自己論のスケッチ(1−6)
---主観にとり、世界との距離はない。(最期の奴隷)
本論の趣旨からいうと、「自然」とか「存在」あるいは「世界」などの言葉を使うべきだが、ここでは原典のままに「神」にしておこう。
(宗教概念としての「神」は、性悪で根強い疎外概念(==究極の外部性概念)であるので、本当は使うべきでない。)
###以下「宗教改革だったキリスト教」の続き###
で、それぞれの孤独な「自己」が、その孤独において、神と直接的に結ばれている==自己は神と無媒介に結ばれているとはどういうことかというと、直接==無媒介==互いに別物ではない、という意味になる。同じ一つのものなのだから、言うまでもなく、"距離はない"。
私は神であり、神は私である。私(自己)は、神(自然、存在、…)から疎外されている何か別物ではなく、神の一部である。むしろ自己は、神の、最中心の重要機能だ。存在の、自己開示という。
他者は、たとえば今私の部屋にいるエイズ猫のココの「自己」は、また別の存在開示として、私の自己という宇宙とはまったく別の--見ることも触ることもできない--宇宙として、しかし私の自己の内部性に属している。このような意味で、あらゆる外部性が実は内部性である。
このような、絶対的な隔絶と絶対的内部性という、最大の絶対的矛盾の中に、コミュニケーションという課題とその可能性がある。言い換えると、他者というものは、安易な外部性--あるいは悪い意味での内部性(自己内への恣意的取り込み)--として存在するものではない。
他者とは、また、別の神様なのだ!!
でも、自分も(同じ、同一の)神様なのだから、多くの場合、互いに友だちになれることは確実だ。
| 固定リンク | コメント (9) | トラックバック (0)
最近のコメント