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2011年1月11日 (火)

コミュニケーション理論の難問(1)

コミュニケーション理論の難問(1)
『コミュニケーション不能』の「共同体」から「個」への移行/継承

1-1 共同体内部
共同体内部では、その共同体の「ならわし」と「ローカル権力による決定」(その最末端が男権〜父権)がすべてなので、コミュニケーションというissueは発生しないし、存在しない。コミュニケーションの主体としての「個」が、共同体内部には存在しない。

1-2 間共同体
間共同体においては、戦争とトレードと差別(相互排他)を主な現れとするところの「コミュニケーション不能」が、諸問題を'解決'するとともに、その基調低音たる排他性が各共同体の存立そのものを支える。

#今でも、反中国が、喉元過ぎて60余年、再び日本共同体の存立根拠となりつつある感触が。おとろしか。

1-3 脱共同体
トレードはトレードのネットワークを作りだし、それが、新たに生まれたグローバルとして共同体ローカルをおびやかし、共同体の成員をジェネリックな「個」として拉致することによって、共同体を弱体化し空洞化する。

だが、その「個」は、共同体性の尾てい骨を頑固に保持している。というか、かつての共同体の規範と慣わししか、"生き方の形"を知らない。その形を維持するために、婚姻〜家族、企業、いじめ集団などの、仮想共同体を生成維持しようとする。そこに、"トレードする個"や"結婚する個"という奇妙なものができあがる(参考記事)。

難問(1)そうやってまんまと、旧い、共同体性を取り込んでしまった個が、そのコミュニケーション不能を無反省なままそっくりそのまま継承してしまうのはなぜか? それは、遺伝子がそれを引き継いでいることの結果としての、短期的な錯覚(共同体ではないのに共同体として振る舞う)、ですまされることか?

(しかし、何度も言っているように、その錯覚--個がまるで共同体として振る舞うこと--は悲劇しか生まない。たとえば、本物の共同体が行うトレードは、共同体内部にありとあらゆる緩衝材を持っていたが、多くの場合個は、緩衝材を持たない。…それを持たないことこそ、個というものの、コミュニケーション有能へ向けての、すばらしさであるのだが。)

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コメント

新しい、今はまだないコミュニケーションを考えておられるのですね。

これから創り出していかなければならないコミュニケーションについて。

旧人類だったことに無自覚だったもので無理解を重ねて来てしまっていました。

投稿: 南 | 2011年1月11日 (火) 11時08分

今年も始まりましたね!
コミュニケーション学
続けて欲しいです
まったくもって
そのとおりだと思うと
同時に
そのように実践しよう
と思うと
たちまちマイノリティに
なります。
あっ、 うちらの中には
入らないつもりなのね、

解釈されるみたい。
茨の道ですが、学びの
道を志したのですから
当然なのでしょう。
話せる人のレパートリー
増えてるゾ
みたいな手応えだけが
励み、 かな?
今年もヨロシクね

simomitu

投稿: 下光博之 | 2011年1月15日 (土) 00時43分

個体同士が、(裸の)個としてコミニュケートできたら良いのでしょうか。

投稿: bad | 2011年1月17日 (月) 05時47分

@iwatani
>本物の共同体が行うトレードは、共同体内部にありとあらゆる緩衝材を持っていたが
例えば企業の場合、終身雇用制度なんかのことでしょうか。

「家族愛」という言葉を考えると、なんでそんな狭所的な愛を最善視するのかさっぱり分からない。まるっきり分からない。責任の問題? なにを言ってるんだい。そんなのは責任とは言わない。責務か執着というのである。とにかく囲い付きの愛なんて、絶対に要らないのである。

