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2011年2月23日 (水)

コミュニケーションという問題意識

コミュニケーション理論ないしコミュニケーション学で、現状の最大の問題点は、日本でも世界でも、多くの人びとにおいて、コミュニケーションが明示的な問題意識になっていないことである。言い換えるとコミュニケーション理論ないしコミュニケーション学は、まだ、その最初の第一歩すら踏み出せないでいる。たとえば、コミュニケーションが明示的な問題意識となった思考の地平でしか、トレード(ないし“トレード強迫")を相対化することはできない。またたとえば、いわゆるテロ問題は、すぐれてコミュニケーションの問題であるはずだが、それが武力と弾圧の課題へと頽落させられたままの状態が久しい。テロ問題は解決しないまま劇症化していく。

日本の(イギリスなども)天皇制は人格虐待である、廃止すべきである、と何度も主張してきたが、いっこうに世論の広まる気配がない。かつて、生まれた子猫や子犬たちを袋につめて川に流すことを、動物虐待だ、やめろ、と言っても、その時代には、誰も耳を貸さなかったであろう。それと類似のことで、人の意識というものには、進化に伴う成熟に待つ、という方策しかないのである。進化しかかっているレベルの人たちには、本ブログの記述などが、ちょっとした尻押しの役には立つだろうが。

今朝(2月23日)のテレビには、保護した(とおぼしき)雑種犬と雑種猫を伴う皇太子一家が登場した。日本人の半分以上、もしくは半分弱は、馬鹿だから、これで皇居が、犬捨て猫捨ての名所と化す危険性が多分にある。というか、これまですでに、それが秘かに常態化していたのかもしれないが…。予感としては、日本の皇室制、天皇制を脱構築していく後戻り不可能な強力な契機を作り出すのは、あの“適応障害"という人をバカにした(まさに人格虐待的!)病名レッテルを貼られている女性と、その娘である登校拒否を敢行した女性、この女性コンビではあるまいか、と思われる。

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2011年2月 7日 (月)

相撲と八百長

ちょっとたっぷり時間がないので短く:

相撲は本来、純粋スポーツや武芸等ではなく、お祭りの興業ないし祭事/神事だ。伝統的に、地元やくざや、地元ボス、地元小役人などが陰でからむ世界。

これまでもすべての世間が、相撲を、日本固有、純粋な近代スポーツでない、という扱いをしてきた。
その罪が、いちばん重いのだ。

だからこれまでの相撲取りのあり方、これもまた(本ブログで何度も言ってる)現代の天皇制と並ぶ、「人格虐待」だと明白に言える。かわいそうなのは、そういう世界に置かれているお相撲さん。

相撲協会と、現行大相撲興業を完全解体し、相撲を世界的な近代スポーツに! もちろんオリンピック種目に(男女あり、そしてプロ参加OKで)!


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2011年2月 4日 (金)

自己論のスケッチ(1−4)

前回まで: (1−1), (1−2), (1−3)

自己というものは、唯一の宇宙的神秘/宇宙的孤独として「ある」ということよりも、コミュニケーションという課題に向けては、その神秘や孤独を自己がはっきりと自覚していることと、それがさらに、あらゆる他己に通ずる普遍性を有していることを推認していることが重要だ。言い換えると自己は、単に自己であることではなく、それが、普遍的真理としての自己意識を有していることがきわめて重要である。それが、コミュニケーションが起発する起点だからである。

「天上天下唯我独尊」は、シッダルタという特定人物の自己宣言ではなく、普遍的に、どの自己意識からも出てくる、自己意識の自己宣言である。全宇宙的孤独、全宇宙的神秘。これまでの人類のあらゆる知(科学、哲学、宗教、…)に、自己に関する、このかんじんの、基盤的共通認識が欠けている。だからそれらはすべて空しく、それらはすべて、人類のコミュニケーション有能への進化という課題に対して有害である。

自己が単に自己として「ある」(即自存在)だけでは、その孤独が自覚されず、したがって他者を他者としてではなく「他己」として見なす視点も生じないから、コミュニケーションは起発しないのである。トレードという地獄の沙汰は、他者とのあいだに生じ、他己とのあいだには生じない。自己とあらゆる他己は、コミュニケーション以前の初期状態として、…自己もまたひとつの他己として(Je suis autre.)…、それぞれ、荒野に屹立しているだけである。砂漠にばらばらに立つモアイ像のように。

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