コミュニケーションという問題意識
コミュニケーション理論ないしコミュニケーション学で、現状の最大の問題点は、日本でも世界でも、多くの人びとにおいて、コミュニケーションが明示的な問題意識になっていないことである。言い換えるとコミュニケーション理論ないしコミュニケーション学は、まだ、その最初の第一歩すら踏み出せないでいる。たとえば、コミュニケーションが明示的な問題意識となった思考の地平でしか、トレード(ないし“トレード強迫")を相対化することはできない。またたとえば、いわゆるテロ問題は、すぐれてコミュニケーションの問題であるはずだが、それが武力と弾圧の課題へと頽落させられたままの状態が久しい。テロ問題は解決しないまま劇症化していく。
日本の(イギリスなども)天皇制は人格虐待である、廃止すべきである、と何度も主張してきたが、いっこうに世論の広まる気配がない。かつて、生まれた子猫や子犬たちを袋につめて川に流すことを、動物虐待だ、やめろ、と言っても、その時代には、誰も耳を貸さなかったであろう。それと類似のことで、人の意識というものには、進化に伴う成熟に待つ、という方策しかないのである。進化しかかっているレベルの人たちには、本ブログの記述などが、ちょっとした尻押しの役には立つだろうが。
今朝(2月23日)のテレビには、保護した(とおぼしき)雑種犬と雑種猫を伴う皇太子一家が登場した。日本人の半分以上、もしくは半分弱は、馬鹿だから、これで皇居が、犬捨て猫捨ての名所と化す危険性が多分にある。というか、これまですでに、それが秘かに常態化していたのかもしれないが…。予感としては、日本の皇室制、天皇制を脱構築していく後戻り不可能な強力な契機を作り出すのは、あの“適応障害"という人をバカにした(まさに人格虐待的!)病名レッテルを貼られている女性と、その娘である登校拒否を敢行した女性、この女性コンビではあるまいか、と思われる。
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