投稿: ohiya | 2015年3月14日 (土) 03時03分

女の母性本能が恐ろしいのか。
女の自己と体の同一視が恐ろしいのか。
男の権力欲が恐ろしいのか。
男の自分勝手が恐ろしいのか。

投稿: ohiya | 2015年3月14日 (土) 03時40分

女性は女性に付くと言いますか、だから女性というのは母親に付くのではないでしょうか。そこに母性本能も加わり家庭というか家族を持とう、固定しようとする。男はその点デラシネというか根無し草的に、外にフラフラ動くのが好きなんじゃなかろうか。で、支配管理する側にとっては家系家族として固定したほうが、管理しやすいから女性の側に味方して、男の播種本能を人間のモラルに反するとして弾圧する。播種本能も普通に母性本能や睡眠欲と、同じ本能なのに男は不幸である。
なんかこういう男と女の性能や資質の違いというのを、どちらも認め合う必要がある。勿論男女の中にも、例外はいますが。

で、男の歌う唄にはやたら去っていくのが多い。バドカンのリービング ユーやジュリーのサムライ。フリーのSoon I'll Be Gone等など。

で、男女とも全く同じ性質で、例えば播種本能しかなかったら人類というのはもっと早くに絶滅していただろう。だから両者とも相反する、そして補完する本能を持っていることを肯定すべきである。要は、これまたバランス・コミュニケーションのような気がする。

投稿: ohiya | 2015年3月29日 (日) 09時33分

で、アッシなんかは木枯らし紋次郎が好きなわけでござんす。ご免なすって。

投稿: ohiya | 2015年3月29日 (日) 17時07分

生物学的にみて、オスの精なんて植物の花粉みたいなもので、空中をフラフラ飛んで、地に足のついた雌しべに受精するのではなかろうかいななんちゃって。無責任極まりない。

投稿: ohiya | 2015年4月 5日 (日) 07時48分

>だから両者とも相反する、そして補完する本能を持っていることを肯定すべきである。

肯定するためには、両方に同等の尊厳を認めなくてはならない。いま、母性本能に与えている権利を、播種本能にも与えてやらなければ、肯定・止揚することはできない。なんだ、「浮気」とか「不倫」とかいう言葉は。大きなお世話である。そんな風にマイナスのイメージで脚色して欲しくない。母性本能と播種本能、二つで一つである。どちらもお互いに、尊重していく事である。どちらかが一方的に悪いということは、有り得ない。アウフヘーベン。

投稿: ohiya | 2015年4月18日 (土) 00時52分

「家族愛」の続きだが、「男なら家の主人らしく家族を守れ」なんて昔は言ったが、何から守れと言うのか。そして守らなければならないような、危険で恐ろしい社会なのか。
アッシにしたら、その危険な社会を治す方が本質だと思う。守らなくてすむような社会に、脅かされずにすむ社会に正すことが問題じゃないのかい。
こんなことを言うと、また世間から空論・理想論と言われてオシマイになるのだろうか。(時間がありませんでした。)

投稿: ohiya | 2015年4月22日 (水) 08時02分

で、朝の連ドラで、家族が昔のアルバムをひもといて、しみじみと子供の小さい頃の写真を愛でているシーンあった。それを見て嫁さんに「家族ってそんなに大事なんだろうか。家庭ってそんなに最強の単位なんだろうか。」と言ったら「アンタ、ダラやねー。ダラやわ~。」と思ったとうりの返事が返ってきたので、思わず「ぎゃははは。」と大笑いしてしまった。やはり女というか主婦というかは、先ず家があっての世間なのだろうか。
だけどこれから先、低賃金で働かされ、我慢も苦手な若い世代にとっては、今の結婚という制度のハードルはとても高いのではないだろうか。だから、一人暮らしで家庭を持たなくなって人口減少。だからこれからは、小さな共同体(家庭)というよりは、裸の個人と個人とのつながりとか関係性に重点がいくのじゃないだろうか。で、具体的なつながりは、より社会化され誰もがアクセス(を簡便に)できて充実していくような方向に進むのがいいんじゃないだろうか、と。

投稿: ohiya | 2015年4月22日 (水) 21時40分

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