政党の資格がない。

そしてもちろん、民主党には政治家らしい政治家は一人もいない。

ではなぜ、このような(非)政党が伸び、政権党にまでのし上がったのか。その原因が衆愚である。みんな、勝手でばらばらな矮小な利己的な動機に基づいて、民主党候補に投票している。当然ながら無能なダメ政権ができあがる。ダメ選挙民の投影としての、ダメ民主党。一種の、政治的末期症状である。

さて、かつて「ロックからの散弾銃」という本(1980年)で、地球上でもっともダメな地域として描いたアラブイスラム社会(2003年末にも同様のことを書いてるようだが)が、世代の交替とグローバルコミュニケーションメディア(とくにインターネット)の普及を原動力として、大きな変動を開始している。

ということは、次は中国、ビルマなどから始まるアジアであり、さらにその次はインドやアフリカだ。今世紀半ば以降は、全世界が未曾有の大動乱の時代になる。全世界がというのは、アメリカ、ヨーロッパ、日本等も、その余波で変わらざるを得なくなるからだ。たとえば、中国における改革活動の本格化は、日本社会にも大きな亀裂と動揺を生じさせるだろう。

私が衆愚の一人でなく、これまで真剣に勉強し真剣に思考してこれたのは、その原因として戦争ショックとその前後時代の超貧困ショックが大きい(幼少時の私のタンパク源はおじいさんが作ってくれたネズミの醤油焼きだ)。その意味で、明らかに、1950年代以降生まれの日本人は、相当退化している。

しかし、これから始まる全世界的大動乱は、その与えるショックの大きさたるや、かつての愚かな戦争の比ではないだろう。その動乱を、大きなプラスの前向きのテコとして利用できる本格的な政党ないし政権が必要なのである。もちろん、今国会等を構成している既存政党は、どれもダメである。

私はこれまで、真の政党のあるべき姿も書いてきたし、本当に必要な日本社会の深耕についても書いてきた。関連して、トレード強迫の非一般化・低位化・相対化をしつこく主張したし、意識の立つ地平を、旧来の「ローカルコミュニティ(共同体)」から「グローバルコミュニケーション」に変えるべきことも書いた([関連して(1)]、[関連して(2)])。そして象徴的に重要なことの一つが、人格虐待である天皇制をやめることだ。まとまった著作のようなものはないので、これからのグローバルなコミュニケーション社会について真剣に勉強したい人は、ぜひ、私のこのブログや、その前のエッセイ集をお読みいただきたい。

衆愚を開明していく力は、最広義の「教育」である。まず、教育のかなりの部分が、衆愚でなくなることが重要だ。幼いころの、おもしろい/特異な人のおもしろい/特異なひとことや表現行為が、その後の人格に与える影響は大きい。その意味で本ブログの読者は、これから一貫して、何らかの意味での教育者であっていただきたい。

本ブログが志向しているコミュニケーションの科学というものも、やはり世界的大動乱の中からやっと生成してくる、と見るのが妥当だろう。

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2011年3月 1日 (火)

人格虐待とコミュニケーション有能化

なぜ、天皇制が人格虐待であり、したがって早急に廃止すべきかというと、人間の、ああゆう状態、および、人間をああゆう状態に置いておいて平気でいることの両者は、コミュニケーションの抑圧だからである。一人の人間、完全に孤独な一つの「個」としての自由闊達なコミュニケーションが、まったくできない。その状態では。

だから天皇制を放置し、あるいは肯定する人びとは、人類の宿痾である「コミュニケーション不能」を肯定放認しているのである。重大な、犯罪的行為である。

コミュニケーション理論/コミュニケーション学が私のライフワークになってしまったことには、不安と恐怖に充ち満ちた戦時下に生まれたての幼児であったことの影響が大きいと思われる。で、みんな、戦争はいやだ、二度としてはならない、とか言うものの、戦争の原因が指導者の愚ではなく、「衆愚」としてのコミュニケーション不能であることを自覚していない。衆愚の蓄積は、いつ爆発してもおかしくない「戦争爆弾」である。

衆愚から衆賢に一歩でも進歩するためには、漠然と、曖昧に、根拠不明に、天皇制を護持することをやめて、「あれは人格虐待だ。雅子さんらが気の毒だ」と自覚して、廃止に向けての声を興すことである。それにより、戦争に二度と落ち込むことのない強固な衆賢が築かれるための、基礎ができるであろう。

あのチャールズだって、自由な個人でないことが、とってもいやなんだよ。分かってやれ! イギリス人大衆も、日本人衆愚と並んで、バカの優劣付けがたいね、まったく。[参考URL]

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